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●「全身編集長」 ~文豪から学ぶオトコの生き方~

かつて『週刊プレイボーイ』を100万部突破の人気雑誌に育てた、元編集長の島地勝彦・72歳。グラビアなどで男の欲望を刺激する一方、開高健をはじめとする一流の文豪を口説いて『人生相談』を連載。「純文学とグラビア」という相反するものを同居させて旋風を巻き起こした。しかし膨れ上がった怪物雑誌は島地たちを波乱の渦に巻き込んでゆく…。島地と文豪たちの濃密な交流を中心にドラマ化、バブル前夜の熱き時代を描く。
(text from NHK site)

NHK総合 60min 2014-05-03 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo





●日経スペシャル カンブリア宮殿 「“挑戦してこそ伝統は守られる” 老舗企業のサバイバル術!」 柿安本店社長・赤塚保正

デパートの地下にある人気の総菜店「柿安ダイニング」。その総菜店を展開しているのが、三重県に本社を置く「柿安本店」だ。もちろん、ただの総菜チェーン店ではない。実は、「精肉店」から「食品販売」「レストラン」「和菓子屋」など幅広い業態を展開する食の総合企業。しかも、その歴史は古く創業は明治4年。今年で143年目を迎える老舗企業なのだ。三重で始めた「牛鍋店」から全国で人気を博す、食の総合企業へと変貌を遂げてきた「柿安本店」。その裏には、140年を超える歴史を守り続けるための“独自戦略”があった。「内食」「中食」「外食」を網羅することで売上高400億円以上に成長してきた老舗企業が守り続けてきたもの…それこそ柿安のトップが代々引き継いできた“常に変わり続ける”という信念にある。140年以上続く老舗企業が“老舗”になり得た本当の理由、その根源的な戦略の秘密を探る!

◎デパ地下の革命企業”の知られざる強さの秘密!
デパートの地下にある総菜売り場で、連日のように多くの女性客を引き寄せている「柿安ダイニング」。客だけでなく、百貨店側からも高い信頼を得ていて“デパ地下に革命を起こした店”とまで呼ばれている。その革命と呼ばれるものが“店内厨房”。今でこそ、多くの店で見られるようになったが、実は、“本格的な店内厨房”を日本で初めて導入したのは「柿安本店」だ。良い食材を使い、ひとつひとつ丁寧に作る姿を客に見せる、この店作りで業界の常識を打ち破った。しかし、柿安の本当の強さの秘密は、この「店内厨房」だけではない。実は、「店内厨房」以外にも百貨店内に“専用厨房”を用意。多くの競合店がセントラルキッチンなどで調理したものを運び込み、店頭に並べているのに対して、百貨店内の専用厨房を用意し、プロの料理人が作るという仕組みを独自に作り出してきた。この仕組みが“手作り・出来立て”を生み出し、女性客の指示を集めてきた。業界の常識を覆しながらも拡大してきた「柿安ダイニング」。その人気の秘密とおいしさを生み出す独自手法を徹底取材した!

◎最大のピンチ“BSE問題”をチャンスに変えた決断
柿安本店の創業は、1871年(明治4年)。果樹園を営んでいた赤塚安次郎が江戸で流行しつつあった「牛鍋」と出会い、三重県桑名市で「牛鍋店」をオープンさせたのが始まりだ。牛の生産も手掛けるなど、肉へのおいしさにこだわり続け、成長を遂げてきた。そんな柿安に訪れた最大の危機が、、、2001年に起こった「BSE問題」だ。このBSE問題を受けて消費者の「牛肉離れ」が広がり、翌年の業績は、創業以来初の赤字に転落したという。しかし、当時社長だった、現社長(保正氏)の父である赤塚保氏は、そんな中で従業員を一人もリストラしないと宣言。当時、実験的に展開していた「総菜店」の出店拡大を決断し、V字回復を成し遂げたのだ。根幹事業の不振という危機を“リストラ”に踏み切らずに乗り越えた柿安。そのトップの決断の真相とは…

◎さらなる伝統を守る為に、挑戦し続ける6代目社長
新業態を次々にオープンさせ、143年の伝統を引き継いできた柿安本店。経営理念である「おいしい物をお値打ちに提供する」を守るべく、現社長の赤塚保正も生産者の元に自らで向いて、新たな食材探しに奔走している。これまでもメインの牛肉は、地元・三重の生産者と共同でオリジナルブランド牛を飼育してきたが、6代目社長の赤塚保正は牛肉以外の食材にも「おいしい物をお値打ちに…」の理念を浸透させるべく全国を駆け回っている。「牛肉は自社のメインだが、それだけに縛られることはない。幅広く“おいしいお値打ち食材”を増やしていく。そうすることで柿安は進化し続けられるし、それが結果的に暖簾を守ることになる。」老舗を守るために変わり続ける柿安本店の6代目社長。その経営の真髄に迫る!

≪ゲストプロフィール≫
1963年 三重県に生まれる
1987年 慶應義塾大学法学部卒業、米国留学
1989年 柿安本店に入社
2004年 専務取締役レストラン・精肉事業本部長
2006年 代表取締役社長に就任

≪会社プロフィール≫
創業: 1871年
本社: 三重県桑名市吉之丸8番地
売上高: 425億(2014年2月期)
従業員数: 3445人(社員1098人)
事業内容: 精肉・食品加工・レストラン・総菜販売
(original text from TV-Tokyo site)

テレビ大阪 54min 2014-05-01 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo





●日経スペシャル カンブリア宮殿 「“激安もやし”で33年連続黒字!挑み続けた型破り経営」 サラダコスモ社長・中田智洋(なかだ)

1袋で数十円という激安のもやしビジネスで、年商72億円、33年連続の黒字経営を続けている驚異の企業がある。岐阜県のサラダコスモだ。今では全国有数のもやしメーカーだが、そこに至るまでには数々の挑戦と苦難があった。実は今では当たり前となった「無漂白もやし」も、このサラダコスモが広めたものだ。そしていま中田が目指すのは、何と南米パラグアイ。もやしの種を、日本からはるか遠いパラグアイで栽培するという。中田を手助けするのは、日系移民の農家たち。「収支のめどが立っているわけじゃない。でもこれは意義深いよ!」と語る中田。もやしに情熱を注ぎ、挑み続ける中田流“型破り経営”の全貌に迫る。

◎“不思議な野菜”もやし!無添加・無漂白はここから始まった
1袋数十円という驚きの安さで売られているもやしが、一体どうやって作られ、利益を出しているのか? あまり知られていないが、もやしは実に不思議な野菜なのだ。岐阜・中津川市にあるサラダコスモは、そんなもやしの大手メーカー。もともと社長の中田の家業は、ラムネ飲料の製造販売業を営み、もやしは「冬の副業」として栽培していたに過ぎなかった。だが中田は、このもやしに賭ける。
今から40年以上前、もやしは殺菌などのために漂白剤を使っていた。「子どもや孫が安心して食べられるもやしを作りたい」と、中田は無添加・無漂白のもやしを開発する。だが色も悪く、日持ちもしないため、全く売れない…。そんな中で取引をしてくれたのが、生協だった。当初は業界からの逆風も受けた中田のもやしだったが、「安心・安全」は業界に広まっていった。

◎カイワレ事件で壊滅的被害…雇用を守った社長の決意
順調に成長を続けていたサラダコスモは1996年、突然の危機に見舞われる。売り上げの柱の一つとなっていたカイワレ大根が、「O-157事件」で壊滅的な被害を受けたのだ。売れ残ったカイワレを泣きながら焼却する従業員たち…。そんな中でも中田は「自分の資金が底をつくまで、雇用は守る」と決意。経営の立て直しに奔走する。まず実行したのが、生産する発芽野菜の品目を増やすこと。今ではその数、10品目に及ぶ。ヨーロッパ原産の発芽野菜「ちこり」も、その一つだ。中田はこれを日本で初めて生産。さらに地元・中津川の地域再生のために、「ちこり村」というテーマパークまで作った。休耕地を活用してちこりの種芋を育てる一方、高齢者の雇用も生み出す仕組み。2006年にオープンしたちこり村には、年間28万人が訪れる。

◎63歳、南米パラグアイで壮大な夢に挑む
日本では、もやしの種は輸入に頼っているのが現状。中田はその種を、自分の手で栽培しようと乗り出した。種を栽培する場所は、日本からはるか遠くの南米パラグアイ。1000ヘクタールもの土地を借り、開墾を始めたのだ。中田がパラグアイを選んだ理由の一つに、日系移民の農家の存在がある。彼らの知恵と力を借りて、すでに種づくりを始めた。「収支のめどが立っているわけじゃない。でも、これは意義深いよ!」。中田の型破り人生の挑戦が、再び始まった!

≪ゲストプロフィール≫
1950年 岐阜県生まれ
1973年 大学卒業後、家業の「中田商店」入社
2000年 「ギアリンクス」設立に参画、社長に
2006年 ちこり村オープン

≪会社プロフィール≫
創業: 1945年
年商: 72億円(2014年3月時)
社員: 110名
本社: 岐阜県中津川市
(original text from TV-Tokyo site)

テレビ大阪 54min 2014-05-08 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo

> 2024-02-08に、カンブリア宮殿 「意外すぎる新商品が続々!激安もやしで快進撃の秘密」あり





●タイムスクープハンター season6 「鎌倉 不都合な真実」

今回の取材対象は、鎌倉幕府の保(ほ)の奉行人、犯罪を防ぐために鎌倉の重要な交通路である切り通しで通行人や物資の出入りを監視していた。1253年、名越切り通しで任務についている役人がベテランの落合将監と新人の青砥三郎。ある日、上役の市河左近太夫から驚きの依頼を受ける。妻の若竹に不倫疑惑があり、妻を見張ってほしいという。数日後、二人は若竹を発見し尾行を開始。すると道を外れ、やぶの中へ入っていく…
(text from NHK site)

NHK総合 30min 2014-05-10 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo





●NHK映像ファイル あの人に会いたい 「詩人 まど・みちお」

「人間はなぜ詩を書くか 私は詩を書かないと死んでしまうほどではございませんけども 息の次に大事なものがあります “言葉”でございます そういうものがどうしても出てくるのでございます」: 詩人、まど・みちお。童謡「ぞうさん」「やぎさんゆうびん」「一ねんせいになったら」などの作詞で知られる。明治42年、山口県に生まれる。5歳の時、父親の仕事で家族が台湾へ移り住み、ひとりだけ祖父の元に残された。その時のさみしさや孤独が、詩作の原点となったという。10歳で家族のいる台湾へ移住。25歳の時、雑誌に投稿した童謡の詩が北原白秋に認められ、童謡の詩の創作に本格的に取り組み始める。昭和18年に徴兵され、フィリピン、インドネシアなどを転戦。シンガポールで終戦を迎える。童謡「ぞうさん」の歌詞を書いたのは昭和26年。NHKのラジオで放送され全国に広まった。その後も、独自の感性で「生きること」「存在すること」の不思議と尊さを詩にしていく。戦後50年近くたって出版した全詩集では、戦時中に書いた戦争協力詩もあえて収め、そのあとがきのすべてを割いて謝罪の言葉を綴った。85歳で児童文学のノーベル賞と言われる国際アンデルセン賞を受賞。100歳を過ぎても詩作を続けた。やさしく深い言葉に込められた、まっすぐな思いが語られる。
(text from NHK site)

NHK総合 10min 2014-05-03 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo

> NBDR-0279にもあり



>ディスク設定: DRモード、本編区間のみ書き出し








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