玄関 / ライブラリ / CD-R&RW [映像|〜GP-500] / GP-258 /

 

 

●プロジェクトX(119) 「醤油 アメリカ市場を開拓せよ」


醤油は今、100カ国以上で販売、外国工場での生産は年14万キロリットル。
自動車や工業製品と並び、日本発の世界商品となった。しかし戦後まもなく、日本の醤油メーカーは存亡の危機にあった。
敗戦の混乱で、材料の大豆が不足。大豆の配給を管理するGHQは、醤油製造に待ったをかけた。
さらにGHQは、日本人の洋食化を奨励。食卓ではケチャップやソースが幅を利かせ、醤油の需要は頭打ち。
倒産する醤油工場も相次いだ。
千葉で300年続く、老舗の醸造会社・野田醤油(現・キッコーマン)。常務の茂木啓三郎が、とんでもない策を決断した。
「世界最大の市場、アメリカに逆襲をかける。」
昭和32年、丁稚奉公から叩き上げた営業の秋谷満寿がサンフランシスコに送り込まれた。
小学校卒で英語が全くできない秋谷を支えるのは、地元日系2世のセールスマン達。
戦争中、遠い祖国の味・醤油に強い愛着を抱いていた。秋谷達は誓った。
「日系人だけでは需要は限られる。アメリカ人全体がターゲットだ。」
しかし、営業は困難を極めた。アメリカ人達は、醤油に鼻をつまみ言った。「これはバグジュース(昆虫の絞り汁)か。」
秋谷達はスーパーに頼み込み、醤油を置く棚を有料で借り切った。店頭で肉を焼き、醤油を垂らし、客に勧めた。
物珍しさに買って行く客もいたが、それもその場限り。品物の回転は悪い。
「リピーターを確保するには、レシピが必要だ。」セールスマンのタム吉永は、醤油を使った調理法を必死で考えた。
そして、アメリカ人の口に合う醤油ベースの「テリヤキソース」を開発した。西海岸から始まった販売網は、全米へ広がった。
しかし、突然アメリカ政府が待ったをかけた。職人の勘と天然の菌に頼る醤油の醸造。
「成分や生成メカニズムが明確に数値化されない限り、安全ではない。」
本社の醸造技術者たちは、誤解を解くため、誰もやったことのないメカニズムの分析に挑んだ。
そして、昭和47年。勝負をかけた中西部ウィスコンシン州での現地工場建設。醤油を初めてアメリカで作る。
日本から職人達が乗り込んだ。その時、アクシデントが襲った。
日本の味を世界に広めた人々の、知られざる悪戦苦闘のドラマを描く。
(text from NHK site)

NHK総合 45min 2003-07-03 Air ckeck by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)









ページ先頭へ