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●知楽遊学シリーズ こだわり人物伝 「升田幸三 伝説の棋士」 作家…大崎善生

現役の名人を相手に、香車落ちのハンディで勝利した天才棋士、升田幸三。「新手一生」を座右の銘に常識に囚われない新手を数多く編み出し、現代の将棋界からも高く評価されている。「1日煙草は300本、酒は3升。」升田は、無精ヒゲに着物姿で言いたい事を放言する、豪放磊落な昭和の棋士でもあった。作家の大崎善生さんは、将棋でも私生活でも「常識=定跡」に立ち向かった升田の生き方に、スピードを増す現在社会を生き抜く強さを見るという。毎回伝説の一局とともに、升田幸三の人生をたどる4回シリーズ。トップ棋士・谷川浩司さんの分析を交えつつ、大崎さんがその魅力を語る。
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大崎善生…1957年生まれ。作家。雑誌「将棋世界」編集長を務めた後、『聖の青春』(2000年、講談社文庫)、『将棋の子』(2001年、講談社文庫)といったノンフィクションで評価を得る。他に小説『パイロットフィッシュ』(角川文庫)、エッセイ『編集者T君の謎 将棋業界のゆかいな人びと』(講談社文庫)など。


第1回 「月に吠える」
升田は20代のほとんどを戦地で過ごした。はるか南の島で「常勝将軍」とも呼ばれた時の名人木村義雄との対戦を願い、月に向かって吠えた。「木村生きていろよ」。昭和26年、升田は念願だった名人戦の挑戦者となる。シリーズ一番の熱戦となった第十期名人戦第6局。升田は負ける事も恐れない攻めの一手を放つ。そこには「美しい将棋を指したい」という、まるで芸術家のような、升田の勝負哲学があった。天才といわれながら、実は多くの敗北を喫し、そのたびに後世に残る新戦術を編み出した升田幸三。「勝負の美学」を貫いた升田の生き方を大崎さんが辿る。

第2回 「名人の上」
升田の人生は、数々の豪快な伝説に彩られている。色紙には自らの肩書きを「名人の上」「超名人」「大名人」と書いた。自由奔放な言動から「ホラの升田」と呼ばれることもあった。その原点ともいえるエピソードがある。将棋指しを目指し13歳で家を飛び出す際に、母親のものさしに「名人に香を引いて勝つ」と書いたという。「名人に香車落ちのハンディをつけて勝つ」という途方もない志だった。20年後の昭和27年、升田に幼い頃からの夢を現実にするチャンスが訪れた。創設されたばかりの第一期王将戦第5局。升田が勝てば香車を落として戦う、香落ち戦が実現する。この対局で升田は、意外にも慎重な一手を指す。豪快なキャラクターに隠された升田の素顔を大崎さんが探る。

第3回 「史上最強のライバル」
升田にとっての生涯のライバルが、通算獲得タイトル80期という、将棋史上最強の棋士、大山康晴だった。「攻め」の升田に「受け」の大山。「将棋は芸術」という升田に対し、「平凡は妙手に勝る」という大山。2人は棋風も性格も対照的だった。昭和27年、弟弟子だった大山が名人の座についた。一方、升田は病に悩まされ不調の時代を過ごした。5年後の昭和32年、升田は「王将」「九段」のタイトルを獲得し、残るは大山が持つ「名人」のタイトルだけだった。第十六期名人戦第6局。升田は史上初の三冠王に挑戦した。この対局で升田は、大山の一瞬のミスを見逃さない鋭い一手を放った。将棋という相手がいなければ成り立たないゲームで、名勝負を何度も繰り広げた2人のライバル関係を大崎さんが読み解く。

第4回 「未来をよんでいました」
升田は生涯に渡って新手を編み出し、時代をはるかにリードした棋士だった。将棋に正解を求める無垢なその姿勢から、羽生をはじめ現代のトップ棋士のほとんどが、一番対戦したかった棋士に、「升田」の名をあげる。40代を迎えた升田は体調を崩し、休場を繰り返した。しかし升田は、60歳になってもタイトルを獲ると公言。昭和46年には、53歳で奇跡の復活を遂げ、名人戦に挑んだ。第三十期名人戦第3局。升田は将棋界を揺るがす一手を放つ。当時の常識を破る新戦術「升田式石田流」の登場だった。その戦術は、コンピューターによる研究が進んだ現代の将棋界で今なお応用されている。升田の人生を貫いた「新手一生」の世界を大崎さんが味わう。
(text from NHK site)

NHK教育 25min 2011-02-02〜 Air check by Sony Giga Pocket Digital 2.0 解説副音声





●知楽遊学シリーズ 仕事学のすすめ 「堤幸彦 超多忙流 創造術」 映画監督・演出家…堤幸彦

いま日本映画界で最も仕事をまかせたい監督といわれる堤幸彦さん(55歳)。コミカルな推理ドラマ「トリック」、認知症をテーマにした「明日の記憶」、人気SFコミックの映画化「20世紀少年3部作」など、毎年2〜3本の大作や長編テレビドラマを手がけ、斬新な映像とコミカルな演出で観客を飽きさせない。堤さんの仕事哲学は「来た仕事は断らない」。そのため日本一忙しい映画監督といわれ、いわゆる“早録り”を得意とする。しかし、同時に映像にもこだわる。数々のヒットを生み出してきた驚異の仕事術に迫る。(トランスレーター: 勝間和代)
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堤幸彦(つつみゆきひこ)…1955年、愛知県生まれ、映画監督・演出家。TBSのバラエティ番組でディレクターデビュー。その後日本テレビ「コラーッ!とんねるず」の演出、音楽のプロモーションビデオ制作などを手がける。1995年に放送されたドラマ「金田一少年の事件簿」が大ヒット。以後「池袋ウエストゲートパーク」「トリック」などで斬新な映像表現が話題を呼ぶ。更にそうしたテレビドラマが映画化。最近では「20世紀少年」「BECK」など。2011年には舞台「琉球ロマネスク テンペスト」の演出も手がける。


第1回 「巨大チームの動かし方」
堤作品の魅力は短いカットの積み重ねが生むスピード感。膨大なカット数を限られた時間の中で撮影することを可能にしているのが堤組と呼ばれるスタッフである。俳優を入れると100人を超える現場でチームを結束させるため、堤さんが心がけているのが楽しく仕事をすること。俳優に自由にアドリブで演技させたり、自分でも面白いセリフを考える。またスタッフからも笑いのアイディアを募り過酷な現場が少しでも和むような雰囲気作りをしている。堤流仕事術に迫る。

第2回 「挫折経験が飛躍を生む」
映画やドラマでヒットを連発する堤さんは、これまで数々の挫折体験をしてきた。学生運動に幻滅して大学を中退、映像の専門学校に入ったものの仕事は情報番組のアシスタントディレクターから始まった。使えない人材として“電信柱”という屈辱的なあだ名をつけられ、やっとディレクターとなった時には、自分の希望しない高齢者を対象にした演歌・カラオケ番組だった。しかし、くさらず経験を積み重ね今の地位を築いた。堤さんに挫折をどう乗りこえたかについて聞く。

第3回 「突破口を見つけろ」
スケジュールが許す限り仕事を断らないという堤さん。様々なジャンルの仕事をどうすれば面白く演出できるのか。堤さんは何か糸口があれば必ず突破口が開けるという。例えば、池袋ウエストゲートパークというドラマでは、映像を池袋駅周辺で撮ることにこだわり、出演者も地元の人をオーディションするなどリアリティを出すことに成功した。また現場で編集した映像を出演者やプロデューサーに堤さんは見せる。演出意図を分かってもらい、撮り直しを防ぐためである。工夫を重ねる堤さんの仕事術に学ぶ。

第4回 「学び直しで人生逆転」
堤さんは今、大学の通信教育で地理学を学んでいる。人の営みの秘密をさぐる面白みがあり、仕事にも役立つと思ったからだった。例えば映画を作成する過程で、それぞれの作品のテーマに合うロケ地を考える上でとても参考になったという。またこれまで娯楽的な作品を多く作ってきたが、今は社会派的な作品を撮りたいという心境になっているという。自分がやりたいと思ったことは無理なく継続できるという堤さんに学びのコツを聞く。
(original text from NHK site)

NHK教育 25min 2011-03-03〜 Air check by Sony Giga Pocket Digital 2.0 解説副音声





●NHK映像ファイル あの人に会いたい 「絵本作家・佐野洋子」

「社会は 陰の部分が無いと 光が見えない」: 世代を超えて読み継がれている絵本「100万回生きたねこ」。死を扱ったこの絵本は日本の近代童話の中でも群を抜いたロングセラーである。作者の佐野洋子は、昭和13年中国・北京生まれ。戦前戦後の動乱時、大陸引揚者として幼少期を過ごし、次々と遭遇する肉親の死から「死生」の本質を見極めていった。その才はエッセイの分野でも開花し、鋭い批評眼で論理や通念を超えた文章は「野生の知性」として高い評価を得る。「人は誰でも死ぬ。だからこそ生きる」。人間の情を信じ、己に正直に生きることを求めた佐野の「個を生きる感性」と強靱な心の有り様が語られる。※2003年第3回小林秀雄賞 紫綬褒章授賞
(text from NHK site)

NHK総合 10min 2011-08-22(2011-06-18の再放送) Air check by Sony Giga Pocket Digital 2.0 Stereo





●NHK映像ファイル あの人に会いたい 「漫才師・喜味こいし」

「平和のために漫才やったんかな」: 喜味こいしは、兄の夢路いとしとのコンビで人気を博した漫才師。軽妙なやり取りから生み出される品の良い笑い。「いとこいさん」の愛称で親しまれた上方を代表する芸人である。旅回りの役者の子に生まれた喜味こいしは、物心ついた時には舞台に立っていた。兄と漫才デビューをしたのは1937年、10歳の時。以来、2003年に兄が亡くなるまでコンビは66年間続く。しかしその間、喜味こいしにはずっと胸に秘めてきたことがある。広島での被爆体験である。少年兵として広島にいた喜味こいしは昭和20年8月6日、原爆にあった。多くの仲間たちが目の前で亡くなっていく姿を見て、「平和で笑いの絶えない世の中であってほしい」と願わずにはいられなかったという。
被爆体験を心に秘め、平和への願いを込めた漫才。笑いにかけた半生が語られる。
(text from NHK site)

NHK総合 10min 2011-10-03(2011-08-06の再放送) Air check by Sony Giga Pocket Digital 2.0 Stereo



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