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●ETV特集 「生きづらさに向き合って」 ~ある精神科クリニックの挑戦~

北海道の札幌市にある精神科のクリニックで、独自の取り組みが2年前から始まっている。 その名も「札幌なかまの杜クリニック」。ここでは、精神疾患の患者が自分自身のつらい体験や苦しみ、いわゆる「生きづらさ」をさらけ出し、その対処法を皆で考えるというプログラムを実施している。薬だけに頼らない精神医療への挑戦として今、注目を集めているのである。このプログラムは「当事者研究」と言われ、もともとは北海道の浦河町の福祉施設「浦河べてるの家」で幻聴や妄想に悩み、作業所の仕事がうまくはかどらないという試行錯誤の中から生み出されたものである。それぞれ患者が症状に合わせた独自の自己病名をつけ、皆でアイデアを出し合う中で、孤独感が解消され、病に向き合うことが出来るという。また、このクリニックでは、30人いるスタッフの半数近くがみずからも精神疾患のある当事者。そうした人が働いて自立できる場も提供すると同時に、その存在が患者との垣根を低くしている。精神疾患の患者数は今や320万人でがん患者の2倍に達している。そうした中、仲間とともに回復を目指すという新たなコンセプトに挑戦するクリニックの半年の姿を記録した。
(text from NHK site)

NHK教育 60min 2014-11-15 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo





●映像’14 「われらは八瀬童子」 ~悠久の山里に生きる人々~

京都・比叡山の麓に住む玉川勝太郎さん(73)は「八瀬童子」と呼ばれるひとりだ。八瀬童子は皇室との関わりが長く、天皇の大礼や大喪では輿・棺を担いだこともある。玉川さんも昭和天皇の大喪の礼に参列した。独自の歴史と伝統を担ってきた「八瀬童子」の人々は結束が固く、その実像は長く明らかにされてこなかったが、旧住民が次第に減る一方で、都心からやって来た新住民の割合も増えつつある。変貌する山里にとまどいながら、地域に根ざした歴史を守ろうと奮闘する「八瀬童子」の人々を追う。
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(取材ディレクターより) 「八瀬童子」と呼ばれる人たちのことが、昭和天皇の大喪の礼の時、一躍脚光を浴びたことで覚えておられる方もいるのではないだろうか。そのころはまだ謎のベールに包まれた存在だったかも知れない。あれから四半世紀…比叡の山麓にはいまでもたしかに童子の方々が暮らしていた。大正天皇の大喪や昭和天皇の即位礼にあたって行列奉仕をした人たちはもう全員亡くなり、マンション建設や宅地開発など時代の波も押し寄せていた。私が取材した去年夏から今年秋は、八瀬童子の人たちが先祖から受け継いできた伝統やしきたりを何とかして次へつないで行こうとしている過渡期であった。八瀬の風習や慣わしの中には八瀬童子の歩みが裏打ちされたものが多い。その中には八瀬の人自身いわれが分からないというような事柄もある。先祖代々口伝えで繋いできたのだ。それらは現代のライフスタイルにはもう合わないものも多い。なくしてしまうことは簡単だ。現に周辺の他の洛北の地域では伝統的な行事が消えた所も少なくない。でも彼らはたとえ少し形を変えようとも決して手放そうとしない。そこには八瀬童子として700年以上歩んできたという矜持と八瀬という場所への深い愛着があるのだ。集落のひとたちは高齢者から子どもまで全員顔見知りだ。ここでは先輩格の高齢者の地位が高い。お年寄りが大切にされているし活躍の場が与えられている。かつて日本人はこうした地域社会を脱し、都心部へと移り住んで行った。しかし、地域づきあいとは無縁の生活を送っている私は、彼らの姿を見て次第に羨ましく思うようになった。天満宮社へ続く長い参道、杉木立をわたる風、ひっそりとした旧家の佇まい。八瀬には失ってしまった懐かしい風景がたしかに残っている。終戦、昭和の終わり、平成――社会の変化とともに八瀬童子の意味合いは昔とは違って来ているのだろう。しかし八瀬の人達にはぜひこれからも童子の伝統と文化を守り続けて頂きたいと願う。
(text from MBS site)

毎日放送 60min 2014-11-16 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo





●プロフェッショナル 仕事の流儀(245) 「いつか、喜びの涙に変わるように」 在宅ホスピス医・川越厚

「人生の最後は、自宅で穏やかに迎えたい」。そんな末期がん患者の切実な願いを叶え続けてきたのが、在宅ホスピスのパイオニア、川越厚(67)だ。まだ「在宅ホスピス」という言葉すらなかった時代から始めて25年。およそ2000人の末期がん患者を家で看取ってきた。病院ではこれ以上の治療が難しいとされた末期のがん患者。その多くは、がんの進行から生じる神経の圧迫や呼吸苦などの体の強い痛みで苦しむ。川越は触診を行いながら、患者の状態をこと細かに観察し、その痛みの緩和に必要な薬の種類や量を処方していく。薬の量が少なければ痛みを取りきれないし、多すぎれば副作用で患者を苦しめることになる。川越はこの見極めの技術が群を抜くと言われている。さらに川越は、死期が迫るにつれて強くなる死別の悲しみなどの“心の痛み”にも寄り添っていく。患者とその家族に、独特の語り口で死期を伝え、死を受け止められるようにいざなっていく。川越が目指すのは、人生の幕引きを穏やかに行うための医療だ。「“退く”医療ですね。病気を治す医療が全く無力になったとき、同じ姿勢で医療を行ってはいけない。お迎えが来るときまで人間として生きるわけですからね。今度は、生きていくということを大切にした医療」在宅ホスピスを行う上で重要な役割を担うのが、患者を支える家族だ。薬を飲ませたり、衣食住の介護を行うなど、医師や看護師がいない間、在宅ホスピスの主な担い手となる。それは時に、精神的にも身体的にも重い負担となって家族にのしかかる。そのため川越は、患者本人だけではなく、それを支える家族も含めてケアを行っていく。「嵐に巻き込まれて救助を待っている患者と家族がいる。そういう嵐に巻き込まれた人を救い出して、安全なところへ連れて行く。我々が行う在宅ホスピスという医療は、そういう仕事だろうと考えていますね」川越はかつて、今とは対照的な医療を志していた。東京大学病院で婦人科のがん治療を行うエリート医師だった川越は、「医療とは病気を治すこと。治せないことは、医療の敗北だ」と考え、“治す医療”の道を追求した。しかし、39歳で結腸がんを患う。手術は成功したものの、体力的に現場の第一線に戻ることができず、在宅訪問を行うクリニックにしかたなく勤めた。そして2年後、若くして末期の乳がんを抱えた患者と出会う。川越は、自宅で最期まで過ごしたいと願うその患者のために、当時まだ在宅ホスピスという医療分野も確立していない中、試行錯誤で体と心の痛みを緩和していった。患者は亡くなる2週間前、「これまでの人生で、今がいちばん幸せです」と涙ながらに語ったという。それから川越は、在宅ホスピスという医療分野を確立させるため、ひとりひとりの患者と向き合っていく。自宅で看取った患者は2000人。患者と家族の姿から、在宅ホスピスという医療の根幹を教わった。「人間というのは、その時までのいろんな希望を持つことができる存在だと。そういう人間理解が僕の根本にある。死というものが目の前に来ても、残されたときを家族一緒に生きるんだという喜びみたいなものを感じていける。そういうことが最期までできるように僕らが支えていく」
(text from NHK site)

NHK総合 50min 2014-11-17 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo/解説副音声/字幕





●NNNドキュメント'14 「希望と翻弄の狭間で」 ~基地の島 沖縄で暮らす~

爆音をとどろかせて飛ぶアメリカ軍のオスプレイ。沖縄でこの光景は日常となった。オスプレイが配備された普天間基地の返還と引き換えに、17年前、名護市辺野古沖への移設計画が浮上した。その海を臨む集落に、ある家族が暮らしている。17年前に生まれた長男はいま高校2年生。毎週土曜、基地の前で両親や妹とロウソクを灯し、「移設反対!海を守ろう!」とアピールしている。一方、同じ辺野古で商店を営む男性は、4年前まで反対運動に加わっていたが、「何度民意を示しても国は変わらない」と、今は条件付きで移設を容認せざるをえない胸の内を明かした。辺野古をめぐる17年~住民投票、移設計画の迷走、県外移設をめぐる混乱、オスプレイ配備、政権交代、埋め立て承認~ 「基地の島、沖縄で暮らすこと」を改めて考える。
(text from NTV site)

読売テレビ 30min 2014-11-16 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo





●NHK映像ファイル あの人に会いたい 「作詞家・作家 山口洋子」

「女は好きな人のためだけに真っ白なものをどこかに残しておかないとダメだと思う 女はやっぱり白い方がいい」: ヒット曲「よこはまたそがれ」などの作品で知られる作詞家・山口洋子。女心の機微を巧みに捉え数々のヒット曲を手がける一方、小説家としても活躍。昭和60年には「演歌の虫」と「老梅」で直木賞を受賞した。山口洋子は昭和12年、名古屋で生まれ、少女時代を京都で過ごした。経済的理由から高校1年で退学。17歳で東映ニューフェイスに合格し、酒場でアルバイトしながら女優を目指した。しかし、向いていないと2年余りで見切りをつけ、19歳の若さで東京・銀座にクラブを開店する。店を舞台にプロ野球をはじめ様々な分野の著名人と交流。またホステスたちの面倒を親身に見てきたことで、独特の人生観、人を見る目を養う。30歳の時、現役ママのまま作詞家デビュー。作曲家・平尾昌晃とのゴールデンコンビは歌謡界に一時代を築いた。無名の歌手だった「五木ひろし」を世に出したのも山口洋子。単に作詞家としてだけでなく、売り込むためには総合プローデュースまでするほどの力の入れようだった。夢中になれる対象が見つかると徹底的にのめり込んでいったその人生観が語られる。
(text from NHK site)

NHK総合 10min 2015-01-24 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo





●視点・論点 「2015年の経済を読む」 経済産業研究所理事長…中島厚志

NHK総合 10min 2015-01-28 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Mono



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