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■第1回 岩手県陸前高田市 〜消防団が見た巨大津波〜
128人の団員のうち、28人の死亡・行方不明者を出した、岩手県陸前高田市の消防団、高田分団。写真店、電気店、生花店、市役所職員などのなりわいをもち、災害時に出動して危険な任務につく団員たちは、親族同然の付き合いで、町の人たちの信頼も厚かった。3月11日、地震発生後、団員たちは水門を閉めようとただちに海岸の防潮堤に向かったり、交差点に向かい道路の閉鎖と避難誘導を始めたりしたが、予想もしなかった巨大津波の前になすすべもなかった。

■第2回 宮城県女川町 〜静かな港を襲った津波〜
震災前、1万人の人々が暮らしていた宮城県女川町は、リアス海岸がつくる深くて静かな良港を持ち、沖合に優れた漁場を有する水産の町。全国有数のサンマの水揚げ高を誇り、カキやホタテの養殖も盛んに行われてきた。東日本大震災では、これまで恵みをもたらしてくれた静かな海が姿を変えて町を襲い、死者・行方不明者の数は800人以上、およそ12人に1人が犠牲となった。水産業は大きな被害を受け、多くの人々が生きる糧を失った。

■第3回 福島県南相馬市 〜原発危機 翻弄された住民〜
巨大津波と原発事故、ふたつの大災害に直面した福島県南相馬市。
福島県のまとめによると、南相馬市での死者・行方不明者は600人をこえる。からくも津波から逃れた住民たちをさらに追い詰めていったのが、福島第一原子力発電所で相次いで発生した原発事故だった。国が原発でおきつつある深刻な事態を十分把握しきれていなかったため、避難すべきかどうか判断するための確かな情報が、国や県から南相馬市へ、さらには住民へと伝えられることがなかった。

■第4回 岩手県大槌町 〜津波と火災におそわれた町〜
岩手県大槌町は巨大津波の直後から猛火にもおそわれ、多くの犠牲を生んだ。大槌町の死者・行方不明者は千二百人をこえている。そのおよそ半数を檀家にもつ江岸寺は、町の津波避難所に指定されていた。震災当日、津波は山すその寺にまで達し、避難してきていた人々をのみこみ、本堂や庫裏を破壊した。自らも津波におそわれ、かろうじて救われた江岸寺の住職は、家族が行方不明のまま、親戚の寺に間借りして、犠牲者の供養を続けた。

■第5回 宮城県石巻市 〜北上川を遡った大津波〜
岩手県を源流に石巻市内を流れ、追波湾へと注ぎ込む北上川。かつては河口から十数キロに渡り、かやぶきに使われるヨシ原が広がり、シジミやカキの養殖でも有名だった。あの日、津波は、大きく蛇行する北上川に、数回に渡って押し寄せ、河川沿いのほとんどの集落を飲み込んでいった。地震直後、河口の長面(ながつら)地区の人々は山へと避難を始めたが、真っ黒な巨大津波は取り残された老人たちを瞬く間に押し流した。

■第6回 福島県大熊町 〜1万1千人が消えた町〜
東京電力福島第一原子力発電所が立地する、福島県大熊町。かつては産業に乏しく、出稼ぎが人々の暮らしを支えていた。41年前に営業運転を始めた原発は雇用を生み、町は大きく発展してきた。長年にわたって“安全神話”が信じられ、住民の二世帯に一人は原発関係で働く原発城下町だった。その原発が巨大地震と津波に襲われ、制御不能に陥った原発は炉心溶融し、水素爆発を起こした。

■第7回 岩手県山田町 〜それでも海に生きる〜
岩手県山田町は、カキやホタテの養殖に力を入れてきた漁業の町である。なかでも殻がついたままで出荷する大粒のカキは全国一の生産量を誇っていた。あの日の大津波で船や養殖のいかだなど漁業が受けた被害は2百億円をこえ、山田湾では漁船の8割近くが失われた。船が助かった漁師たちの中には、収入の柱であった養殖の代わりに、当面漁で生計をたてる人もいる。海がもつ怖さを知り、傷つきながら、それでも海とともに生きていこうとする人々の証言を記録する。

■第8回 宮城県山元町 〜“ベッドタウン”を襲った津波〜
太平洋に面する市町村の中で、宮城県の最南部に位置する山元町。ほぼ直線の平らな海岸線を持つこの町では、総面積のおよそ4割が浸水し、2000戸以上の家屋が全壊、600人余りの人々が命を失った。震災前まで、沿岸の平野部には、農地と住宅地が広がっていた。仙台との距離はおよそ35km。かつては海沿いを常磐線が走り、仙台駅までの所要時間は40分余りだった。もともと農業が基幹産業だった山元町だが、交通網の発達に伴い、震災前には、仙台などの都市部に通う通勤者・通学者にとっての、いわゆる「ベッドタウン」となっていた。震災が起こったのは、金曜日の昼下がり。多くの人が町の外に働きに出ていた中、町に残っていたのはお年寄りや子どもたちだった。ある老夫婦は、働く娘夫婦から預かっていた幼い孫娘の命を守ろうとした。町の外で働いていたため、津波が迫る中、家族の元に駆けつけられなかった人は少なくない。働き盛りの世代が少ない状況の中で、懸命に命を守ろうとした人々の証言を記録する。

■第9回 福島県三春町 〜ヨウ素剤・決断に至る4日間〜
東京電力福島第一原発から西に50Kmに位置する福島県三春町。原子力災害とは無縁だったこの町で、震災4日後の3月15日、安定ヨウ素剤が住民に配られ服用が促された。この薬は放射性ヨウ素から体を守る効果を持つ重要な薬であったが、服用には国もしくは県の指示が必要とされていた。情報が錯そうする中、三春町の職員たちは独自に調査を行い、独自の判断で服用の指示を決意する。その葛藤から決断にいたる4日間の証言を伝える。

■第10回 岩手県宮古市 〜三陸鉄道を襲った大津波〜
岩手県の海岸に沿っておよそ100Kmを走る三陸鉄道。通称“さんてつ”の名で親しまれ、昭和59年の開業以来28年にわたって地元の人々の足として活躍してきた。3月11日、大津波は鉄路や駅舎を破壊した。しかし、宮古市にある“さんてつ”の本社は一日も早い運行再開を決意、震災翌々日から復旧に動き出す。職員たちは不眠不休で工事計画を立て、修復材の手配を行い、再開前には壊れた踏切には職員が信号の代わりに立って安全を確認した。そして3月20日、震災後はじめての列車が宮古駅を出発した。被災直後の混乱の中、市民の足を守るために格闘した鉄道マンたちの思いを描く。

■第11回 宮城県気仙沼市 〜津波火災と闘った島〜
リアス式特有の海岸と美しい砂浜で知られ、「緑の真珠」と例えられてきた気仙沼大島。東日本大震災のとき、重油が流れ出した気仙沼湾の火災が大島にも燃え移り大規模な山火事に発展した。津波で本土との連絡手段のほとんどを失った島の人々は、鎮火まで4日半にわたる孤独な闘いを強いられた。消防士も消防団も疲労困ぱいする中、300人以上の住民たちが立ち上がり、スコップや杉の板で火をたたき消したり、可燃物を取り除き防火帯を作ったりして、消火作業に協力した。これまで全く想定されていなかった複合災害に、島民はどう立ち向かったのか。島を守り通した人々の7日間を記録する。

■第12回 福島県浪江町 〜津波と原発事故に引き裂かれた町〜
東日本大震災によって、184人の死者・行方不明者を出した浪江町。請戸地区を中心とする沿岸部は、津波によって住民の1割が亡くなった。余震が続く3月12日早朝、福島第一原発から10km圏内に避難指示が出される。それは被災者に、家族の安否が分からないまま逃げなければいけないという、酷な選択を迫るものだった。町民の必死の訴えによってようやく捜索が始まったのは、震災から一か月後の4月14日。長く放置された遺体は変わり果て、家族にも判別が困難な状態だった。遺族たちは、今も肉親を残して避難したことへの自責の念に苦しんでいる。これまでに例のない巨大津波と原発事故の二重災害に見舞われた浪江町の人々。その壮絶な体験を、証言によって記録する。

■第13回 岩手県釜石市 〜津波で孤立した港町〜
岩手県南部に位置する釜石市は、製鉄所のある中心市街地の他に、入り組んだ海岸線に沿って20ほどの港町が点在している。そのひとつ箱崎町は、高さ11メートルの津波におそわれ、町に通じる道路が通行不能となり陸の孤島となってしまった。外部からの救援が期待できない中、箱崎では生き残った住民たちが力をあわせて対応した。住民たちは津波の翌日から重機を使ってがれきを撤去し、道路の復旧を始めた。また、がれきの中から見つかる遺体の収容も住民たちが自ら行った。それは皆、昨日まで一緒に暮らしていた仲間だった。自衛隊が本格的な捜索を始めたあとも住民の代表が立ち会い、遺体の身元確認を手伝った。立ち会いをした植田秀実さん(59)は「箱崎の犠牲者をすべて弔うまでは復興は始まらないと思い取り組んだ」と語る。津波で孤立する中、亡くなった人を家族の元に帰すために力を尽くした箱崎の住民たちの証言を紹介する。

■第14回 宮城県南三陸町 〜高台の学校を襲った津波〜
2011年3月11日、宮城県南三陸町を襲った津波は、800人を超える人の命を奪った。志津川湾の南西に位置する戸倉地区には、20mを超える津波が襲い75%の家屋を水没させた。20mの高台にあり震災時の指定避難場所だった戸倉中学校の校庭にも津波は押し寄せた。中学校の校庭には学校の災害マニュアルに従って集まった生徒たちとともに近隣の住民が大勢避難していた。生徒60人を含む200人は思いもよらない津波に逃げ惑った。教師の菊田浩文さん(50)は同僚と共に老夫婦を救おうとして波に飲まれ、一人だけ生き残った。生徒たちは、水に沈む生存者を即席ロープで助けようとしたり、低体温症で生死をさ迷う男性に抱きついて温めたりして必死に救助活動を行なった。同僚を失い生きる気力を失いかけた菊田教諭は、教え子たちの姿が心の支えとなって、少しずつ生きる力を取り戻していく。安全と思われた戸倉中学校を襲った大津波。大きな混乱の中で教師や生徒は、何を思い、どう行動したのか。命を守るためのぎりぎりの行動とそれぞれの心の軌跡を記録した。

■第15回 福島県葛尾村 〜全村避難を決断した村〜
東京電力福島第一原発から20キロ〜30キロ圏内に位置する福島県葛尾村。地震の被害はほとんどなく、また、国からも県からも避難指示は出されていなかった。にもかかわらず、地震からわずか3日後に、全村避難を決定する。それは、原発事故を重くみた村による独自の判断だった。14日夜9時過ぎ、村は全戸に避難を呼び掛け、あわただしく村を離れた。しかし村には、その後も50人ほどが残った。その多くは畜産農家だった。手塩にかけて育ててきた牛をどうするのか、国からも県からもはっきりとした方針が示されず、畜産農家は追い詰められていく。絶望し、自ら牛を殺処分した農家、最後まで殺処分に抵抗した農家。全ての村人が村を離れたのは、およそ3か月後だった。全村避難した小さな村で何があったのか。その決断と苦悩を伝える。

■第16回 岩手県野田村 〜“祭り”を奪った津波〜
岩手県北部、人口4800の野田村。人々は、山林と海に囲まれたわずかな土地に肩を寄せ合うように暮らしてきた。土地が狭く、主だった産業のなかった村では、長年、出稼ぎが人々の暮らしを支えてきた。男たちの多くが故郷を離れて暮らす中、村の結束をはかってきたのが年に一度の夏祭りだ。子どもからお年寄りまで村人総出で行われる祭り。しかし、大津波は、村の人々が大切にしてきた祭りの山車をのみこんだ。祭りが育んだ人と人とを結ぶ絆。津波によってその絆を奪われた人々の証言を記録する。

■第17回 宮城県東松島市 〜指定避難所を襲った大津波〜
日本三景、松島の東に位置する宮城県東松島市。大震災による死者・行方不明者は1100人を超え、家屋の全半壊は全住宅のおよそ3分の2にあたる11000棟以上に及んだ。あの日、避難所に指定されていた野蒜(のびる)小学校の体育館には、老人ホームのお年寄りや保育園の子どもたち、そして学校の児童およそ370人が避難していた。その体育館に大津波が襲いかかった。高さ3メートルの黒い水は体育館の中で洗濯機の渦のように荒れ狂い、30人近い地域住民の命を奪った。一方、たまたま校舎の3階に避難した住民は全員無事だった。なぜ多くの人々は校舎でなく体育館に避難したのか。そして、大津波警報があったにもかかわらずなぜそこにとどまったのか。元小学校教師や老人ホームの元職員、体育館で妻を亡くした遺族の証言から、野蒜小学校に集まった人々の一日を克明に追い、安全だと信じられていた指定避難所の悲劇を検証する。

■第18回 福島県飯舘村 〜逃げるか留まるか 迫られた選択〜
東京電力福島第一原発から40キロの距離にありながら、深刻な放射能汚染にさらされた福島県飯舘村。1か月の間、政府からの避難指示はなく、村長の菅野典雄さんは村にとどまり、村民の生活を守ろうと尽力した。一方、幼い子どもをもつ母親たちは、放射能への不安を募らせ自主避難を決意する。しかし、公的な避難指示がない中で避難を続けることは難しく、次々に村に戻っていった。4月、政府から計画的避難の方針が打ち出された後も、菅野村長は事業所の操業継続を交渉するなど、住民の生活の基盤を残すために奔走。全村避難が完了するまで時間がかかり、原発事故から3か月たっても村内に残っている母親と子どもたちがいた。子どもの命を守るために逃げるのか、生活を守るためにとどまるのか。苦渋の選択に迫られ続けた小さな村の記録。

■第19回 岩手県大船渡市 〜静かな湾に押し寄せた大津波〜
岩手県南部の大船渡湾は内陸部に深く入り込んだ波静かな天然の良港だった。沿岸には魚市場やセメント工場があり、漁船や運搬船など様々な船が行きかっていた。2011年3月11日の地震直後、漁師たちは船を守るために沖へと出ようとした。しかし、大津波は、湾の入り口に両岸から突き出した防波堤の間で勢いを増し、2隻の漁船を飲み込んでしまう。一方、湾の奥深くに停泊していた運搬船も津波に襲われた。ロシアから来た魚の運搬船は操縦が出来なくなり、岩山に乗り上げて座礁してしまう。命からがら助けを求めたのは日本の大型セメント運搬船だった。あの日、大船渡湾で荒れ狂う波に翻弄されながらも、船を守るために必死に闘った漁師と船乗りたちの証言を記録する。

■第20回 宮城県多賀城市 〜産業道路の悪夢〜
東北最大の物流拠点、仙台港の北に隣接する宮城県多賀城市。港に集積された物資を東北各県に運ぶ、国道45号線と県道23号線、通称「産業道路」を中心に発展した街だ。2011年3月11日、地震からおよそ1時間後「産業道路」は避難する車で渋滞していた。そこに津波が押し寄せた。津波はあっという間に1.8mに達し、車を押し流し、車から逃げ出した人々を飲み込んだ。津波からかろうじて生き残った人々は、何時までたっても引かない水の中で、車の屋根に乗って救助を待ち続けた。一度氷のような水に濡れた人々をさらに夜の闇と氷点下3度の厳しい寒さが襲う。救助を待つ間に、体温と体力を奪われたお年寄りが低体温症におかされていく。震災の日の夜、産業道路沿いにあった中古車販売店の敷地に取残された18人が、迫りくる死とどのように闘ったのか。津波によって変貌した都市の恐怖を証言でつづる。

■第21回 福島県富岡町 〜“災害弱者”突然の避難〜
福島第一原発からおよそ10kmに位置する富岡町は、震災翌日、突然の避難指示で全町民が避難を余儀なくされた。町の人々が着のみ着のままで避難する中、障害者施設、高齢者施設等で暮らす人たちは、度重なる移動や劣悪な環境下での生活を余儀なくされ、その避難は困難を極めた。本人の体調悪化はもとより、彼らに付き添った施設の人々の苦労も計り知れないものがあった。また、避難指示の際に逃げ遅れ、町に一人で取り残された高齢の障害者もいた。突然の避難に翻弄された“災害弱者”たちの証言記録。

■第22回 岩手県宮古市田老 〜巨大堤防を越えた津波〜
2005年に宮古市と合併した旧田老町は、明治29年と昭和8年の大津波で壊滅的な被害を受けた歴史を持つ。「二度と津波で死者を出さない」と誓った人々は、巨大堤防を築き、避難路や警報設備を整備し、避難訓練を繰り返すなど、万全の備えを固めていた。しかし、東日本大震災で犠牲者は181人、人口の4%にのぼった。中でも、漁港近くの野原地区では人口の1割が犠牲となった。ここはかつて津波の危険地帯とされ、住む人はほとんどいなかった。最初に建設された巨大堤防の外側にあり、堤防にぶつかった津波のエネルギー を誘導する場所だったためだ。しかし、昭和30年代後半になると、行政は防災と発展の両立を目指し、海側に新たな堤防を建設。並行して野原地区の宅地化を推進した。二重になった巨大堤防は、津波防災のモデルケースとして高く評価され、津波に備えて高台に住んでいた人たちも新しい堤防を信じて平地に戻ってきた。だが実際は、海側堤防は主に高潮を防ぐための「防潮堤」であり、大津波の圧力に耐えられるようには設計されていなかった。昭和8年の教訓から生まれた大津波対策は、なぜ生かされなかったのか。堤防の能力や役割と住民の認識とのギャップはなぜ生まれ、どのように広がったのか。住民たちの証言から見つめていく。

■第23回 宮城県仙台市荒浜 〜住民の絆を引き裂いた大津波〜
400年ともいわれる歴史を持つ仙台市東部の荒浜地区。太平洋に面し、穏やかな気候に恵まれたこの地区では、古くから受け継いできた伝統行事や学校の運動会を通して、住民同士の深いつながりを培ってきた。あの日、地震が平日の午後に起きたため、働き手の多くは町の外に出ていて不在、町に残っていたのは、ほとんどがお年寄りだった。残された人々は、高齢者の救出活動に奔走。町外で働いていた人も、荒浜に駆けつけた。地域の絆を頼りに津波到達ぎりぎりまで、住民を救おうと奮闘した人々の証言記録。

■第24回 福島県相馬市 〜津波と放射能に巻き込まれて〜
9メートル近い津波に襲われた福島県相馬市。県立自然公園の松川浦に沿った漁師町、原釜・尾浜地区、磯部地区を中心に458人の死者を出した。松川浦漁港にあった漁業協同組合の職員は、津波の直撃を受けた。津波から船を守るために「沖出し」をした漁師は、10メートル近い波を何度も乗り越えて、船を守るが、その間に陸に残してきた妻を亡くした。船よりも住民の避難誘導を優先した漁師の消防団員は、波に飲まれて命を落とした。そして、原発事故により漁師たちは現在も操業自粛を余儀なくされている。津波と放射能に翻弄された、海に生きる人々の苦難を証言で追う。


第25回 岩手県大槌町 〜病院を襲った大津波〜
三陸海岸のほぼ中央に位置する岩手県大槌町。医師不足が深刻で、地域医療の拠点である大槌病院も、内科医3人だけの厳しい体制だった。病院は町にあった5つの診療所と助け合って医療体制を維持していた。あの日、町は大津波の直後から猛火に襲われ、大勢の人々は身動きが取れず孤立した。大槌病院でも患者を屋上に避難させ、夜を徹して、看護師たちの懸命の看護が行われた。町の診療所も津波により全壊。それでも、開業医たちは震災翌日から町の避難所を分担して診療を始め、大槌病院の入院患者も受け入れた。普段から培っていた大槌町の病院と診療所の協力体制が災害を乗り切る大きな力となった。震災で多くのものが失われた中、必死に命をつなごうとした医療関係者たちの証言を記録する。(2014年2月2日 放送)

■第26回 宮城県名取市 〜誰も想像できなかった〜
宮城県名取市の海沿いに広がる閖上(ゆりあげ)地区。昔から「遠浅の閖上の海には津波は来ない」と信じられていた。あの日、指定避難所だった閖上公民館に300人あまりが避難していた。しかし、防災無線は鳴らず、集まった住民の危機感は薄かった。その時、防災無線の故障と幹線道路での交通事故という2つの不測の事態が起きていた。地震からしばらくたった頃、「10mの津波がくる」という情報がもたらされる。避難していた人々は2階建ての公民館では危険だと近くの3階建ての中学校へと向かった。しかし、交通事故による渋滞も加わり避難が遅れ、その結果、750人あまりが犠牲となった。更地となった閖上ではいま、被災者が語り部となって閖上公民館の悲劇を訪れる人々に伝えている。(2014年2月23日 放送)

■第27回 福島県いわき市 〜そしてフラガールは帰ってきた〜
いわき市湯本にある大型レジャー施設でフラダンスを披露し、地域を盛り立ててきた「フラガール」。あの日、彼女たちはショーが終わった直後に東日本大震災に見舞われた。レジャー施設は休業、29人いたフラガールは自宅待機となった。津波で家を失った人、原発事故のため自宅に帰れなくなった人、放射能への見えない不安から県外に避難した人など、メンバーは散り散りになって震災後の混乱の日々を送る。しかし、震災から1か月あまり、29人全員が再結集した。そして、被災地復興のためのキャラバンをスタートさせた。震災で踊りを奪われたフラガールたちの日々とふるさと福島への思いを描いた。(2014年3月16日 放送)

■第28回 千葉県旭市 〜遅れて来た大津波〜
九十九里浜の北部に位置する千葉県旭市は、あの日、震度5強の地震に見舞われた。沿岸の住民たちは指定されていた避難所や、内陸へと避難した。その後、押し寄せた2度の津波は、堤防をわずかに越える波だった。そのため多くの住民が安心して帰宅してしまう。しかしそれから1時間後の午後5時20分頃、7.6mの巨大津波が街を襲った。この津波による死者・行方不明者は合わせて15人、600棟以上の家屋が破壊された。震源から遠く離れた関東にありながら、津波によって東北の被災地に匹敵する被害を被った。地震が起こってから、大津波が来るまでの2時間半。旭市の住民たちは何を考え、どう行動したのか、証言で振り返る。(2014年4月27日 放送)

■第29回 宮城県石巻市 〜津波と火災に囲まれた日和山〜
東日本大震災で最も多い4千人の犠牲者を出した宮城県石巻市。中でも日和山の南に広がる石巻旧市街の南浜・門脇地区では400人あまりが亡くなっている。街は、津波とその後に発生した津波火災で、壊滅的な被害を受けた。さらに、日和山では震災翌日の早朝まで深刻な危機が続く。9千人が避難していた山に津波火災が迫り、しかも市内の奥深くまで侵入していた津波が日和山を水の中で孤立させていた。日和山の中央出張所の消防士たちは応援の無いまま、限られた機材と人員、水で、人々を守るために奮闘した。水と火に追い詰められた、瀬戸際の15時間に迫る。(2014年6月1日 放送)

■第30回 福島県双葉町 〜放射能にさらされた病院〜
東京電力福島第一原発が建つ双葉町。町で唯一の総合病院だった双葉厚生病院では、震災翌日、寝たきりの患者と医師、看護師など100人あまりが避難用のヘリが到着する高校に移動した。その直後、原発が水素爆発を起こす。原発建屋の資材が高校のグラウンドにも舞い落ち、高濃度の放射能にさらされた。2時間後、救助ヘリが到着したが、地域の住民も乗り込んだため、病院関係者など56人が取り残され高校で一夜を過ごした。後の検査で、双葉高校にいた多くの住民が内部被ばくしていることが判明した。避難生活中に妊娠し、悩みぬいた末に出産を決意した女性もいる。番組では、突然の避難で放射能にさらされた病院の患者とスタッフの苦悩を証言でつづる。(2014年6月29日 放送)

第31回「岩手県釜石市」〜身元確認・歯科医師たちの闘い〜
千人をこえる死者・行方不明者を出した岩手県釜石市。なかでも被害が大きかったのが「鵜住居(うのすまい)町」である。580人もの人々が犠牲となり、急ごしらえで安置所となった工場跡には被災直後から次々と遺体が運び込まれてきた。遺体からは地元の歯科医師によって、歯の記録が取られた。また、別の歯科医師は津波で壊れた医院から患者の歯の記録「カルテ」を探し出した。そして、カルテを遺体の歯の記録と照合することで、次々と身元が判明した。遺体の多くは、数日前まで一緒に暮らしていた町の知り合い。自らも被災しながら、遺体を間違いなく家族のもとに帰すために苦闘した2人の歯科医師の証言を伝える。(2014年8月3日放送)

第32回「宮城県気仙沼市」〜杉ノ下高台の戒め〜
宮城県気仙沼市は早くから津波防災に力を入れてきたが、東日本大震災では大きな被害をこうむった。中でも気仙沼湾の入り口に位置する杉ノ下高台では、避難してきた集落の住民およそ60人が津波にのまれるという悲劇が起きた。原因のひとつは、この高台が気仙沼市の指定した一時避難場所だったことにある。行政は住民と勉強会を重ね、最新の研究成果も採り入れながら、ここまで津波が来る可能性は低いと判断し、緊急時の避難を呼びかけてきた。住民も、明治の大津波で水が到達しなかったこの高台であれば安全だと信じていた。番組では、行政と住民が陥った津波対策の盲点を当事者の証言で綴る。(2014年8月31日放送)

第33回「福島県南相馬市」〜孤立無援の街で生き抜く〜
福島県南相馬市は、福島第一原発の事故の際に20キロから30キロ圏に出された屋内退避指示のため、放射能汚染地域とみなされ、一切の物資が入ってこなくなった。当時、市内には5万人の市民が残っており、たちまち食料、生活物資、燃料の窮乏に苦しむことになる。孤立無援の人々を助けたのは、避難をあきらめて店を開け続けた鮮魚店主や、入院患者のために残った医師や看護師、市の要請を受けて避難先から戻り支援物資を運んだ運送業者ら南相馬の市民たちだった。番組では、津波に続く原発事故で危機感が高まり屋内避難指示に至る南相馬で、深刻な物不足の中、人々がいかに生き抜いていったかを証言で綴る。(2014年9月28日放送)

第34回「岩手県遠野市」〜内陸の町 手探りの後方支援〜
岩手県遠野市は海岸から30キロ離れた内陸の町。幸い、命に関わる被害はなく、津波に襲われることもなかったが、震災発生からまもなく独自の判断で本格的な被災地支援に踏み切ることとなる。それは一人の男性が市役所に駆け込んで避難所の窮状を訴えたことに始まった。しかし、物資支援では現地のニーズとのミスマッチが起こり、錯そうする情報は支援の空振りを生む。結局、現地の生の情報を自ら入手するしかないとして、被災地の災害対策本部に応援を送り込むまでになる。番組では、情報が少ない中、被災地と情報のキャッチボールを重ねながら手探りで続けた後方支援を、遠野市の人々の証言で綴る。(2014年10月26日放送)

第35回「宮城県仙台空港」〜津波まで70分 空の男たちの闘い〜
東北地方の中核空港である仙台空港は3月11日の大津波によって飲み込まれ、機能を失った。しかし、地震発生で空港が閉鎖されてから水没までの間、ヘリコプターや飛行機を離陸させようと懸命に闘った男たちがいた。災害調査を行う国土交通省東北地方整備局や報道各社のヘリの運用を担っていた民間航空会社、災害時の被害調査や被災者救出を任務とする海上保安庁仙台航空基地の職員たちだ。彼らは地震で動かなくなった格納庫のシャッターをこじ開け、機能を失った空港当局に代わって自ら滑走路の安全点検を行った。津波までの70分、懸命に任務を果たそうとした空の男たちの姿を証言で綴る。(2014年11月30日放送)

第36回「福島県新地町」〜津波は知っているつもりだった〜
100人余りの犠牲者が出た福島県新地町。大津波警報が出ても多くの人が逃げようとせず、地震の後片付けをしたり、海岸に津波見物に行っていた。津波を警戒しなかった理由はこの町が唯一経験した1960年(昭和35年)のチリ地震津波の体験にある。人々の記憶には被害が少なかった津波ではなく、水が引いた海岸で魚や海藻を取った思い出ばかりが残っていた。今回の津波でも、人々はチリ地震津波を越えないと勝手に思い込んでしまった。番組ではひとつの集落の人々の行動をつぶさにたどりながら、過去の津波体験に基づく思い込みが多くの犠牲につながっていった仕組みを証言で綴る。(2014年12月14日放送)


(text from NHK site) https://www.nhk-ep.com/products/detail/h18126AA





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