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●その時 歴史が動いた 「戦国の剣豪、太平を築く」 〜柳生宗矩・「活人剣」の真実〜

その時: 1635 (寛永12) 年6月21日
出来事: 将軍徳川家光が武家諸法度を制定

「柳生新陰流」の剣の達人であり、時代劇のヒーロー・柳生十兵衛の父である柳生宗矩。徳川幕府の安定に大きな役割を果たし、230年あまり続く太平の世を創り出す。そこには、理想と現実の狭間で葛藤した宗矩の生涯が大きく影響していた。没落した柳生家の跡取りだった宗矩は、徳川家康に見出される。剣術で仕えるとばかり思っていた宗矩だったが、徳川の敵を倒すため、忍者さながらの諜報工作を担わされる。親族や門弟を諸国の大名のもとへ剣術指南として送り込み、情報を収集する宗矩。しかし幕府の命じるままに任務を果たしたために、友をあざむき死に追いやるという悲痛な体験に宗矩は襲われてしまう。苦悩した宗矩は、盟友の禅僧・沢庵や3代将軍となる徳川家光と出会う。そして、徳川政権成立後も続いた豊臣恩顧の大名との合戦に苦しむ庶民を救う「活人剣」の思想に開眼していく。宗矩を剣の師として慕う家光を通じて戦乱の無い世を実現するため、再び非情の諜報に身を投じるが、ついに武家諸法度の改訂によって幕府安定の礎を固める。現在に続く柳生新陰流の様子も交えながら、剣豪・柳生宗矩の太平の世を求めた、知られざる苦闘の人生を描く。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK総合 45min 2007-01-10 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->E 0023





●その時 歴史が動いた 「東京オリンピックへの道」 〜平和の聖火 アジア横断リレー〜

戦後最大のイベント・東京オリンピック。その始まりを告げる聖火には、日本が平和な国家に生まれ変わったことを世界に伝えたいという悲願が込められていた。実は戦前、東京での開催が決まっていながら、戦争の影響で幻に終わっていた。戦後再び東京招致に挑戦した日本水泳連盟の田畑政治(まさじ)らは、反日感情の渦巻くアジアの国々を聖火でめぐり、平和の祭典の象徴にしようとした。その長く険しい実現までの道のりを描く。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-01-31 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->E 0142





●その時 歴史が動いた 「完成・戦国最強軍団」 〜武田信玄・苦悩の生涯〜

戦国最強をうたわれた武田信玄率いる家臣団。しかし実際はは一枚岩でなく、信玄はその統率のために心を砕く一生だった。最新の研究を織り交ぜて、信玄の苦悩の生涯を描く。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-02-07 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->E 0041





●その時 歴史が動いた 「鉄は国家なり」 〜技術立国 日本のあけぼの〜

明治維新。日本は西欧列強に追いつくため、近代製鉄に取り組んだ。国家の威信をかけ官営製鉄所を建設するが、設備や技術者を移入しただけの「鉢植え」の技術では日本の原料や風土に合わなかった。そのとき、欧米帰りの技術者・野呂景義とその弟子たちが立ち上がり、徹底した調査で移入技術を日本に適したものに変えていく。鉄とレールの国産化に挑む技術者たちの姿を通して、ジャパン・オリジナルの技術力誕生までの道のりを描く。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-02-21 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->E 0455





●その時 歴史が動いた 「天下は我が掌中にあり」 〜黒田如水・もうひとつの関ヶ原〜

徳川家康と石田三成が東西に別れて激突した関ヶ原の戦い。その裏をかき、天下を奪おうとした第3の男がいた。戦国最強の軍師・黒田如水(官兵衛)である。如水は豊臣秀吉に天下を取らせたあと、その才を危険視されて九州豊前に隠居していた。慶長5年、家康と三成が対立すると、如水は、両者激突のすきに九州を制圧し、疲弊した勝者を討つという戦略を実行に移した。天下を狙った最後の武将の壮大な野望を描く。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-02-28 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->E 0325





●その時 歴史が動いた 「所得倍増の夢を追え」 〜高度経済成長の軌跡〜

昭和35年に総理大臣・池田勇人が打ち出した「国民所得倍増計画」。この計画の生みの親がエコノミスト下村治である。下村は日本人を貧困から救うべく画期的な経済成長論を生むが、経済の専門家たちは真っ向から否定。そんなとき下村に理解を示したのが池田だった。こうして所得倍増計画はスタートするが、目標達成目前に日本経済は失速。そのとき下村はどんな策を訴えたのか。世界第2位の経済大国に至る知られざる道のりを描く。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-04-11 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->F 0842





●その時 歴史が動いた 「源頼朝 魔法の大逆転」 〜富士川の戦い〜

源平合戦の初戦である富士川の戦い。平氏軍を恐怖のどん底に突き落とし、敗走させたのは、20万騎という想像を絶する源頼朝の軍勢の数だった。なにしろ源頼朝は、その2か月前にわずか40騎で伊豆で決起し、惨敗、再起不能の危機に陥っていたのだ。頼朝はいかにして短期間に大軍勢を結集し、富士川に布陣することができたのか? わずか2か月の大逆転劇。その真相を描く。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-05-16 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->C 0720





●その時 歴史が動いた 「日本ミステリー誕生」 〜江戸川乱歩・大衆文化との格闘〜

その時: 昭和22(1947)年6月21日
出来事: 江戸川乱歩 探偵作家クラブを設立する

日本ミステリーの生みの親・江戸川乱歩。大正時代、日本で初めて本格的トリックを用いた作品「二銭銅貨」でデビューして以来、戦後にいたるまで日本ミステリー界を牽引し続けたパイオニアである。トリックや頭脳的な推理を中心とした本格もの、怪奇・幻想的なタッチで人間の欲望に迫った短編群、エロスとアクションが満載の娯楽長編、また子供世代の冒険心と想像力をかきたてた「少年探偵団シリーズ」。今日の「虚構の世界で人間存在の本質に迫る」日本ミステリーの幅広さを生み出した。大衆化の進む昭和初期、乱歩は、大衆の目を意識した娯楽作品を書くことで、その普及を訴えたが、日中戦争・第二次世界大戦によって、大衆社会は失われミステリーもまた絶滅の憂き目を見る。時には作家、時にはプロデューサー的な役割、と相反する2つの顔で苦悩や挫折を繰り返してきた江戸川乱歩。番組では乱歩自らその葛藤を綴った自分史のスクラップ「貼雑(はりまぜ)年譜」などを手がかりに、乱歩が日中戦争・太平洋戦争をいかに乗り越え、戦後、ミステリーを復興させ、大衆文化の一ジャンルとして確立させるに至ったのか、その苦闘を追う。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-05-16 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->F 0745





●その時 歴史が動いた 「苦しむ患者を救いたい」 〜イタイイタイ病裁判・弁護士たちの闘い〜

その時: 昭和46(1971)年6月30日
出来事: イタイイタイ病裁判で、原告団が三井金属神岡鉱業所に勝訴

昭和46年6月30日。日本の公害裁判史上、初めて被害者が大企業に勝訴したイタイイタイ病裁判。それは、社会が公害と初めて向き合い、裁判所も被害者救済のために新たな法解釈を生み出した画期的な判決であった。それを支えたのは全国から無報酬で立ち上がった若手弁護士だったのである。高度経済成長に沸き立つ昭和の日本では、その裏で熊本や新潟の水俣病、四日市ぜんそくなどの公害が社会問題となっていた。被害者たちは裁判に訴えるが、因果関係の立証に時間がかかり、なかなか決着がつかなかった。それを突破したのが、イタイイタイ病裁判であった。戦後、富山県の神通川流域に多発したイタイイタイ病は、骨がもろくなり、激しい痛みを伴う病気で、原因不明のために風土病や業病と言われてきた。しかし、地元の開業医などの研究で、病気の原因が鉱山から流れてきた鉱毒のカドミウムであると突き止められる。企業の冷淡な対応に打つ手のない被害者たちを救ったのが地元出身の弁護士を中心に全国から無報酬で集まった若手弁護士たちだった。番組では、当時の被害者団体の代表や弁護士の証言などを交え、勝訴までの知られざるドラマを描く。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-06-04(2007-03-07の再放送)
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●その時 歴史が動いた 「メキシコ五輪 奇跡の銅メダル」 〜日本サッカー・勝てる組織作り〜

その時: 昭和43(1968)年10月24日
出来事: メキシコ五輪サッカーで日本が銅メダルを獲得

昭和43年のメキシコオリンピック。サッカー日本代表は、南米やヨーロッパの強豪国を次々と破り、見事、銅メダルを獲得した。しかし、その数年前まで日本サッカーはアジアのチーム相手にも勝てず、どん底の状態にあえいでいた。それを勝てるチームに変貌させたのがドイツ人コーチ、デットマール・クラマー氏だった。自国開催の東京オリンピックの強化のために来日したクラマーは、代表選手の技術の未熟さに愕然とし、基本技術を徹底的に叩き込んでいく。そうした中で、クラマーは日本人の体格や性格の特徴を活かしたチームづくりを目指していく。その指導は、指導者の育成にもおよんだ。クラマーの指導によって生まれ変わったサッカー日本代表は、東京オリンピックで強豪国のアルゼンチンに勝利。クラマーが去った後、監督やコーチは、選手の特徴を最大限に生かした必勝パターンを見出し、4年後のメキシコオリンピックで見事銅メダルに輝いた。 番組では、貴重な記録映像や当時の選手、指導者の証言などを交え、どん底にあえいでいた日本サッカーが世界相手に勝てるチームに成長するまでの組織改革の日々を描く。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-06-06 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->B 0822





●その時 歴史が動いた 「ニッポン外交力誕生」 〜伊藤博文・神戸事件解決〜

その時: 慶応4(1868)年2月2日
出来事: 備前藩が新政府の命令を受け入れ神戸事件解決

明治維新の年、神戸が欧米列強に占領される事件が起きた。明治新政府初の外交問題となった神戸事件である。備前藩兵の行列をフランス兵2人が横切った事を発端に、事件は銃撃戦にまで展開。激怒した列強は、神戸を軍事統治下においた。この事件の解決にあたったのが、長州藩士・伊藤博文だった。英国に留学し、下関砲撃事件では列強と講和交渉を行うなど、すでに国際経験が豊富だった伊藤は、この事態に新政府の代表として立ち向かう。列強は、新政府に対し、事件関係者の処刑を要求。一方、事件当事者の備前藩は、江戸時代以来の慣習に従ったまでと、受け入れようとしない。伊藤は列強からの要求と、国内の慣習の狭間で葛藤する。武力衝突は絶対に回避したいとの思いから、伊藤ら新政府が採用したのは、当時の国際法「万国公法」だった。伊藤たちは、万国公法をもとに備前藩の説得にあたり、「新国家」のためにこれを受け入れさせる。番組では、占領の危機を脱し、外交によって国際舞台へと飛躍した近代日本の外交力誕生の瞬間に迫る。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-06-13 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->B 0522





●その時 歴史が動いた 「乱世に祈りを」 〜蓮如・理想郷の建設〜

その時: 文明15年(1483)8月22日
出来事: 蓮如 山科本願寺を完成

戦乱や災害が相次いだ室町時代から戦国時代にかけて、人びとは宗教に救いを求めたが、一部の腐敗した僧侶のために苦しんでいた。この様子を見つめていたのが当時各地を修行でまわっていた京の僧侶・蓮如である。蓮如はまず僧侶たちに正しい宗教者の心得を説き、一方「仏の前では皆平等」という教えに立ち返る。また、それまで難解だった仏教の真髄をわかりやすく説いた文書で多くの門徒を獲得、教団はまたたく間に拡大した。しかしこの動きに対して、ときの政治権力や他宗派の人びとが警戒を始めた頃から教団の暴走が始まる。一部の門徒たちが蓮如の意向に反して武装化を進め、ついには応仁の乱の権力争いに参加してしまうのだ。失意の蓮如は1人教団を去り、京・山科の地に立つ。そして生涯最後の試みとして、この地に仏の教えによって治められる理想の国「仏法領」を作ろうと決意する。番組では京都に今も残る「仏法領」の遺跡などを紹介しながら乱世の民衆救済に賭けた蓮如の生涯を追う。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-06-20 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->D 0558





●その時 歴史が動いた 「天才信長をつくった男」 〜今川義元 真説・桶狭間の戦い〜

その時: 永禄3(1560)年5月19日
出来事: 桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を討つ

織田信長がその名を天下にとどかせた桶狭間の戦い。今川義元の大軍を信長が奇襲し、奇跡的な勝利をとげた合戦として知られている。しかし近年の研究で、これまでの義元像そして桶狭間の戦いそのものの実態に、従来の通説と異なる様々な事実が明らかになっている。貴族化した武将とされてきた今川義元は、実際は、家臣・農民の組織化をはかり一大軍事集団を作り上げた革新的武将だった。一方、東海地方の覇権をめぐって対立していた織田氏は、義元に敗退を重ねていた。父・信秀の死後、義元との戦いを引き継いだのが信長、この時わずか19歳。“天才的な武将”とされる信長だが、実はその手本を敵将・義元に求め、その強さの源である「組織力」を徹底的に学んでいた。その中から信長はさらなる創意を重ね、のちに“ノブナガイズム”ともいわれる独自の軍事力を作り上げていった。頭角をあらわす信長に危機感を抱く義元は、ついに信長軍殲滅(せんめつ)を決行。義元と信長。戦国の革新者である2人が、世代交代をかけ、桶狭間で激突する。番組では、戦国の改革者・今川義元と、その彼としのぎを削ることで成長を遂げた若き織田信長、この両雄の対決を描く。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-07-11 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->F 0494





●その時 歴史が動いた 「忘れられた島の闘い」 〜沖縄 返還の軌跡〜

その時: 昭和47(1972)年5月15日
出来事: 戦後、米軍支配が続いていた沖縄が、日本に復帰

太平洋戦争末期の沖縄戦以降、アメリカ施政下に27年間置かれた沖縄。あまり知られていないその実状と復帰までの長い道のりに迫る。戦後、本土から切り離されアメリカの直接統治下に置かれた沖縄は、東西冷戦下、反共の拠点として基地化を進められる。沖縄では、何よりもアメリカ軍の軍事利益が優先し、人びとの土地は基地建設のために強制収用されていった。戦後に本土の人びとが得た基本的人権の保障とはほど遠い状態が続いた。しかし、やがてそうした状況を打開しようとする模索が始まる。その一人が、のちに那覇市長を勤める瀬長亀次郎だった。瀬長は軍事優先のアメリカの政策を非難し、沖縄に平和と人権を取り戻すために「祖国復帰」を訴えた。そんな瀬長をアメリカは逮捕や政界追放などで追いつめる。しかし瀬長の姿は沖縄の人びとの心をつかみ、アメリカへの抵抗は「島ぐるみ」の運動へと発展。そして沖縄の人びとの声は本土で高まっていた反戦運動と結びつき、ついに日米両国政府を動かし、沖縄の日本返還が実現する。番組では、祖国復帰への道を開いた沖縄の人びとの知られざる闘いの道のりを描く。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-08-01 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->F 0063





●その時 歴史が動いた 「冷戦の壁を破ろうとした男」 〜石橋湛山・世界平和への願い〜

その時: 昭和34(1959)年9月17日
出来事: 石橋湛山が周恩来に日中米ソ平和同盟の構想を示す

戦前、日本がアジア侵略を進める中「日本は植民地をすべて放棄すべきである」と帝国主義を真っ向から批判した男がいた。経済誌「東洋経済新報」の記者、石橋湛山である。湛山は植民地経営の経済的非合理性を説き、大東亜共栄圏の思想を否定したために国家から弾圧を受ける。それでも主張を曲げなかった湛山は戦後、吉田茂から経済立て直しを託されて大蔵大臣に就任。「世界平和を実現し貿易立国として生きる小日本主義」を掲げる。ところが東西冷戦構造が深まり日本が共産主義の防波堤の役割を担わされると、湛山は冷戦構造の打破に動き出した。昭和31年、内閣総理大臣に就任した湛山は中国・ソ連との関係回復を目指すが、アメリカと激しく対立。その矢先、病に倒れ退陣を余儀なくされる。しかし、悪化する中国との関係を憂えた湛山は病をおして訪中を実現。周恩来に直接「日中米ソ平和同盟」構想を訴えた。それは冷戦構造に風穴をあけようという画期的なものだった。この提案に周恩来も同意。その後日中貿易が本格的に再開され、日中国交回復の礎を築いた。戦前・戦後を通して平和のために闘い続けた石橋湛山の不撓不屈の生涯を通して日本の針路を見つめ直す。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-08-06(2007-07-04の再放送)
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●その時 歴史が動いた 「引き裂かれた村」 〜日米戦の舞台・フィリピン〜

その時: 1946年7月4日
出来事: 米国のもとでフィリピンは独立を宣言

1941年にぼっ発した太平洋戦争。その最も激しい戦場の一つがフィリピンだった。アジア進出の足がかりとしてここに軍事基地を置いていたアメリカと、インドネシアの石油など南方の資源を確保するための重要拠点と考えた日本は、フィリピンを舞台に激しく衝突したのだ。「大東亜共栄圏建設」を大義名分に掲げ、アジアの解放をうたう日本は、現地でフィリピン人部隊「マカピリ」を組織する。参加したのは、戦前からアメリカの植民地支配に抵抗していた人びとだった。一方アメリカも、日本の占領に反対するフィリピン人を抗日ゲリラとして組織した。やがて抗日ゲリラに手を焼いた日本軍は、一般住民をも巻き込んだゲリラ掃討戦を展開するようになる。その際に日本軍が活用したのがマカピリだった。しかし、戦況は好転せず、1945年9月フィリピンの日本軍はアメリカ軍に降伏する。その後、取り残されたマカピリは、人びとの憎しみを一身に浴びることになった。番組では、住民同士が激しく対立して争った村に視点を据えて、日本とアメリカの間で翻弄され今も癒えることのない傷を残すフィリピン民衆の苦悩と独立への道のりを描く。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-09-05 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->C 0652





●その時 歴史が動いた 「赤ちゃんを死なせない」 〜乳児死亡率ゼロ・ある村の記録〜

その時: 昭和38(1963)年1月1日午前0時
出来事: 沢内村が乳児死亡率ゼロを実現

「もはや戦後ではない」。昭和30年代、戦後の復興によって、都市部では豊かな暮らしを享受し始めていた時代、地方ではいまだに赤ちゃんがたやすく死んでいく事態が続いていた。特に全国でも最悪の乳児死亡率だったのが岩手県だ。そんな中、一山村の村長が、赤ちゃんの命を守るために立ち上がった。岩手県沢内村の深沢晟雄(ふかさわまさお)だ。当時、沢内村では100人生まれたうちの7人が1歳を迎える前に亡くなるほど深刻な乳児死亡率だった。冬になると豪雪が道を遮断して病院に通えず、また病院に信頼できる医師もいなかった。村にまん延していたのは「赤ちゃんは死んでも仕方がない」というあきらめの心。深沢はそんな状況をひとつずつ打開し、徐々に村人の意識を変えていく。そして法律違反を覚悟した乳児医療費の無料化も手がけていった。深沢が目指したのは、乳児死亡率の実現だった。番組では、当時の深沢を知る関係者の証言を交え、「命はなにものにも優先する」という信念をもって、全国に先駆けて乳児死亡率ゼロを達成した東北の一村長の奮闘を描く。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-09-19 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->C 0820





●その時 歴史が動いた 「日中国交正常化」

その時: 昭和47(1972)年9月29日
出来事: 日中共同声明に調印

昭和47年9月25日、ときの総理大臣・田中角栄が北京を訪れた。戦後日本外交の一大課題、中華人民共和国との国交正常化のためだ。悲願の達成を間近に控え、メディアは交渉の順調ぶりを伝えていた。しかし実際の外交交渉の現場は紛糾していた。日本の戦争責任についての謝罪をどう表現するのか?日本は、中国が認めない台湾との関係をどう清算するのか?4日間を予定した交渉は2日目ですでに暗礁に乗り上げていた。そして最大の争点は「日中戦争はいつ終わったのか」という問題に絞られていく。台湾と日華平和条約を結んだ昭和27年に日中戦争は終わったと主張する日本。しかし、中華人民共和国側は、日華平和条約は無効であり、日中戦争は今回の共同声明の公表の日に終了すると主張。両国の主張は平行線をたどった。それがなぜ、残り2日の話し合いで合意にたどりつくことができたのか。息詰まる外交交渉の裏側を、当時の関係者の証言を軸に、日中双方の豊富な記録を交えて描く。「その時歴史が動いた」300回記念番組。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-09-26 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->D 0507





●その時 歴史が動いた 「賤(しず)ヶ岳に散った夢」 〜猛将・柴田勝家の悲劇〜

その時: 天正11(1583)年4月21日
出来事: 柴田勝家 賤ヶ岳の戦いに敗れる

「信長死す」。定説では、本能寺の変の後、早い時点で羽柴秀吉が天下取りレースの主導権を握ったと言われる。明智光秀を討ち取った山崎の合戦、信長の後継者を決めるための清洲会議、そして織田家筆頭家老格の柴田勝家を滅ぼした賤ヶ岳の戦い。この間、終始秀吉のペースで事態が進んだように見られがちだが、最近相次いで公開された新史料から、賤ヶ岳の戦いに至るまで二人が水面下で激しい攻防を繰り広げていたことが浮かび上がってきた。去年一般に公開された柴田勝家の書簡によると、秀吉の独走を抑えるため、勝家は家老格の武将の合議制によって織田家体制を維持しようとしたことが明らかになった。一方、今年初公開された秀吉の書簡によると、光秀を倒した直後、秀吉は政治的な要衝地に早くも天下取りを見据えた政治工作を行っていた事実が判明するなど、勝家を出し抜いて自らの覇権を確立しようと動き出していたことが分かってきた。新史料や合戦現場の発掘成果をもとに、賤ヶ岳の戦いに至るまでの秀吉・勝家の知られざる攻防の軌跡を明らかにする。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-10-10 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->F 0481





●その時 歴史が動いた 「銀を制する者は天下を制す」 〜毛利一族の戦い〜

その時: 慶長5(1600)年9月25日
出来事: 毛利一族が石見銀山を徳川家康に奪われた日

今年7月、世界遺産に登録された石見銀山。戦国時代、石見銀山の銀は、世界の産出量の3分の1を占めた。当時、銀を使ったヨーロッパ諸国との貿易で莫大な富を得ていた戦国武将たちは、石見銀山の争奪戦を繰り広げる。これを制したのが安芸の武将、毛利元就だった。石見の銀を手にした元就は、貿易によって火薬の原料となる硝石を大量に輸入。当時日本に入ってきたばかりの最新兵器・鉄砲を駆使して中国地方を統一する。しかし、その後、石見銀山は、織田信長そして豊臣秀吉に狙われることになった。毛利家を末代まで存続させよという元就の遺志を継いだ孫の輝元は、銀山を失えば毛利家は立ちゆかなくなるとの考えから、石見銀山を死守することに努める。輝元は、朝廷を味方に付けるなど様々な手を尽くして、信長・秀吉から石見銀山を守りぬいた。しかし、その後最大の危機が訪れる。関ヶ原の戦いである。それは、石見銀山を手に入れることで経済を掌握し天下統一を狙う徳川家康と、これを阻止し毛利家のために石見銀山を守り抜こうとした輝元との戦いでもあった。毛利家、そして石見銀山はどうなるのか?石見銀山に一族の命運をかけた毛利一族の戦いに迫る。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-10-24 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->F 0328





●その時 歴史が動いた 「奇兵隊」 〜幕末に命を賭けた若き庶民たち〜

幕末、長州藩の風雲児・高杉晋作によって結成された戦闘部隊・奇兵隊。身分より実力を重視し一般庶民の入隊を募った奇兵隊は、徳川幕府を破り明治維新を実現させる原動力となった。高杉の視点で語られることの多い奇兵隊だが、今回は隊士として戦った農民や町人たちに注目する。関門海峡を往来する外国船を目の当たりにして、外国に対する脅威と反発を強く感じていた長州藩の庶民たち。外国の攻撃に藩正規軍である武士たちが無力だったことから、庶民は奇兵隊の募集に積極的に応じ、長州藩各地では同様の部隊が次々と結成される。欧米4か国の大艦隊襲来に奮戦する奇兵隊。しかし、京都の政変をきっかけに幕府の大軍が派遣されると、長州藩は奇兵隊に一転解散を命じた。ここで隊士たちは藩を離れることを決意、自分たちと同じ庶民をよりどころに庶民のために戦うことを宣言する。藩政府の武士たちを打ち破り、さらに第二次長州征討で20倍もの幕府軍を迎え撃つ奇兵隊。その神出鬼没の戦いぶりはついに幕府軍を敗退へと追い込む。隊士の日記や彼らの日用品などを手がかりに、庶民出身の隊士たちの苦闘と勝利の瞬間を描く。
(text from NHK site)

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●その時 歴史が動いた 「国際連合加盟」 〜重光葵 日本から世界へのメッセージ〜

その時: 昭和31(1956)年12月18日
出来事: 日本が国連加盟を果たし、重光葵外相が「東西のかけ橋」演説をする

1956年12月18日、日本は80番目の加盟国として国連加盟を果たした。平和国家として出直しをはかる日本人が、長き孤立を脱し国際社会への本格的な第一歩を刻んだ日だ。その時、ニューヨークの国連総会議場で外務大臣・重光葵が世界に向けて日本の決意を語った。「日本は東西のかけ橋になりたい」。重光の演説は、戦後の日本が世界の一国としてどのように生きてゆけばよいのか、その姿勢と役割を鮮明に示した。昭和動乱の中、外交官として中国、ドイツ、イギリス、ソ連に渡り、数々の難交渉に立ち向かった重光。さまざまな局面で「戦争の回避」と「アジアの一員としての日本」を訴え続けたが、日本は国際社会から孤立、戦争への道をひた走った。重光は中国での停戦交渉の最中に片脚を失い、ミズーリ号降伏文書調印式では全権代表、ついにはA級戦犯として服役という逆境を味わう。しかし、その試練の中で育んだ平和への信念こそが国連加盟への尽力、そして国連加盟の受諾演説へと導いた。今回は、重光の演説をその現場で直接聞いた元国連事務次長・明石康氏とともにニューヨーク国連本部を訪ね、日本加盟の舞台裏に迫るとともに、重光が「東西のかけ橋」に託した思い、日本が国際社会で果たすべき役割について考える。
(text from NHK site)

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NHK総合 45min 2007-11-22(2007-11-14の再放送)
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●その時 歴史が動いた 「継体天皇 ヤマトを救う」

その時: 西暦528年11月
出来事: ヤマト政権が磐井(いわい)の乱を平定

1500年前の倭国。ヤマト政権は、皇位継承をめぐる豪族たちの争いで混迷を深めていた。そうした中、越前の地にいた王族が天皇位につく。第26代・継体天皇である。越前から近江にかけてを地盤とした継体天皇は、朝鮮半島との交易や鉄生産など、強固な経済的基盤を背景にしてヤマトの豪族たちに迎えられた。継体天皇はそれまでの天皇とは異なり、ヤマトの中枢には入らずに淀川沿いに王宮を構えて港づくりを展開する。それは、朝鮮半島との外交ルートを強化し、国家統一のために必要な大陸の先進の知識を導入するためだった。しかし、継体天皇が国家統一にむけて動き出したまさにその時、目の前に大きな敵が立ちふさがった。筑紫君磐井(つくしのきみいわい)率いる九州の豪族たちが、独立のために反旗を翻したのだ。ヤマト政権をゆるがすこの危機に、継体天皇は豪族たちの力を結集して立ち向かった。25年の治世で、ヤマト政権による国家統一の礎を築き上げた継体天皇。即位から1500年を迎えたいま、最新の考古学調査と史料分析から、謎多きその実像に迫る。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK総合 45min 2007-11-26(2007-11-21の再放送)
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●その時 歴史が動いた 「緒方洪庵・天然痘との闘い」

その時: 安政5(1858)年4月24日
出来事: 洪庵の進めた天然痘予防活動を幕府が公認

幕末猛威をふるった天然痘に、西洋の予防接種法=種痘をもってたちむかった医師・緒方洪庵。民衆の偏見や同業医師らの離反を乗り越えいかに人々に種痘を施していったのか。活動の根底にあった「医は是唯仁術を旨とす」という洪庵の医師としての信念を番組の軸に、医療の本質とは何かを見つめ直す。緒方洪庵は、幕末、福沢諭吉や大村益次郎など有為な人材を輩出した蘭学塾・適塾を開きながら、本職の医業に携わった。人材育成と人命保護。通底していたのは、「人を生かす」という洪庵の思想だった。その洪庵が半生をつぎ込んだのが、天然痘の予防だった。天然痘は幕末毎年のように流行し、驚異的な致死率を記録。運良く助かってもあばたが一生残るなど、人びとから命や明朗さを奪っていた。そんな中、洪庵はワクチンを入手。貧富の差なく、貧民には無料で種痘を開始。しかし悪説の流布や仲間の医師たちの離反などで種痘は広まらない。洪庵は自ら地方に出向き、種痘の技術と種痘を行う時の信念を医師たちに伝授する。やがてその信念は関東から九州にまで広がり、幕府をも巻き込む大きな潮流となった。番組では、洪庵の思いを受け継いだ地方の医師の足跡も取材。「人を生かす」という使命感のもと全国の医師と協力し合って種痘を広めた緒方洪庵の医業への取組とその信念に迫る。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK総合 45min 2007-12-03(2007-11-28の再放送)
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●その時 歴史が動いた 「戦後引き揚げ 660万人故郷への道」

その時: 昭和36(1961)年6月27日
出来事: 最後の集団引き揚げ船が門司港に入港

昭和20年、敗戦後に海外在住日本人660万人の帰国が問題となった。日本政府は当初、国内の混乱などを理由に「現地定住」の方針を堅持。なすすべのない彼らは、略奪や暴行、飢えなどに悩まされ、命さえ失う人々が続出した。こうした日本人の引き揚げを実現したのは、冷戦構造を自国に有利に図ろうとする大国の思惑からだった。多くの被害を出した旧満州からの人々の逃避行と大国の動きを見つめ、引き揚げの全ぼうに迫る。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK総合 45min 2007-12-13(2007-12-05の再放送)
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