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●「鉄くず拾いの物語」 An Episode in the Life of an Iron Picker


■イントロダクション

世界中が胸を熱くした奇跡のヒューマンストーリー。
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◎人生は時として、あまりにも理不尽で厳しい。それゆえ、人間はたくましく美しい。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナに暮らすロマの一家は、貧しくも幸福な日々を送っていた。ある日、3人目の子供を身ごもる妻・セナダは激しい腹痛に襲われ病院に行く。そこで医師から今すぐに手術をしなければ危険な状態だと、夫・ナジフに告げられた。しかし保険証を持っていないために、鉄くず拾いで生計を立てている彼らにはとうてい支払うことのできない手術代を要求される。妻の手術を懇願するも病院側は受け入れを拒否。「なぜ神様は貧しい者ばかりを苦しめるのだ」と嘆きながら、ただ家に帰るしかなかった・・・。家族を守るために奔走する無骨だか優しい眼差しのナジフ。懸命に試練と向きあい、決して憤ることなく、大切な人と共に生きることの意味を静かに投げかける彼の姿に、観る者は心を揺さぶられるだろう。

◎「ノー・マンズ・ランド」のダニス・タノヴィッチ監督が、当事者たちを起用して描いた感動の実話。
戦争の愚かさを描いた「ノー・マンズ・ランド」で、アカデミー賞外国語映画賞など数々の賞を受賞し衝撃のデビューを飾ったダニス・タノヴィッチ。その後もエマニュエル・ベアールを始めとする名だたる俳優たちが共演した「美しき運命の傷痕」を発表するなど世界を舞台に活躍。2011年に故郷ボスニア・ヘルツェゴヴィナの新聞で、ナジフとセナダに起こった“できごと“を知り「何としても映画にして、世間に訴えなければいけない」と立ち上がった。ボスニア紛争の最前線で記録映像を撮っていた頃のシンプルな手法に立ち戻り、たった1万3000ユーロの自己資金でわずか9日間の撮影を敢行。実際の当事者であるナジフとセナダを出演させ、まるでドキュメンタリーのような緊張感のある映像世界を創り上げる。夫婦の記憶を一緒に辿るドキュドラマという斬新なアプローチで、感情の機微を丁寧にすくい取る感動作を誕生させた。

◎まさに奇跡!実人生をも大きく変えた運命の映画。
2013年ナジフとセナダは監督から名前を取り「ダニス」と名付けた3人目の子供を抱えて、ベルリン国際映画祭に参加。審査員であるウォン・カーウァイやティム・ロビンスに熱狂的に支持され、見事に三冠に輝いた。その存在感で、演技の経験が全くないにも関わらず銀熊賞・主演男優賞を受賞するという快挙を成し遂げたナジフは地元のヒーローとなり、本作をきっかけに保険証と定職を手に入れる。一家の実人生をも大きく変えた奇跡の映画。


■ストーリー
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ボスニア・ヘルツェゴヴィナに住むロマのナジフとその妻セナダは、2人の娘と一緒に暮らし、セナダは3人目を身ごもっていた。ナジフは拾った鉄くずを売り一家の生計を支え、貧しいながらも穏やかで幸せな生活を営んでいる。ある日、ナジフが長い労働から家に帰ると、セナダが激しい腹痛に苦しんでいた。翌日ナジフは車を借り、一番近い病院へとセナダを連れて行く。流産し5カ月の胎児はお腹の中ですでに死んでいると診断され、遠い街の病院で今すぐに手術をしなければ命に関わる危険な状態だと言われる。しかし保険証を持っていなかったため、彼らには支払うことのできない980マルク(500ユーロ)もの手術代を要求された。ナジフは「分割で払わせてくれ」と、必死に妻の手術を看護師や医師にお願いするも受け入れられず、その日はただ家に戻るしかなかった。ナジフはセナダの命を救うため、死にもの狂いで鉄くずを拾い、国の組織に助けを求めに街まで出かけてゆくが・・・。


■監督プロフィール&コメント
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◎監督・脚本: ダニス・タノヴィッチ
1969年ボスニア・ヘルツェゴヴィナ生まれ。サラエボのフィルム・アカデミーで習作を数本撮った後、 92年のボスニア紛争勃発と同時にボスニア軍に参加。「ボスニア軍フィルム・アーカイヴ」を立ち上げ、戦地の最前線で300時間以上の映像を撮影。その映像はルポルタージュやニュース映像として、世界中で放映された。94年にベルギーに移住してINSASで再び映画を学ぶ。2001年にボスニア紛争を描いた「ノー・マンズ・ランド」で監督デビューを果たし、アカデミー賞外国語映画賞、ゴールデン・グローブ賞外国語映画賞、カンヌ国際映画祭脚本賞などを数々の賞を受賞する。05年にはエマニュエル・ベアール、キャロル・ブーケなどフランスを代表する俳優たちを起用し、クシシュトフ・キエスロフスキの遺稿を映画化した「美しき運命の傷痕」を発表。その後、コリン・ファレル主演の「戦場カメラマン 真実の証明」(2009)・「Circus Columbia」(2010)で、戦争とその結果について描いた。08年ボスニア・ヘルツェゴヴィナにて「私たちの党」という政党も立ち上げている。

◎コメント
〜社会的に恵まれない人々〜
この映画は現実の事件の再現です。その意図するところは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの差別を示すことです。社会について、あらゆる種類の疎外や差別について、私たちは議論を促すだけでなく被害者の置かれた状態を感情的に理解し「自分たちはどんな人間になってしまったのか」を、自身に問うために、この話を描かなければならないと思いました。あの戦争で人々の信じられないような勇気と献身を目撃しました。自分の命を懸けて困っている人を助けようとしていました。戦争から15年が経ち、私たちは社会的に恵まれない人々から目を逸らし、自分たちを取り囲む恐怖を見て見ぬ振りをするような社会に生きています。その中に善良な人間がいない限りは、どんなシステムであれ非人間的なものなのです。

〜差別〜
本作の中には人生の悲しい事実があります。単純に彼ら夫婦がロマだから民族差別され、このような不幸な出来事が起こったとは思いません。ボスニア・ヘルツェゴヴィナには多くの被差別民がいます。この国のほとんどの人は何らかの形で差別を受けているのではないかと思います。貧しさから差別されているということもあります。これは誰の身にも起こることなのです。私がこの映画を作ったのは、彼らがロマだったからではなく、起こった出来事に頭にきたからです。この夫婦は戦ったし、威厳があり力があった。悲壮な人ではなく偉大で愛すべき人です。私は恥ずかしながら、彼らに会うまでロマといえば信号で車の窓ガラスを拭きに来たり、物乞いしている人しか知らなかった。私が最も描きたかったのは、ひとりの女性が医療を拒まれ、出血で死にそうになったという事実です。もし僕の妻だったとしたら、僕は人殺しもしかねない。ナジフは、ただひたすら解決の方法を探し続けた。その点を僕はとても尊敬しています。

〜企画の起源〜
2011年の年末、地元の新聞でセナダのことを読みました。私は本当に頭にきて、すぐに友人でプロデューサーでもあるアムラ・バクシッチ・ツァモに電話し、この件について知っているか尋ねました。数日後、私はこの村を訪ねて、この夫婦に温かく歓迎されていると感じました。映画を作りたいと伝えると少し怯えたようでした。私自身も何をしていいのかその時は良く分かってはいませんでしたし、この出来事を通常の映画にするには1年か2年かかる、ということでアムラと私は意見が一致し一度は諦めました。数日後、私は再び村に戻り、映画で自分たち自身を演じてはくれないか、と彼らに提案してみたのです。彼らはどうしていいか分からないようでした。私もこんなことはやったことがなく、最悪の場合、誰にも映画を見せる必要はない、と言いました。それでもやってみたかったのです。数日後、彼らが同意してくれました。どんな結果になるかは確信が持てなかったのですが、やってみなくてはならないと感じていました。

〜真実の物語〜
これは真実の物語です。できる限り綿密に描きました。すべての場面をナジフに説明してもらい、その通りに再現しました。きちんとした脚本はありません。もっとドラマティックにする必要も感じませんでした。起こったこと自体がすでに信じがたいものだったからです。映画に登場するほとんどすべての人々は、実際の出来事で同じ役割を担った人たちです。違う人に演じてもらったのは、セナダを手術するのを拒んだ医者です。これは誰の目にも明らかな理由から映画に出すことができなかったので、医者である私の友人に出演を依頼しました。もう一人、セナダを手術した医者も友人です。これは予算が限られていて、サラエボで撮影しなければならなかったからです。セナダとナジフは映画に出てきたポーリャ村というロマ地区に住んでいます。その住民のすべての協力に私はとても感謝しています。ほとんどの場面は実際の場所で撮られています。

(original text from Official site by Bitters End)









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