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●プロジェクトX (116) 「プラズマテレビ 愛の文字から始まった」


平成4年。日本で21世紀の世界商品が生まれた。プラズマテレビである。
42インチの大画面にして、薄さわずか9センチ。どの角度から見ても鮮明な高画質映像。
ブラウン管、液晶に代わる「第3のテレビ」といわれる。開発に成功したのは、
大手情報・通信機器メーカー富士通の「窓際」事業部の技術者たちだった。
オイルショックが日本経済に打撃を与えた昭和48年。合理化の嵐吹き荒れる富士通に、一人の研究者が入社した。
篠田 傳、25歳。配属されたのは、兵庫県・明石工場。昭和39年にアメリカで開発された
モノクロ(黒地にオレンジ)プラズマディスプレイの製造特許を取得し、ガソリンスタンドのメーターやバスの行き先表示を作っていた。
しかし、販路は限られ、毎月3千万円の赤字を計上。お荷物部署と呼ばれ、存続の危機にあった。
大学でPDPの原理を学んだ篠田は、その可能性にかけていた。「プラズマでカラーテレビを作れないか。」
篠田は、赤・青・緑、三原色の蛍光体を使い、試作機を作った。最初に表示したのは「愛」の文字。
「技術を育てるのは愛だ」と信じていた。しかし、その矢先、病魔が篠田を襲う。過労がたたり急性肝炎で2年間入院。
開発は打ち切られた上、明石工場の研究部門は廃止された。
やっと退院した篠田は、製造ラインで働く若者達に声をかけ、居酒屋でプラズマテレビの可能性を説き続けた。
赤字続きで自信を失っていた若者達。仕事の合間に、篠田の地道な試作品作りを手伝い始めた。
しかし80年代、液晶テレビが登場。「プラズマに勝ち目はない」との声が上がる。
篠田は、液晶では難しい大型化に賭けるしかないと決意。開発の命運をかけ、エレクトロニクスショーに大型試作機を出展する。
しかし、画面に黒い断線が走り、試作機はダウン。「会社の恥だ。」罵声が浴びせられた。
背水の陣で、課題の解決に当たる篠田達。画質を良くするには、パネル内部のミクロン単位の歪みを解消しなければならない。
その時、女神の手が奇跡を起こした。技術への愛を信念に、逆境を乗り越えて開発に打ち込んだ研究者の執念と、
それを支えた人々の逆転のプロジェクトを描く。
(text from NHK site)

NHK総合 45min 2003-06-03 Air ckeck by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)






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