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[2020 京都 K氏エディション]


●プロジェクトX -挑戦者たち-(093)「救命救急 ER誕生」 〜日本初 衝撃の最前線〜

昭和41年、大阪は万博開催を4年後に控えて道路が拡張。事故の発生率が全国一となり「交通戦争」と呼ばれた。しかし、重症患者を治療できる病院は少なく「たらい回し」が社会問題となった。大阪府は、大阪大学付属病院に24時間重症患者を受け入れる施設の設置を要請。昭和42年8月、日本初の「特殊救急部」が誕生した。リーダーは34歳の杉本侃(つよし)。メンバーは皆20代から30代の若者だった。第1号の患者は入れ墨の男。抗争事件で腹を刺されていた。「人殺しを助けるのか」と学内から揶揄された。患者の多くは「指を切った」「目にゴミが入った」など軽傷者。メンバーの気持ちは萎えていく。ある日、交通事故で全身傷だらけになった「多発外傷」の患者が訪れる。メンバーは頭や内臓などを懸命に処置。しかし、全く傷のない肺の機能が低下し、患者は亡くなった。理由が分からなかった。以来「多発外傷」との闘いが始まる。血の海・緊迫した声が飛び交う医療の最前線。修羅場の中で、若き医師達は次第に自分の専門分野を磨いていく。そして、再び「多発外傷」の患者が運び込まれて来た。杉本以下メンバーは総力を挙げ、消えゆく患者の命と向きあった。そして運命の一瞬。日本初の救急医療に挑んだ若き医師達の壮絶な闘いのドラマ。
(original text from NHK site)

40チャプター付加&音量150%化|ノイズなし
NHK総合 43min 2002-07-23 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo

> DR-108にも、2002年にVAIO PCV-RX60KでDVD化した無チャプター版あり





●プロジェクトX -挑戦者たち-(138)「命のリレー 出動せよ 救急救命士」

心臓発作・脳溢血・交通事故、突然襲う生命の危機。その時、真っ先に駆けつける男達がいる。救急救命士である。今、年に2000人を超す人々が心肺停止状態から一命を取り留めている。しかし、わずか12年前には日本の救急隊員は無力感に苛まれていた。医療行為が、法律で許されていなかったからだ。一旦心臓や呼吸が止まると、脳は3分しか持ちこたえられない。隊員達は、搬送中に多くの急患が手遅れになるのを、手をこまねいて見ているしかなかった。 救急隊はただ患者を搬送するだけだったため「運び屋」と呼ばれるほどだった。救急隊の前に立ちはだかったのは、法律の壁「医師法第17条」。「医師でなければ医業はしてはならない」医療は医者の聖域として守られていた。ところがアメリカの救急隊は、法律で多くの医療行為が認められていた。電気ショック・気管内挿管・輸液投与など、心肺停止状態になった患者に対して救急隊が効果的に救命処置ができ、多くの命が救われていた。心肺停止状態から社会復帰する人たちは20%とも言われており、ほとんどゼロに等しい日本とは比べものにならなかった。「アメリカにできることが何で日本でできないんだ」「助かる命も助からない」立ち上がったのは、東京消防庁の男達。組織をあげて法律の壁に挑んだ。そして、平成3年「救急救命士法」が成立。一部の医療行為が救急隊に許されるようになった。今や全国に13000人(救急隊の63%に配属)。救急医療の最前線に革命をもたらした救急救命士。その誕生のドラマを描く。
(original text from NHK site)

40チャプター付加&音量200%化|ノイズなし
NHK総合 43min 2005-11-08(2004-02-24の再放送) Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Mono (MPEG-1)

> 録画した再放送冒頭の上部字幕「2003年2月に放送したもの」は間違い=初回放送は2004年2月24日
> HDD-C 0104にビデオカプセルを残してある





●プロジェクトX -挑戦者たち-(164)「地下鉄サリン 救急医療チーム 最後の決断」

平成7年(1995)3月20日午前8時、都内の地下鉄で出勤途中の人々を人類史上初の毒ガステロが襲った。「オウム真理教・地下鉄サリン事件」乗客や地下鉄職員が、車内やホームで次々に倒れた。およそ3千人が救急車で、都内各地の救命救急センターに搬送された。最大の受け入れ先になったのは、東京築地の聖路加国際病院。「すべての業務を停止して、患者の治療に当たれ」院長の日野原重明の決断の下、全スタッフが結集した。待合室・廊下・病院内の教会にまで病人たちが運び込まれ、治療が始まった。先頭に立ったのは、医師・石松伸一(36)。患者は瞳孔収縮、謎のけいれんが起きていた。一刻も早い処置が必要だった。しかし石松たちは、症状の原因がつかめなかった。当初、大方の見方は農薬中毒。だが、治療の先頭に立った石松は疑っていた。農薬を飲まないで、瞳孔収縮が起きるなど聞いたことがなかった。薬の種類を間違えれば、患者の症状を悪化させる危険があった。石松は、混乱する現場で処置を早まらないようにスタッフに呼びかけ、必死に原因究明にあたった。その時、石松の元に一本の電話が入った。長野県松本市の信州大学付属病院・柳沢信夫からだった。半年前に起きた「松本サリン事件」で、治療の指揮を執った医師だった。救急車で運ばれる患者をニュースで見て、松本サリン事件と似ていることに気づいた。柳沢は、石松にサリンの可能性を伝えた。それを受け取った石松。十分な検査をしている余裕などなかった。一つの解毒薬が思い浮かんだ。「PAM」間違えば、患者を死に至らせる危険な薬だった。石松は決断した。「何もしなければ患者は死ぬ。可能性に賭ける」。番組は、地下鉄サリン事件の混乱の中、命と向き合った医師たちの壮絶な闘いを紹介する。
(original text from NHK site)

40チャプター付加&音量150%化|受信障害により映像全体に軽いノイズあり
NHK総合 43min 2005-02-08 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Mono (MPEG-1)

> HDD-G 0654にビデオカプセルを残してある



> 2020年8月のダビング依頼により初編集したDVD





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