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●ETV特集 「海の放射能に立ち向かった日本人」 ~ビキニ事件と俊鶻丸~

1954年3月1日、アメリカが太平洋ビキニ環礁で行った水爆実験で、日本のマグロはえ縄漁船・第五福竜丸が被ばくしました。被害は水産物にも及び、日本各地の港では放射性物質に汚染されたマグロが相次いで水揚げされます。しかし、核実験を行ったアメリカは、放射性物質は海水で薄まるためすぐに無害になる、と主張しました。このとき、日本独自に海の放射能汚染の実態を解明しようという一大プロジェクトが始動します。水産庁が呼びかけて、海洋や大気、放射線の分野で活躍する第一線の専門家が結集、「顧問団」と呼ばれる科学者たちのチームが作られました。そして水爆実験から2か月後、顧問団が選んだ若き科学者22人を乗せた調査船・俊鶻丸(しゅんこつまる)がビキニの実験場に向けて出発します。2か月に渡る調査の結果、海の放射能汚染はそう簡単には薄まらないこと、放射性物質が食物連鎖を通じてマグロの体内に蓄積されることが世界で初めて明らかになりました。俊鶻丸「顧問団」の中心的な存在だった気象研究所の三宅泰雄さんは、その後も大気や海洋の放射能汚染の調査・研究を続けます。原子力発電所が次々と作られていく中で、三宅さんをはじめとする科学者たちは、大きな原発事故にも対応できる環境放射能の横断的な研究体制を作るべきだと声を上げます。しかし、それは実現しないまま、2011年3月11日、福島第一原発の事故により、再び放射性物質で海が汚染されました。ビキニ事件当時、日本の科学者たちが行った調査から、今私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。俊鶻丸に乗り込んだ科学者の証言や、調査を記録した映像などから描きます。
(text from NHK site)

NHK教育 60min 2013-10-04(2013-09-28の再放送) Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo

> 「第五福竜丸」元乗組員 “死の灰”で被ばく 大石又七さん死去 NHK 2021年3月21日配信
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昭和29年、アメリカの水爆実験に巻き込まれ太平洋のビキニ環礁で被ばくした「第五福竜丸」の元乗組員で、核兵器や被ばくの恐ろしさを訴え続けてきた大石又七さんが3月7日、誤えん性肺炎のため亡くなりました。87歳でした。大石又七さんは昭和29年3月1日、20歳の時に静岡県の焼津港に所属していたマグロ漁船の「第五福竜丸」の乗組員として太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁で操業中、アメリカの水爆実験に巻き込まれて22人の仲間の乗組員とともに放射性物質を含んだいわゆる「死の灰」を浴びました。この被ばくから半年後、病院で治療を受けていた無線長の久保山愛吉さんが亡くなったほか、大石さんも脱毛や水ぶくれなどの症状が出て1年2か月入院し、放射線の影響におびえる生活を強いられました。これをきっかけに全国に原水爆禁止運動が広がって日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の設立にもつながりました。大石さんはみずからの体験を著書にまとめたり、各地で講演を行ったりして核兵器や被ばくの恐ろしさを世の中に訴え続けるとともに、原子力発電所の危険性についても警鐘を鳴らしていました。大石さんは平成24年4月、脳出血で倒れて一時入院しましたが、その後もリハビリを続けながら証言活動を行っていました。また、おととし6月からは神奈川県三浦市の高齢者施設で暮らしていましたが3月7日、誤えん性肺炎のため市内の病院で亡くなりました。 ◎第五福竜丸平和協会コメント|「第五福竜丸」は、現在、東京・江東区にある「第五福竜丸展示館」で保存・公開されています。展示館を管理・運営する公益財団法人、「第五福竜丸平和協会」は、大石さんが亡くなったことを受けてコメントを出しました。この中では、大石さんが昭和58年から証言者として活動し始め、これまでに合わせておよそ700回、第五福竜丸の前だけで、およそ500回もの講話を行ってきたことを紹介しています。そのうえで、「大石さんはみずからの体験を告げるだけでなく、核がもたらす身体的な被害や精神的苦しみ、差別をはじめ社会的な問題、そして核の現状などについて勉強を重ねていきました。被ばくによる闘病から退院後、東京に出て辛苦を味わいながらも、社会の理不尽さや不正を許さない実直な人柄とその行動が、多くの人から慕われました」としています。そして、「大石さんの意思と行動を心として、核兵器も被ばく被害もない世界に向けて第五福竜丸の航海を続けます。大石又七さんありがとうございました」と
結んでいます。 ◎「第五福竜丸」の歴史 |「第五福竜丸」は昭和22年に建造され、戦後の食糧難の時代、カツオやマグロを取るための船として使われました。そして、昭和29年3月1日、日本からおよそ4500キロ離れた太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁周辺で操業中にアメリカの水爆実験に巻き込まれ、大石さんなど23人の乗組員全員が被ばくしました。これをきっかけに日本では原水爆禁止運動が高まり、広島と長崎に投下された原爆の被爆者の全国組織、日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の結成につながりました。一方、「第五福竜丸」は政府が買い上げ、放射線量が低下したあと、当時の東京水産大学の練習船として使用されました。そして昭和42年に廃船になり、東京・江東区のごみの埋め立て処分場に放置されていましたが、原水爆禁止運動のシンボルとして保存を求める声があがり、昭和51年、東京都が展示館を整備して保存・公開しています。昭和60年には、腐食が進んだ木材を取り替えるなどの大規模な改修が行われましたが、基本的な構造は建造当時のままです。骨組みには、黒ずんだり、傷んだりした被ばく当時の木材が残されていて悲惨な歴史をいまに伝えています。当時の西洋型の木造船の姿を伝える意味でも、貴重な船となっていて、国内に現存する唯一の西洋型の木造船として去年、日本船舶海洋工学会の「ふね遺産」に認定されました。 ◎日本被団協 田中代表委員 「仲間が亡くなり残念」|日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の田中煕巳代表委員(88)は「第五福竜丸の被ばくによって、より多くの人に被ばく者の苦しみが知られることになり、みずからの経験を伝え、核廃絶を実現しようという日本被団協の活動につながっていった」としたうえで、「大石さんはふだんは口かずは少なかったですが、証言活動の時には、人の心を打つ語りをしていたのがとても印象的で、大きな病気をされたあとも講演活動を続けていたので、頑張っておられるなと思っていました。一緒に行動してきた仲間が亡くなったのはとても残念です。ご冥福をお祈りします」と話していました。(original text from NHK site)





●ETV特集 「僕は忘れない」 ~瀬戸内 ハンセン病療養所の島~

香川県高松市。瀬戸内海に浮かぶ小さな島の療養所(国立療養所大島青松園)に、ハンセン病の元患者80人が暮らしています(2013年10月現在)。平均年齢81歳。国の誤った政策により故郷や家族から引き離され、病気が完治した後も隔離され続けた人たちです。入所者の多くは家族を差別や偏見から守るため、本名を捨て偽名を名乗ってきました。子どもをつくることは許されず、断種や堕胎が行われていました。国が過ちを認め謝罪したのは2001年。しかしその後も入所者たちは故郷に帰ることができず、この島で齢(よわい)を重ねてきました。島の納骨堂で眠る遺骨は2000を超え、今も毎年増え続けています。やがて誰もいなくなってしまうハンセン病療養所。その“記憶”を受け継ごうと決意した青年がいます。吉田昂生(こうせい)さん、18歳。母親が療養所の介護員として働いていたため、小学校の6年間をこの島で暮らしました。入所者のお年寄りにかわいがられ、この島を自分の故郷と感じてきた昂生さん。卒業後もたびたび島に通い、島外から来た人を案内する『大島案内』のボランティア活動を続けてきました。その昂生さんが最も尊敬する入所者の一人が、山本隆久さん(80歳)です。陶芸家としても知られる山本さんは“島の土”を使って作品を作り続けています。自分が隔離されたこの島の土をあえて使うことで、人間としての尊厳を取り戻そうとしてきたのです。この春大学に進学した昂生さんは、山本さんたち入所者の人生にあらためて向き合い、その“思い”を『大島案内』でできるだけ多くの人に伝えたいと考えるようになりました。聞き取りの中で入所者が語ってくれた“島の歴史”、そしてこの島の将来への不安。小学生の頃には聞けなかった話をどう受け止めどう伝えるのか。18歳の若者と、過酷な人生を送ってきたハンセン病の元患者たちとの対話の日々。「忘れてはいけない記憶」を紡ぎ、伝えていくことの大切さを伝えます。
(text from NHK site)

NHK教育 80min 2013-10-12 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo





●ETV特集 「ひとりだ でも淋 しくはない」 ~詩人・加島祥造 90歳~

信州・伊那谷の自然の中で暮らす詩人・加島祥造さん(90歳)の言葉が、この時代をどう生きるか悩める人々から注目されている。ベストセラーとなった詩集「求めない」、「受いれる」の中で加島は言う。会社や家庭の中で求めすぎる心を転換してバランスをとり、ありのままの自分を受け入れるとずいぶん楽になると。もともと加島さんは横浜国大の英文学教授だった。ノーベル文学賞作家ウィリアム・フォークナーやアガサ・クリスティの数々の翻訳で名声も獲得。しかし、なぜか心は満たされず、逆に息苦しさを感じて生きていた。そんなとき、野山で自由に遊び回っていた幼少期の頃の感覚を思い出せという内なる声が聞こえた。60歳になった加島は、我慢の限界に達し、社会から飛び出す。そして、たどり着いたのが伊那谷だった。その大自然に触れるうち、自分の中に可能性を秘めた赤ちゃんのようなもう一人の自分、いわば「はじめの自分」がよみがえった感覚を感じたという。その後、伊那谷で暮らすうちに、なぜか詩が湧いて出てき、また、絵も描けるように変わっていった加島。精神のバランスも徐々に取れるようになっていった。そんな加島さんの元を訪ねるようになったのが、政治学者の姜尚中(63歳)。順風満帆に見える姜だが、実は、4年前に長男を26歳の若さで亡くした。それがきっかけとなり、60歳を過ぎて、このままの人生を送っていいのか、何が自分にとっての幸せなのか考えるようになったという。そんなときに偶然出会ったのが加島さんだった。それ以来、たまに伊那谷を訪れて、加島とのやりとりを繰り返している。わがままと言われようと、ただ命に忠実に向き合ってきた加島。番組では人生の晩年をどう生きるか、今もあがき続ける90歳の日々を見つめる。
(text from NHK site)

NHK教育 60min 2013-10-19 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo

> 詩人の加島祥造さん死去 92歳 詩集「求めない」 朝日新聞デジタル 2016年1月6日(水)5時2分配信
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詩集「求めない」で知られる詩人の加島祥造(かじま・しょうぞう、本名加嶋祥造)さんが昨年12月25日、老衰で死去した。92歳だった。葬儀は近親者で営まれた。東京都出身。47年に田村隆一や鮎川信夫らとともに詩誌「荒地」に参加した。主な詩集に「晩晴」、新川和江さんとの共著「潮の庭から」など。信州大や横浜国立大で英米文学を教え、ウィリアム・フォークナーやマーク・トウェインの翻訳がある。90年ごろから長野県の伊那谷に移り住み、老子に傾倒した。「タオ―老子」「タオ―ヒア・ナウ」など、老子の思想を現代詩で表現した本が話題を集めた。07年の「求めない」は、「求めない――」というフレーズで始まる作品を収めた詩集。山深い谷での素朴な暮らしから紡がれた言葉は、競争の激しい現代社会に広く受け入れられ、ベストセラーになった。08年の朝日新聞の取材では「もう少し安らかに生きたいと思う時、この言葉を自分に向けると楽になった。80歳を超えた実感から出てきた言葉なんだ」と話していた。



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