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●NHK人間講座 「映画を見る眼」 〜映像の文体を考える〜 小栗康平

1981年に名作『泥の河』を発表して以来、作家性の強い映画を作り続けてきた小栗康平監督が、映画を中心に映像表現は、どういう考え方で、どんな約束事に基づいてなされているのかを、自作映画を例にとりあげ、8つの小テーマに沿って話すシリーズである。
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講師紹介: 群馬県前橋市生まれ。早稲田大学第二文学部演劇専修卒業後フリーの助監督になり、篠田正浩監督「心中天網島」、浦山桐郎監督「青春の門」などに参加。監督第1回作品は1981年の「泥の河」。自主上映され、やがて全国公開。キネマ旬報・ベストテン第1位、モスクワ映画祭銀賞など国内外で数々の賞を受賞した。以降、84年「伽子のために」(ジョルジュ・サドゥール賞受賞)、90年「死の棘」(カンヌ国際映画祭グランプリ・カンヌ90、国際批評家連盟賞受賞)、96年「眠る男」(モントリオール世界映画祭審査員特別大賞受賞)の4作品を発表。著書に「哀切と痛切」「見ること、在ること」(ともに平凡社)がある。


第1回 「映像表現と文章表現」
小栗さんは、言語や文章には文法という社会共通のはっきりした約束事があり、誰もが生まれてすぐから毎日、家庭や学校でそれを学んで行くのに、映像については系統立てて学ぶことがないという。映像のリテラシー(読み書き能力)が不十分だと考えている。映像の溢れる現代こそ、映像表現のしくみを知る必要があるという立場から、映画と映像表現を具体的に読み解いて行く。

第2回 「サイズとアングル」
撮影画面のサイズ(視野の広さ)とアングル(カメラの位置)に焦点をあてる。例にとるのは小栗さんの第1回監督作品『泥の河』。カメラの位置は、どういう考えから決められるのか、画面のサイズをクローズアップにすることが生む効果は何か、などを、原作の小説、シナリオ、出来上がった映画を比較しながら話をすすめ、文章とは異なる映像表現の独特さを解き明かす。

第3回 「編集と時間」
シナリオに沿って撮影された数百のカットをつないで監督の意図する流れをつくり出す編集という作業を映画『眠る男』を例に考えます。例えば、前のカットのセリフと次のカットのセリフをどれくらいの間をとって編集するか、それが映画の文体にも影響します。今回のもうひとつのテーマは、映像で時間を表現する難しさです。ハリウッド映画のように短いアップを多用して早いテンポをを生む映像と対極にある『眠る男』のゆったりとした時間表現の手法を解き明かします。

第4回 「場と光」
ドラマが展開する「場」をどう設定し、観客に「場」を意識してもらうにはどうするかです。映画『死の棘』を例に、ロケーションによる撮影で「場」を描く場合とスタジオにセットを作って撮影する場合を比較しながら考えます。『死の棘』では、スタジオ照明を映画の常識をこえたやり方で使用して、独特の空を表現しています。この狙いは何だったのか、その説明から映画における「場」の大切さと「場」の表現に光(照明)の工夫が欠かせないことを話します。

第5回 「音声と言葉」
人間の目と耳は、見たいものだけを見、聞きたい音だけを聞くという便利な選択機能をもっています。テレビや映画の画面のサイズをアップやロングに変えるのは、この目の機能に対応させています。音の方は、聞かせたい音だけをマイクで録音することは難しく、ダビングという作業で音を分けたり、足したりして、映画の作品世界に合う音に仕上げます。このとき、セリフ(言葉)と効果音や音楽をどこでどのように入れるかで、映画の文体が違ってくるといいます。小栗さんが自作の『伽子のために』などを例に、映画で音の果す役割を考えて行きます。

第6回 「映像の“ナラティブ”」
「ナラティブ」とは物語のことですが、映像で語るナラティブは、言葉で物語を語る小説とは大きな違いがあります。映画のシナリオにあった言葉のうち、人物の喋るセリフ以外は全て映像におきかえられてしまうからです。映画のナラティブは、画面のサイズやアングル、画面と画面のつなぎ方、照明のあて方など、いわば映画言語によって語られます。映画が持つ固有のナラティブ(語り方)を、強く意識し、独特の形式、いわば独自の映画の文体をあみ出したのが小津安二郎監督です。小栗さんが小津監督の『東京物語』と自作の『伽子のために』を例に、映像にしかできないナラティブとは何かを考えて行きます。

第7回 「実写とアニメーション」
生身の俳優がセットや実際の風景の中で演じ、ドラマが進行する作品を実写映画といいます。これに対し、登場する人物や動物も背景となる場も全て絵に描いて撮影するのがアニメーションです。実写とアニメーション、2つの映像表現には、どんな違いがあるのでしょうか。評価の高い2つのアニメーション、「木を植えた男」と「話の話」を例に、実写には不可能な表現を見て行きます。そして反対にキャラクターを主人公とする作品を例に、アニメーション表現の限界を考えてみます。

第8回 「映像の今日性」
言語は各民族、それぞれに固有です。言語表現は簡単には民族の壁を越えられません。それに対して映像による表現は易々と国境をこえて行きます。テレビが映画以上に民族の壁をこえる力をもっていることは、9.11のニューヨーク・テロのテレビ中継で改めて示されました。ずっと前からハリウッド映画は世界中を席捲しています。こうした状況では、各民族の文化や風土と関係のない単一な映像表現が、私たちの映像リテラシーを貧しくしていくのではないか。今こそ映像が本来もつ多様な表現、文体を探らなければいけない。そう小栗さんは考えています。
(text from NHK site)

NHK教育 25min×8 2003-06-02・09・16・23・30 / 07-07・14・21 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)


>GP-230〜233を1枚にまとめたもの。






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