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●こころの時代 -宗教・人生- 「海鳴りの果てに ~言葉・祈り・死者たち~」 詩人…金時鐘(キム・シジョン)

詩人・金時鐘さん85歳。日本の植民地下にあったチェジュ島で終戦。自らの意識を形づくった日本語にこだわり、詩と“在日”を生きてきた思いを語る。 「新潟」「猪飼野詩集」「光州詩片」などの傑作詩を生み出してきた金時鐘さん。終戦で、日本語と母国の朝鮮語の間で揺れ動く。1948年、故郷で遭遇した「チェジュ(済州)島4・3事件」。島を逃れ、大阪生野区、旧猪飼野に渡る。そこでは、朝鮮特需の中、チェジュ島出身者が兵器の下請けで生きのびた。“自分の中に巣くう日本語に報復する”思いで、詩を書き続けてきた金時鐘さんが、現代人に心のありようを問う人生を語る。
(text from NHK site)

NHK教育 60min 2014-07-06 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo





●日経スペシャル カンブリア宮殿 「頑固一徹“自然派”の時代がやってきた! ~ウガンダ、ボルネオ、世界を駆けるサラヤ~」
サラヤ社長・更家悠介

サラヤは、公共施設やオフィスの洗面所にある緑色の薬用せっけん液や、台所用「ヤシノミ洗剤」で知られる衛生・健康関連メーカー。創業者の更家章太(現顧問)に始まる「人間と自然との共生」を企業理念に自然由来の成分を使った商品開発にこだわり続けてきた「自然派」企業だ。そんなサラヤは、2004年、原料であるパーム油をめぐる環境問題に直面、2代目社長の悠介は、環境保護活動にも力を入れ始める。「消費者と環境に本当に優しい商品づくりとは何か」を常に問い続け、「自然派」に、こだわり続ける、サラヤの挑戦に迫る。

◎創業以来”自然派”で大躍進!サラヤ流商品作り
「ヤシノミ洗剤」で知られる、サラヤ。まだ赤痢や疫病などの伝染病が多発していた戦後間もない1952年に創業。伝染病の“予防”のため、手洗いと同時に殺菌・消毒ができる薬用石鹸液を日本で初めて事業化するなど、衛生分野を中心にビジネスを展開してきた。そんなサラヤの最大の特徴は「自然派」というキーワード。看板商品の「ヤシノミ洗剤」を始め、天然酵母を利用した洗剤「ハッピーエレファント」、さらに、糖尿病患者御用達と言われる自然由来の甘味料(中国の「ラカンカ」という果実から生成)を商品化するなど、自然由来の成分にこだわり続けている。創業以来、サラヤが大切にしてきた「自然」を強く意識した価値観が、ここ数年の「環境ブーム」を受け、業績も 右肩上がりに伸び続けている。

◎原料調達に衝撃!ボルネオの森を再生せよ!
「手肌と地球に優しい」というキャッチフレーズをつけて販売してきたヤシノミ洗剤。しかし、2004年あるテレビ番組で、「アブラヤシ(ヤシノミ洗剤の原材料)農園の拡大が、アジアのゾウの生存を脅かしている」と指摘され、更家は衝撃を受ける。実態を把握するためボルネオ島の調査を行うと、実際にアブラヤシのプランテーションが、動物の住む森を破壊していた。自然派を貫いてきた更家は、早速「ボルネオ保全トラスト」を立ち上げ、自らもヤシノミ洗剤シリーズ売上高の1%を熱帯雨林保全活動のため寄付を始める。その後、この取り組みがアブラヤシで製品を作る世界の企業へ広がり、更家は先頭に立って様々な活動を続けている。「発展的に自然と共生する」ために、「自然派」サラヤは挑戦している。

◎アフリカに「衛生」文化を根付かせろ!
戦後間もない頃から、日本の衛生環境の向上を牽引してきたサラヤが、いまアフリカのウガンダで「衛生」という概念を新たに普及させようと奮闘している。20年以上に渡り、武力衝突の場となってきたウガンダの首都近郊。 そこでは、いまだにコレラが蔓延するなど衛生環境は悪い。そこでサラヤは、手洗い習慣の普及を目指す「SARAYA 100万人の手洗いプロジェクト」を開始。発展途上国に「衛生」という価値観を根付かせるべく、地道な活動を行っている。また、そんな中から、現地の医療機関の衛生問題にも着目、現地生産で低価格の消毒液を作り、販売するビジネスにも乗り出した。アフリカを舞台にした新たなビジネスを生み出す挑戦を紹介する。

≪ゲストプロフィール≫
1951年生まれ
1974年 大阪大学工学部卒業
1975年 カリフォルニア大学バークレー校工学部衛生工学科修士課程修了
1976年 サラヤ株式会社入社
1993~1997年 地球市民財団理事長を務める
1998年 代表取締役社長に就任、NPO法人エコデザインネットワーク副理事長、ボルネオ保全トラスト理事などを兼任

≪会社プロフィール≫
本社: 大阪市東住吉区湯里2-2-8
創業: 1952年(昭和27年)
従業員数: 1712人(グループ全体、うち正社員1085人) ※2013年10月末現在
売上高: 単体272億円/グループ全体322億円 ※2013年10月末現在
(original text from TV-Tokyo site)

テレビ大阪 54min 2014-07-03 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo





●地球ドラマチック 「新説!ストーンヘンジの謎」

イギリスの巨大遺跡ストーンヘンジはいつ何のために作られたのか…。これまでにない新たな説が浮上し、注目されている。最新の研究結果から明らかになった驚きの真実とは! 建造目的や利用法など多くの謎に包まれているストーンヘンジ。このほどイギリスの考古学者マイク・パーカー・ピアソン教授が新説を発表した。5千年前に作られた円形の墓地で、当時中心には石がなかったという。確認された60体以上の老若男女の人骨は誰のものか? 近くで発掘された動物の骨から、冬至の日に数千人規模のうたげが開かれていたことも判明。誰が何の目的で行ったのか? (2013年 オーストリア・イギリス)
(text from NHK site)

NHK教育 45min 2014-07-05 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 二か国語





●かんさい熱視線 「高齢者住宅で何が」 ~見過ごされる“不正介護”~

公的な介護施設が大幅に不足する中、「サービス付き高齢者向け住宅」など、必要に応じて介護や医療をうけることができる高齢者むけの住宅が次々と建てられている。しかし取材を進めると、不必要な介護によって報酬を水増ししたり、本来なすべき介護サービスを行わないなど、「悪質介護」が横行している実態が明らかになってきた。急増する高齢者住宅の実態に迫るとともに、適正な介護が行われるにはどうすれば良いのか考えていく。
(text from BK site)

NHK総合 25min 2014-07-04 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo





●NHK映像ファイル あの人に会いたい 「数学者・小平邦彦」

「私も幾つか定理の発見をしましたけど、けっして自分で考え出したという気がしないんですね。昔からそこにあったものを、たまたま見つけただけであると。私が見つけなければ、誰か他の人が見つけたに違いない。」: 20世紀を代表する数学者・小平邦彦。昭和29年、数学界のノーベル賞と言われる「フィールズ賞」を日本人として初めて受賞、「複素多様体」という研究分野を切り開き、数学をはじめ、素粒子論などの物理学や電子工学などの分野にも大きな影響を与えた。また、教育者としてもジョンス・ホプキンス大学、スタンフォード大学、東京大学教授を歴任、多くの優秀な学生を導いた。大正4年、農商務省の役人で学者の小平権一の長男として生まれる。旧制中学時代に本屋で専門書「代数学」に出会い数学に開眼、独自の勉強法で数学の世界に親しんでいった。昭和10年、東京帝国大学数学科に入学、その後 物理科に進み助教授となる。太平洋戦争で海外の研究動向も入らず発表の場もない中で数学の研究を続けた。この間書き続けた理論は戦後に論文「調和微分形式の理論」としてアメリカで発表する機会を得て高い評価を受け、プリンストン高等研究所に招かれる。19年にわたり米国で数学研究を続け、「小平―スペンサーの変形理論」によって学士院賞を受賞するなど、次々と定理や理論を確立し世界の数学の歴史に名を残す存在となった。昭和42年帰国、東大教授となり、日本が代数幾何学・複素多様体論の世界的研究センターの地位を確立するのに貢献する。晩年には学生の学力低下に強い懸念を示し、初期教育に関心を寄せた。「数学は発見である」と語り続けた小平の数学者としての思い、教育者としての思いが語られる。
(text from NHK site)

NHK総合 10min 2014-07-26 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo





●NHK映像ファイル あの人に会いたい 「作曲家・伊福部昭」

「民族の特殊性というものを通過して、共通の人間性に到達しなければならない。“そうなったものだけが芸術として残っている”というのが僕の信念なんです」: 現代音楽作曲家・伊福部昭。独特のリズム・低音楽器の多用・西洋音楽にない和声の使用などで、独自の音楽世界を築いた。映画音楽でも半世紀にわたり活躍、昭和29年公開の「ゴジラ」をはじめ、「座頭市」シリーズや「眠狂四郎多情剣」など300本にものぼる日本映画を音楽で支えた。大正3年、釧路に生まれ、父の仕事で十勝地方の音更村へ移住。アイヌの人々と交流し、その暮らしに根付く歌や踊りに衝撃を受けたのが音楽との出会いだった。その後旧制中学時代にストラヴィンスキーの「春の祭典」を聴き、「自らの文化に根付いたものを書きたい」と独学で作曲を始めた。昭和10年、21歳で書いた交響曲「日本狂詩曲」が海外で高く評価され、「レチェプニン賞」に首席で入選。民族性が高く評価されたが、その姿勢は当時の日本音楽界では受け入れられなかった。作曲を生業としたのは、戦後になってから。東京音楽学校(現・東京藝術大学)で講師を勤め芥川也寸志ら多くの才能を育てる一方で、映画にも進出。「ゴジラ」では、それまで培った音楽のエッセンスを注ぎ込み、多くの人の心を捉えるテーマ曲を書き上げた。「ゴジラの作曲家」として世に広く知られた伊福部だが、「純音楽の作品を聴いてほしい」と現代音楽での作曲を最晩年まで書き続けた。真に生き続ける音楽とは何か―考え続けた伊福部の思いを伝える。
(text from NHK site)

NHK総合 10min 2014-08-02 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo



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