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●プロジェクトX (121) 「日本初のハイウエー」 〜勝負は天王山〜


昭和38年7月。日本初のハイウエー、名神高速道路(尼崎・栗東間)が開通した。
日本の物流を変え、高度経済成長を支える大動脈となった高速道路。
その第一号、名神高速建設の陰には、未知の道路に手探りで挑んだ技術者たちの姿があった。
昭和26年、敗戦の痛手から立ち上がろうとしていた日本。国鉄が創設され、鉄道網の整備が始められていた。
海運王国の復活をかけ、各地で港の建設も動き出した。その中で、取り残されたものがあった。道路だった。
実に8割が未舗装、凸凹道に雨が降ればすぐにぬかるみ、通れなくなった。悪路は、経済の発展を阻んだ。
工場で製品を作っても、運べる量が限られ、在庫の山が出来た。
この頃、全国の道路に立ち、一台一台車を止め、積荷や行き先を聞く男達がいた。
建設省道路局企画課の職員達、埃まみれになっていた。その中心は、設計技術者・片平信貴、37歳。
戦後、鉄道と海運が優先される中、片平は「日本復興には100キロで走れる高速道路が必要だ」と主張。
予算もない中、何とか国を動かそうと部下達と細々とデータを集めていた。
この年、転機が訪れた。サンフランシスコ講和条約の調印を終え、帰国した首相の吉田茂が
「アメリカの国力は物流にある。日本にも高速道路を考えてもよい。」と前向きの考えを示した。
自動車の普及台数も、昭和30年には100万台を超え、高速道路を望む世論が高まった。
世界銀行の融資を受け、昭和32年、名神高速の着工が決まった。
初めての高速道路は全てが手探り。片平達は、出来るだけ直線になるよう、コースを作った。
しかし、世界銀行から派遣されたドイツ人技術者ドルシュが首を横に振った。
アウトバーンを設計したドルシュの指導で、ドライバーに最も負担をかけない、緩やかな「クロソイド曲線」に改められた。
高さ7メートルの土台、盛土の建設が始まった。生活道路を遮断しないための立体構造。
高さ30センチ間隔で土の層を重ね、締め固める。一層でも締め方が甘ければ、すぐに崩壊。
「万里の長城」とも呼ばれる難工事となった。さらに舗装のアスファルトは、砂利と石油原料の配合が難しく、
凸凹に波打った。そして最大の難関は、京都と大阪の境にある天王山、全長1400メートルのトンネル建設。
水分の多い粘土の地層が空気に触れ膨張、穴を支える木材の柱が次々に折れた。
日本初の高速道路建設に挑み、日本経済の礎を築いた人々の壮大な物語を伝える。
(text from NHK site)

NHK総合 45min 2003-07-15 Air ckeck by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)











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