玄関 / ライブラリ / 未整理映像ファイルメニュー / NHK総合: 「シリーズ世界遺産100」-2014前半C/





●シリーズ世界遺産100 「チャンパネール‐パーヴァガドゥ遺跡公園」 ~インド~

国名: インド
分類: 文化遺産
登録年: 2004年
遺産名(英語): Champaner-Pavagadh Archaeological Park

インド西部のチャンパネールは、4世紀頃からヒンドゥー教の王国として栄えた町です。近くのパーヴァガドゥの山には古い寺院があり、現在も聖地として多くの信者が訪れます。しかし、町中に残っている遺跡はイスラム教のモスクです。15世紀末、イスラムの王国が緑と水が豊かなチャンパネールを攻め落とし首都としたからです。「シリーズ世界遺産100」では、ヒンドゥーの地に建つイスラム教のモスクを紹介します。このモスクはイスラム様式ではなく、インドの伝統的な工法が用いられた独自の建築様式によって建てられています。建設にあたったのは、イスラムの王の命を受けた地元の職人たちです。しかし、彼らはヒンドゥー教寺院しか造ったことがなく、イスラム建築の工法を知りませんでした。そこで、職人たちはインド伝統の技術を駆使してモスクを造ったのです。例えば、モスクのドームは柱で支えられる構造になっています。イスラム様式では柱を用いず石を積み上げて造るので、ここのモスクは異色といえます。また、礼拝所を飾る装飾には、幾何学模様のイスラム装飾ではなく、インド文化の象徴ともいえる蓮の花やヒンドゥー教の儀式で使われる卍の模様や朝日の印が使われています。2つの文化が融合し、「インド-イスラム様式」という新しい芸術が誕生したのです。それは、新しい支配者の下でも伝統を守った、名もなき職人たちの仕事でした。
(text from NHK site)

NHK総合 5min 2014-03-25 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo --->地デジ VAIO-L





●シリーズ世界遺産100 「コロニア・デル・サクラメント歴史地区」 ~ウルグアイ~

国名: ウルグアイ
分類: 文化遺産
登録年: 1995年
遺産名(英語): Historic Quarter of the City of Colonia del Sacramento

南米ラ・プラタ河の河口に、ウルグアイ第二の都市コロニア・デル・サクラメントはあります。川の河口にあるコロニアは、古くから交通の要衝でした。そのため、幾度も植民地争いの舞台となりました。17世紀最初に街を築いたのは南米奥地に植民地を広げていたポルトガルでした。やがてウルグアイ一帯を支配していたスペインがこの街に侵出します。1680年、スペインは300人の先住民の奴隷を連れてポルトガルを攻撃、コロニアを奪います。両国の間で100年に9度も奪い合いがあったため、ポルトガルとスペイン建築様式の混在した町が生まれたのです。コロニアの争奪戦は18世紀、スペイン領となりいったん幕を閉じました。19世紀にはウルグアイ東方共和国が独立。戦争の象徴だった城壁は取り壊されました。
(text from NHK site)

NHK総合 5min 2014-03-28 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo --->地デジ VAIO-L





●シリーズ世界遺産100 「カセレス旧市街」 ~スペイン~

国名: スペイン
分類: 文化遺産
登録年: 1986年
遺産名(英語): Old Town of Caceres

カセレスがあるスペイン西部のエクストレマドゥーラ州は、荒涼とした大地でかつてはスペインで最も貧しい地方でした。そのせいか、「コンキスタドール(征服者)」と呼ばれる新大陸へ渡った者たちのほとんどが、この地方の出身でした。「シリーズ世界遺産100」では、新大陸からもたらされた富によって発展したカセレス旧市街の様子を伝えます。カセレスは中世以来、イベリア半島を南北に貫く「銀の道」の中継点として栄えてきました。1492年の新大陸発見によりその繁栄を極めるのです。スペインの南セビーリャが新大陸交易の拠点となると、カセレスには銀の道を通って、新大陸からの金銀が大量に持ち込まれました。征服者たちの何人かは、カセレスに戻ると故郷に錦を飾るため町に豪邸を築きました。持ち込まれた金銀はこうした邸宅を作るための財源となったのです。アステカ王国を攻め滅ばしたフェルナン・コルテスもカセレス近郊の出身です。カセレス新市街には、馬にまたがったコルテス像が立っています。
(text from NHK site)

NHK総合 5min 2014-03-31 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo --->地デジ VAIO-L





●シリーズ世界遺産100 「アゾレス諸島のアングラ・ド・エロイズモ」 ~ポルトガル~

国名: ポルトガル
分類: 文化遺産
登録年: 1983年
遺産名(英語): Central Zone of the Town of Angra do Heroismo in the Azores

アゾレス諸島は、ポルトガルの西1500キロの大西洋に浮かぶ諸島です。その中心にテルセイラ島があり、島の港町アングラ・ド・エロイズモが世界遺産に登録されています。「シリーズ世界遺産100」では、アングラの大航海時代における役割と、震災後の復興の様子を伝えます。ポルトガル人がアゾレス諸島を発見したのは、1427年と言われます。その中でもテルセイラ島は、波静かな入り江と豊富な真水に恵まれ、航海の中継基地としての条件を兼ね備えていました。15世紀後半からポルトガルの大航海時代が始まり、テルセイラ島のアングラはアジアや新大陸への航海の中継基地として栄えます。大西洋を横断するには、途中で食料や水を補給したり、船を修理する必要があったからです。16世紀には波止場の入り口に要塞も築かれました。陸揚げされる商品を海賊から守るためだけではなく、列強諸国も戦略上の要衝としてアングラの町を狙っていたからです。19世紀の末になり帆船の時代も終わると、アングラの役割も終えました。そして1980年の元旦、突然の大地震が島を襲います。死者が50人以上も出、町の歴史的建造物もほとんど瓦礫と化しました。ユネスコは1983年に世界遺産に登録、この歴史的遺産を復興させるための努力が今も続いています。
(text from NHK site)

NHK総合 5min 2014-04-01 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo --->地デジ VAIO-L





●シリーズ世界遺産100 「サン・ペドロ・デ・ラ・ロカ要塞」 ~キューバ~

国名: キューバ
分類: 文化遺産
登録年: 1997年
遺産名(英語): San Pedro de la Roca Castle, Santiago de Cuba

キューバ島南東部、サンティアゴ・デ・クーバ湾の突端に、1590年要塞が築かれました。スペインがイギリスの脅威に備えて作ったものです。以後要塞は増築と修復を繰り返し、現在の姿となっています。「シリーズ世界遺産100」では、スペインとイギリスのカリブ海での覇権争いの面影を伝えます。1588年、無敵を誇ったスペインの無敵艦隊は、ドーバー海峡でイギリスに敗れました。危機意識を強めたスペインはその2年後、カリブ海の要衝であるサンティアゴ・デ・クーバの町を守るために、湾の突端に要塞を築いたのです。新大陸やカリブ海での富を一手に握っていたスペインに対して、イギリスが攻撃してきたからです。要塞は何度かイギリス艦隊の攻撃を受けながらも、修復を重ね防御の役割を見事果たしました。17世紀にはイタリアの建築家も協力し、堅牢なルネサンス様式の優美さを今に残しています。毎日日暮れに要塞で行われる国旗降納の儀式。かつてスペイン兵が轟音を鳴り響かせた大砲を、今はキューバ軍兵士が守っています。
(text from NHK site)

NHK総合 5min 2014-04-02 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo --->地デジ VAIO-L





●シリーズ世界遺産100 「アルジャジーダのポルトガル都市」 ~モロッコ~

国名: モロッコ
分類: 文化遺産
登録年: 2004年
遺産名(英語): Portuguese City of Mazagan (El Jadida)

北アフリカモロッコの大西洋岸、カサブランカから90キロ南にアルジャジーダという小さな町があります。かつては「マサガン」というポルトガル名で呼ばれていました。「アルジャジーダ」というのは「新しきもの」という意味のアラビア語です。「シリーズ世界遺産100」では、ポルトガル人がインド航路開拓のために築いた城砦の町を紹介します。マサガンの町が築かれたのは1502年、ポルトガル人は自然の地形を利用し、海の上におよそ300メートル四方の要塞を築きました。インドに向かうポルトガル人の、アフリカにおける居住地域とするためでした。16世紀にはマサガンの都市開発も進み教会も作られましたが、1769年には蜂起したモロッコ軍に破れ、ポルトガル人は追い出されます。その後モロッコの王によって再建され、アルジャジーダという名前が与えられました。今世紀になりこの要塞からポルトガル人が作った貴重な遺跡が発見されました。司令官の館と思われる邸宅の地下で、巨大な貯水槽が見つかったのです。円柱の美しいゴシック建築で作られた、50メートル四方の地下室です。城壁の外から水が絶たれたときの非常用の貯水槽でした。
(text from NHK site)

NHK総合 5min 2014-04-04 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo --->地デジ VAIO-L





●シリーズ世界遺産100 「ウィーン歴史地区」 ~オーストリア~

国名: オーストリア
分類: 文化遺産
登録年: 2001年
遺産名(英語): Historic Centre of Vienna

オーストリアの首都ウィーンの歴史は13世紀、名門王家ハプスブルク家が最初の都と定めたことに始まります。現在のウィーン旧市街を取り囲む「リングシュトラーセ」と呼ばれる環状道路が出来たのは、19世紀末のことでした。この通り沿いには様々な歴史的建造物が立ち並び、建築様式のショーウィンドーと言われています。「シリーズ世界遺産100」では、環状道路がなぜ作られたのかをご紹介します。環状道路を作ったのは、フランツ・ヨーゼフ1世、ハプスブルク家最後の皇帝です。16世紀に絶頂期を迎えたハプスブルク家は、19世紀中ごろには衰退し帝国各地で独立を要求する暴動が起きていました。自らも暗殺未遂事件に巻き込まれ、帝国分裂という最大の危機を迎えたヨーゼフはウィーン大改造を決断します。旧市街を囲んでいた城壁を取り壊し、幅58メートルの環状道路を作りました。通り沿いには市民の心をつかむためオペラ座や、ギリシャ風の国会議事堂を建設しました。しかし歴史の波は容赦なくヨーゼフを襲いました。1914年、第1次世界大戦勃発。戦争のさなかフランツ・ヨーゼフは86歳で死去、ハプスブルク帝国はここに滅亡しました。
(text from NHK site)

NHK総合 5min 2014-04-09 Air check by Sony Giga Pocket Digital 3.5 Stereo --->地デジ VAIO-L










ページ先頭へ