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●日経スペシャル カンブリア宮殿 「最強のブランドを作れ!」 〜自己否定から新商品が生まれる〜 シヤチハタ株式会社会長・舟橋紳吉郎

会社や家庭など、生活のあらゆるシーンで使われているシヤチハタのハンコ。シヤチハタの代名詞、インクの補充なしでも5〜6000回捺せる「ネーム印」は、朱肉やスタンプ台を使わない浸透印としては国内シェア8割近くを占める。もちろんシヤチハタが発明したものだ。驚くことに、誕生から43年経つネーム印は今も発色や鮮明さなど、進化を続けているという。大正時代にスタンプ台のメーカーとして出発したシヤチハタの歴史は、“自己否定”とも言える商品開発で進化してきた。スタンプ台メーカーだったにもかかわらず、スタンプ台のいらない「ネーム印」を生み出し、さらにペーパーレス時代に対応したネーム印のいらない「電子印鑑システム」にも取り組んでいる。素材から最終商品まですべてを自社で手がけ、時に“自己否定”も辞さずに新しい商品を開発し続けてきたシヤチハタ。「あえて今を拒否する」ことでヒット商品を生んできたシヤチハタ主義を聞く。

◎“自己否定”が大ヒット商品を生む!シヤチハタ 挑戦の歴史
1925(大正14)年、シヤチハタはスタンプ台メーカーとして出発した。使うたびにインク瓶からインクをスタンプ台に補充するのが当たり前だった時代に、シヤチハタが開発したのは、インクを補充せずに連続して押せるスタンプ台だった。開発したのは会長・紳吉郎氏の父、高次氏である。時代は進んで昭和の高度成長期、シヤチハタの開発魂がまた発揮される。経済発展で企業の事務作業も格段に増える中、作業の合理化・機械化が求められていた。「いちいちスタンプ台を使ってハンコを押すのは手間がかかる。スタンプ台とハンコを一体化すればもっと使いやすいものになるのではないか?」、すぐに新しいハンコの開発が始まった。しかし、インクとスタンプ台を生業にしてきたシヤチハタにはゴム印を作る技術がない。この頃入社していた紳吉郎氏を中心に研究開発を重ね、ゴム印にスポンジ状の穴が開いていてインクが浸透するという仕組みを知った。様々な失敗を繰り返し、最終的に辿り着いたのは「塩」。ゴムを成型する時に塩を混ぜておき、後でお湯につけると塩が溶け、細かい穴が残るという仕組みを開発した。こうして1965年、ゴムからじわりとインクが出てくる浸透印「Xスタンパー」を発売。最初は「請求書在中」などのハンコだったが、68年にはネーム印も売り出した。「Xスタンパー」の誕生は、それまで生業だったスタンプ台を否定することになってしまう。しかし、その自己否定をいとわない開発精神が、今も年間600万本売れる大ヒット商品を生んだ。さらにシヤチハタは、新たな“自己否定”商品に取り組んでいる。パソコンが普及し、業務のペーパーレス化が進む中、売り込んでいるのは「電子印鑑システム」、ネーム印の否定にもなるが、時代を見据え、いち早く挑戦している。

≪ゲストプロフィール≫
舟橋紳吉郎(74歳)
1936年 創業者・舟橋高次氏の次男として名古屋市に生まれる
1960年 明治大学経済学部卒業、シヤチハタ工業(現シヤチハタ)入社
1977年 社長就任
2006年 息子正剛氏に社長を譲り、会長に就任

≪企業情報≫
本社所在地: 愛知県名古屋市
売上高: 171億円(連結・2010年3月期)

1925年 舟橋商会を創業。「萬年スタンプ台」を開発、発売
1941年 舟橋商会を改組し、シヤチハタ工業株式会社を設立
1965年 浸透印 「Xスタンパー」発売
1970年 大阪万博に出展(様々な企業パビリオンにXスタンパーの記念スタンプが置かれた)
1995年 電子印鑑システム「パソコン決裁」発売
(original text from TV-Tokyo site)

テレビ大阪 54min 2010-12-16 Air check by Sony Giga Pocket Digital 2.0 Stereo





●日経スペシャル カンブリア宮殿 「村上龍×世界最大市場 中国自動車革命の旗手」 吉利自動車副総裁・趙福全

今年、中国のGDPは日本を追い抜き世界二位になる。世界同時不況をものともしない経済成長で、去年、自動車の販売や生産でも、世界一となった。中国では、国内に技術を蓄積する政策のために、外資と国の合資会社が原則になっている。その中国で、いま、世界の注目を集める「民営」自動車メーカーがある。浙江吉利控股集団、ジーリー自動車だ。1986年に冷蔵庫メーカーとして設立。創業者の李書福は、1997年に「庶民が買える中国製の車をつくる」と宣言。98年から乗用車の量産を始めた。5万元(約65万円)以下の激安小型車で、中国の自動車市場に価格破壊を巻き起こした。そして、自動車事業に参入してわずか12年でボルボを買収した。その吉利の急成長をけん引するのが、副総裁の趙福全。広島大学で機械工学を学んだ開発者で、ダイムラー・クライスラーでも技術総監の要職を務めた。2006年に李書福にヘッドハンティングされ、吉利の自動車開発の総責任者に就任した。2009年、吉利の年間販売台数は30万台強だが、吉利は世界ブランドとして勝ち残るために、2015年に200万台という販売目標を掲げる。目標を実現するために、新車種を一気に開発し、吉利のイメージを「激安」から「品質」へと転換させることが、趙福全の使命だ。趙福全はまず、安いが品質も悪い既存車種を、廃番にした。そして2015年までに、新たに30車種を開発する計画をぶち上げた。そして、わずか5万元(約65万円)ながら安全性に優れる「PANDA」を大ヒットさせる。自主開発能力を強化する為、人材戦略も強化する。吉利は、中国に、大学3校と、専門学校1校を設立。国外で活躍している優秀な人材を次々と呼び戻した。さらに、現役を退いていたシニアを中心に、日本など海外から優秀なエンジニアのヘッドハンティングを進めている。国の支援も受けず、外資系とも協力せず、独立系の民営自動車メーカー、吉利が、急速な成長を実現したのはなぜか? ボルボを手に入れた吉利が描く、世界戦略とは? 世界最大市場、中国を村上龍が緊急取材。中国車・自主ブランドの旗手を、村上龍が斬る。

1986年 冷蔵庫メーカー「吉利」を設立
1994年 オートバイ生産に進出
1998年 中国民営自動車メーカーとして初めて乗用車の生産を開始
2006年 ダイムラー・クライスラー社から趙福全をヘッドハンティングする
2008年 PANDA生産開始
2009年 帝豪ブランド生産開始
2010年 ボルボ買収
(original text from TV-Tokyo site)

テレビ大阪 54min 2010-12-23 Air check by Sony Giga Pocket Digital 2.0 Stereo





●日経スペシャル カンブリア宮殿 「ニッポン人よ、大志を抱け!」 〜夢を仕事にした人スペシャル〜

「就職“新”氷河期」と呼ばれる日本。「希望の職業でなくても、雇ってくれるなら・・・どこでもいい」という大学生も多い。就職はしたものの、「やりたい仕事ではなかった」と、3年以内に離職する大卒新人が4割近くにも達している。中には、就職することさえ忌避する若者さえ増えているという。原因は「将来なりたい職業(夢)を持てない」からだ。ある調査によると、将来なりたい職業が「ある」と答えた高校生は5年前に比べて16%も減少。50%の高校生にしか、なりたい職業がないのだ。しかも「子供の頃から夢見た希望の職業」があっても、現実にその仕事に就けた人はわずか14%に過ぎないという。一方、中国では「金持ちになりたい」という13億人の思いが原動力となり、驚異的な経済成長を成し遂げている。そこで今回は、子供の頃から“夢を持ち・追いかけ・叶えた”という3人のゲストを招き、夢を仕事にする『楽しさ』と『苦労』、そして『充実感』について、「13歳のハローワーク」の著者、村上龍が問う“新春企画”だ。ゲスト3人の共通点は「好きなことを仕事にしたこと」。それぞれ苦難の道のりを再現ドラマとドキュメンタリー取材で浮き彫りにして行く。

◎千葉工業大学 未来ロボット技術研究センター所長 古田貴之(42歳)
7年前、若干35歳で千葉工業大学傘下の未来ロボット技術研究センターの所長に抜擢され、数々の国家プロジェクトにも関わる若手No.1のロボットクリエーター。子供の頃は鉄腕アトムやガンダムに憧れ、「いつかヒューマノイドロボットを作りたいと夢見た古田だったが、中学時代に脊髄の大病を患い、余命8年と宣告される。奇跡的に回復したのち、車椅子に頼った不自由な体験から、「不自由なものを不自由でなくする」という独自のロボット開発に向かわせた。

◎「ポタジエ」オーナーパティシエ 柿沢安耶(33歳)
女子小学生憧れの職業No.1が「パティシエ」だ。中でも“世界初の野菜スイーツ専門店「ポタジエ」のオーナーパティシエ柿沢のスイーツが多くの女性の心を掴んで離さない。子供の頃から「食に関する仕事がしたい」と夢見ていた柿沢は大学時代にフランス料理に傾倒。卒業後はカフェやフレンチレストランで働いたのちに結婚。夫の実家である栃木・宇都宮で有機野菜と出会い、「野菜を食べて欲しい」、その一途な想いからスイーツ専門店をオープンさせた。「もっと野菜の良さを知ってほしい。」柿沢は新たな店を出す決意をし、新たなメニュー開発にまい進している。

◎銀河鉄道(世界一小さいバス会社)社長 山本宏昭(47歳)
“バス馬鹿”を自称する山本は“バスマニア”が高じてバス会社を興した男だ。子供の頃からバスの運転手を夢見たが、願い叶わず、家業の酒屋を手伝いながら、“マイカー”ならぬ“マイバス”を購入。趣味で運転するが、それは山本の本当の夢ではなかったと気づく。「バスの運転手は客の笑顔を運ぶ」・・・本当にやりたかった夢は「笑顔を運ぶこと」。山本は36歳にして、再度、夢への挑戦を始めた。そして世界一小さなバス会社『銀河鉄道』を設立。東京の郊外・東村山市で路線バスを走らせている。社員40人、20台のバス。赤字が続いているものの、少しずつ夢を叶えている。
(original text from TV-Tokyo site)

テレビ大阪 54min 2011-01-06 Air check by Sony Giga Pocket Digital 2.0 Stereo





●日経スペシャル カンブリア宮殿
「“成熟市場”で急成長の自転車チェーン 世の中に必要とされる存在になれ!」 あさひ社長・下田進

サイクリングブームの追い風を受け、自転車製造販売チェーン「あさひ」の急成長が続いている。大阪の小さな玩具店から出発したあさひは、今では全国に約230店舗を展開する最大手となった。だが斜陽産業といわれた自転車業界において、なぜあさひは急成長を遂げることができたのか? その原点には、社長の下田の過去の苦しい体験があった…。下田は言う。「大切なのは、売り上げより何よりも来客数」。客にとっての“ほんとうの満足”を自転車ビジネスで追求してきた、あさひの経営哲学とは?

◎10人のうち1人が買う!日本一の自転車屋「あさひ」
店に1000台に上る自転車を整然とディスプレイする「サイクルベース あさひ」。色とりどり、スポーツタイプから幼児用まで年間販売台数は100万台を超える。日本で売られる自転車の実に10台に1台はあさひが売った計算だ。「売れる店」の秘密は、その徹底したサービス。他社が売ったどんな自転車も喜んで修理。パンクなら10分以内で完了。修理料金も店内に掲示しており、客は「安心して任せられる」と喜ぶ。下田は言う。「その地域の客にとって、なくてはならない店になることが大事なんや!」。

◎「売れないのはもう嫌だ!」人に必要とされる店作りの原点
下田の原点は、22歳で家業のおもちゃの販売を始めたときにさかのぼる。店をオープンしたものの、近くに大きなスーパーができると1日の売上げが1000円にもならない状態が続く。売れないことの辛さを徹底的に味わった3年間。下田は思った。「人に必要とされないことがどんなに辛いことか。人に求められないと生きている価値がない」。起死回生の思いで取り組んだのが、自転車屋だった。自転車の販売といえば、スーパーやホームセンターの量販店(今でも7割がこのルート)。しかしその殆どが、売りっ放しで、故障しても専門スタッフもおらず直せない状況だった。下田の策は、量販店が切り捨てたサービス人材力。信頼される自転車のプロを育て、“売り手”の都合を排した“客目線”での店作りが圧倒的な支持を得て来た。

◎まだまだ売れる!成熟市場だからこそ、見落とされる客目線
そんな下田が力を入れているのが、「あさひ」独自のPB(プライベートブランド)自転車の開発と販売だ。例えば人気となったビジネスマン向けの自転車では、ペダルを革靴でも滑らないように樹脂をつけ、カゴは通勤カバンを入れやすくするため横幅を広いものに。大手が自転車の機能にこだわる余り、軽視して来た“客目線”のオリジナル自転車作りだ。直接設計を手掛け、中国の工場に委託して造っている。まさに自転車業界の“ユニクロ”だ。放置自転車の問題にも取り組む下田は、自転車を本当にエコな乗り物にしたいと話す。時代の流れが向こうから、やってきた。

≪ゲストプロフィール≫
1948年 大阪府生まれ 63歳
1966年 府立旭高校を卒業後、玩具卸の仲村商店に入社
1970年代初め 自転車販売を始める
1975年 取締役
1992年 現職

≪企業情報≫
1949年 創業
1975年 「株式会社旭玩具」として大阪市都島区に設立
1982年 「サイクルベースあさひ」1号店を大阪府吹田市にオープン
1992年 現在の「株式会社あさひ」に商号変更
2004年 JASDAQ上場
2007年 東証1部上場
従業員数674人、売上高260億円、経常利益37億円(10年2月期)
(original text from TV-Tokyo site)

テレビ大阪 54min 2011-01-13 Air check by Sony Giga Pocket Digital 2.0 Stereo



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