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●DR-316
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NHK特集 「自動車」

第1部 「始 動」 〜アメリカの世紀〜
第2部 「発 進」 〜日本の登場〜


企画: 相田洋
原案: デイビッド・ハルバースタム 「覇者の奢り」より

NHK総合 60min・50min 1987-09-12・19 再放送分
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●DR-317
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NHK特集 「自動車」

第3部 「加 速」 〜日本車の上陸〜
第4部 「激 突」 〜自動車立国の行方〜


NHK総合 50min / 50min 1987-09-26 / 10-03 再放送分
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◎「フェアレディZの父」100歳、ファン祝う

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祝福にかけつけた関係者らと笑顔で撮影に応じる片山さん(左端)

日産のスポーツカー「フェアレディZ」の生みの親で、静岡県浜松市天竜区春野町出身の片山豊さん(東京都)の100歳を祝うイベント「K'z meeting 2009 HAMAMATSU」が6日、同市西区村櫛町の浜名湖ガーデンパークで開かれた。片山さんは1909年9月15日生まれ。1952年にフェアレディの源流となる「ダットサン・スポーツDC-3」を開発。60年代には米国日産の初代社長を務め、北米市場でのさらなる販路拡大のため、初代Zの開発を主導。日米で100万台以上を販売し、「Zの父」などと呼ばれ、日米で自動車殿堂入りしている。車いすで登壇した片山さんは「スポーツカーは常に自動車界の花形であり、技術をリードしていた。電気自動車が普及してもスポーツカーは存在しうる。車を楽しむことを忘れないで」と話し、花束やプレゼントを受け取った。この日は全国からZのファンら約700人が愛車で駆け付け、片山さんを祝福。片山さんにサインや記念撮影を求めた。(2009年9月7日16時58分配信 読売新聞)



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「ミスターK」こと片山豊さんの訃報

国沢光宏 | 自動車評論家 2015年2月22日 10時44分

アメリカに於ける日本の自動車ビジネスを大きく推進するという絶大なる功績を残した片山豊さんが亡くなった。日本では「フェアレディZのお爺さん」くらいのイメージしかもたれていないものの、片山さんという「切れ者」が居なければ、日本車はここまでアメリカで成功しなかったと思う。アメリカの自動車ビジネスを根本から変えた、と言っても良かろう。例えばアメリカでよく言われる「交換部品の翌日調達率」について初めて言及したのは片山さんである。それまで壊れてもいつ交換部品が届くか不明だった。片山さんはダットサンをアメリカで売るにあたり、徹底的なサービス体制を作り上げた。さらにアメリカで販売するためのクルマを本社に強く強くリクエストし続ける。初代フェアレディZ(S30)やブルーバード510は片山さんの企画だ。日産本社はアメリカに於ける片山さんの大活躍を好ましく思っていなかった、というのは有名な話。 一度お会いし、話を聞いてみたかったものの、私が自動車メディア業界に入った頃、もはや引退された後の70歳。2008年9月にやっと実現した次第。2時間ほどたっぷりインタビュー出来たのだけれど、御歳99歳と思えないほど矍鑠(かくしゃく)としており、満州駐在時代の話なども、たいへん興味深かった。人柄はとにかく明るい。湘南&慶応ボーイの見本のようなお方であります。役人気質優勢だった当時の日産本社の人間がうらやんだのも、よく解る。初めて米国に渡ったのは1927年とのこと。パッカードの12気筒を新車で見たとおっしゃっていたから驚く。ちなみにアメリカで最も広く知られる殿堂である『自動車の殿堂』入りは、本田宗一郎さん、豊田英二さん、品質工学で自動車のクオリティを大幅に向上させることになった「田口メソッド」の田口玄一さんに続く4人目。アメリカでは本田宗一郎さんと並び、たくさんのクルマ好きから親しまれていた。



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アイアコッカ氏死去=米クライスラー元会長、94歳

時事通信 2019年7月3日配信

【ニューヨーク時事】1970年代後半から80年代前半に破綻寸前だった米自動車大手クライスラー(現フィアット・クライスラー・オートモービルズ=FCA=)の再建に手腕を発揮したリー・アイアコッカ元会長が2日、パーキンソン病に伴う合併症のためロサンゼルスの自宅で死去した。94歳だった。米メディアが一斉に伝えた。イタリア移民の子として生まれ、プリンストン大大学院修了後の46年に米フォード・モーター入社。アイアコッカ氏が開発を主導した低価格のスポーツカー「マスタング」は、64年の発売直後から若者の間で爆発的に売れた。この成功が評価され社長にまで上り詰めたが、創業家と対立して78年に解任された。同年、ライバルのクライスラーに請われて社長として入社し、79年会長就任。議会を説得して政府の債務保証を取り付けた上で、自らの年俸を1ドルにカット。人員削減や小型車強化を断行し、石油危機の影響で販売不振にあえいでいたクライスラーの黒字化を果たした。この再生手腕によって「カリスマ経営者」として名をはせ、自伝「アイアコッカ」は世界的なベストセラーとなった。80年代に激化した日米貿易摩擦では、日本車排斥運動の急先鋒(せんぽう)としても知られた。92年にクライスラーを退職した。




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