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●知るを楽しむ 歴史に好奇心 「拝見・武士の家計簿」 磯田道史/柳家花緑

1970年、岡山県生まれ。茨城大学助教授。幼いころより家伝の古文書に親しんだことをきっかけに、歴史学の道に進む。2002年慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(史学)。専攻は日本近世社会経済史・歴史社会学・日本古文書学。慶應義塾大学・宇都宮大学非常勤講師などを経て、2004年より茨城大学人文学部助教授。2003年に上梓した『武士の家計簿』がベストセラーとなり、新潮ドキュメント賞を受賞。著書に『近世大名家臣団の社会構造』、共著に『藩世界の意識と関係』『徳川日本のライフコース』などがある。
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「加賀藩士猪山家文書」という武家文書に、類例を見ないほど詳細な家計簿が遺されていた。天保13(1842)年7月から明治12(1879)年5月までの37年間、幕末の武士が明治の士族になるまでのほぼ完璧な生活の記録である。「普通の武士とその家族はどんな生活をしていたのか?」家計簿のディテールでたどる武士の暮らし。

第1回 「武士にもいろいろありまして」■--->F 0069
南町奉行大岡越前は1万石の大名、赤穂藩家老大石内蔵助は1500石、鬼平こと長谷川平蔵は400石、中津藩の下級武士だった福沢諭吉の家禄は13石2人扶持、一口に武士と言ってもそのサラリーには大差があった。数百石以上を取る上級武士、数十石程度の侍、原則的に知行地は与えられない足軽、それぞれどんな役目を持ち、どんなふうに日々を送っていたのか?猪山家の家計簿の詳細に立ち入る前に、武士の中の多彩な階級を解説、それぞれ生活者としての輪郭を描いていく。

第2回 「知行七十石、切米四十俵」 〜年収千二百万でも借金だらけ〜■ --->F 0385
加賀藩の中級武士、猪山家の家禄は知行70石に切米40俵、今の感覚で約1200万円の年収である。一見裕福なはずのこの家は実は銀6260匁(約2500万円)に達する借金を抱えていた。年収の2倍である。天保13年7月、当主猪山直之は殆ど全ての家財を売り払って約1000万円のお金を作り借金整理に乗り出す。知行高、切米などといった武士の給与制度の実情、猪山家の「全財産」であった88品目の家財の明細をあきらかにし、収入と財産の面から武士の家計を分析する。

第3回 「武士が貧乏だった理由(わけ)」 〜「身分費用」という浪費〜 ■--->F 0493
家財を売った金をすべて返済にまわし、残りを無利子の年賦とすることに成功した後も猪山家の家計は困窮している。猪山家に限らない武士の慢性的な赤字体質を磯田さんは「武士であるための身分費用」が莫大であったからだと言う。頻繁にある祝儀交際費、使用人の人件費、寺へのお布施・・・、「その金を払わなければ武士とはいえない」支出項目が山ほどあり、固定費として家計を圧迫し続けたのである。困窮に耐えつつ役目に励み「ミエ」を張る、支出の面から猪山家のせつない台所事情を見る。

第4回 「勝ち組と負け組」〜維新激動期を分けたもの〜 ■--->F 0349
幕末の動乱は猪山家の三代目、成之に運命の激変をもたらす。京都に駐留する加賀藩兵の炊き出しを行っていた成之の手際が長州軍の司令、大村益次郎の目にとまり、ヘッドハンティングをうけたのである。維新後、海軍省に会計官吏として職を得た成之の年収は1235円、今の感覚で3600万円という高給であった。一方官員になれなかった金沢の親戚の年収は48円、150万円ほどである。成之の母の実家は武士として恥ずかしいと看板を出さずに呉服屋を始め、案の定失敗した。猪山家は6年分の一括支給と引き換えに武士としての家禄を奉還し、東京や金沢で借家経営に乗り出す。家計簿から新しい時代の「勝ち組」となった猪山家の姿を描く。
(text from NHK site)

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NHK教育 25min 2006-07-13〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)







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