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ガイアと重なるので(再)を録画する
●知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 「モーツァルト −神か天才か、それともアホか」 桂小米朝

1958年、大阪市生まれ。落語家。関西学院大学文学部卒業。78年8月、父である桂米朝に入門し、同年10月、京都の東山安井金毘羅会館「桂米朝落語研究会」にて初舞台を踏む。現在は古典落語で独特の境地を見せる一方、舞台、テレビ、ラジオなど幅広い分野で活躍。92年、大阪府民劇場賞奨励賞を受賞。2005年、兵庫県芸術奨励賞を受賞。絵を描くこととピアノの演奏が趣味で、ことにモーツァルト熱は重症。古典落語を収めたCD「桂小米朝の世界」(第1〜5集)がある。
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今年、生誕250年を迎える天才音楽家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。高座でもモーツァルトを様々な形で取り上げ、その魅力を笑いに包んで伝えてきたモーツァルトの伝道師、落語家の桂小米朝さん。多彩なゲストとともに、奇跡の音楽家・モーツァルトの世界を意外なエピソードをまじえながら、楽しく語る。

第1回 「粋なもんやなぁ」 〜「ベルばら」の時代とモーツァルト■ --->F 0144
小米朝さん曰く「モーツァルトはロココである!」。<ディヴェルティメント>や<フルートとハープのための 協奏曲><交響曲29番>など、王侯貴族のお抱え音楽家として出発したモーツァルトの優美で貴族的な音楽は、まさにロココ調の世界。「ベルサイユのばら」に登場するマリー・アントワネットとモーツァルトは同年生まれ。6歳でウィーンを訪れたモーツァルトは、御前演奏会でアントワネットと出会い、『大きくなったら結婚してあげる』と求婚している。ロココ時代、王侯貴族に好まれる音楽を肌で感じ取り、彼らの趣味に忠実で、優雅で気品に満ちた作品を次々と作曲したモーツァルト。神童として持てはやされ、音楽家として活躍したモーツァルトの魅力を、「ロココ」をテーマに紹介。  【ゲスト】池田理代子 (劇画家・声楽家)

第2回 「下世話なもんやなぁ」 〜オペラは「落語」である■--->F 0975 ごく軽い
音楽家にとって最高のステイタスである「オペラ」。ステージパパの父親に嫌気がさし、オペラ作曲を夢に故郷ザルツブルクを捨て音楽の都ウィーンに単身乗り込んだモーツァルト。雇い主もいなければ金もない大都会ウィーンでの一人暮らし。女の家に転がり込んで居候となる始末。こうした庶民生活の中から、モーツァルトはあらゆる階層の人々のリアルな感情を音楽で活写し、<フィガロの結婚>や<コシ・ファン・トゥッテ>を生み出した。グレたからこそ切り開かれた「落ち」も「笑い」もある新世界は、貴族から庶民まで、ヨーロッパ中を興奮の渦に巻き込んだ。小米朝さんの十八番、オーケストラとのコラボレーション「落語ペラ」を取り入れながら、落語にも通じるモーツァルトオペラの「落語的世界」に迫る。  【ゲスト】井上道義 (指揮者)

第3回 「飽きないもんやなぁ」 〜モーツァルトが求めた音■--->F 0081 ごく軽い
35年間で600曲以上の作品を残したモーツァルト。オペラ22曲、交響曲41曲、ピアノ協奏曲27曲・・・まるで音楽のホームラン王である。数が多いだけではない、オペラを1曲も書かなかったバッハ、やっとの思いで書き上げたオペラ1曲が残っているベートーヴェンと比べると、あらゆるジャンルにおいて名曲を輩出してきたモーツァルトの守備範囲は広く、どれだけ聴こうとも聴き飽きることはない。時代を超え、国を超え、どんな民族の人々にも心にも等しく受け入れられてきたモーツァルトの音楽そのものの凄さに迫る。  【ゲスト】小曽根真 (ジャズピアニスト)

第4回 「ホンマに死によったんかなぁ」 〜時空を超えるモーツァルト■--->F 0163 ごく軽い
「死」をまったく恐れなかったというモーツァルト。死の床にあった父への手紙に『死は生の最終目的。安らぎを与えてくれる真実の最良の友です』と綴っている。常に「死」を意識していたモーツァルトの音楽は、小米朝さんに兄弟子=桂枝雀を思い出させる。「死」を隣に置きながら、スピード感あふれる「笑い」を追及した天才落語家・枝雀とモーツァルト。「死を取り込めたからこそ、時代を超越する普遍性をもった」。<ピアノ協奏曲第27番>や<交響曲40番>など「死」にいろどられた晩年の作品から、モーツァルト音楽の永遠性に迫る。  【ゲスト】井上道義 (指揮者)
(text from NHK site)

NHK教育 25min 2006-07-04〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





●知るを楽しむ 歴史に好奇心 「拝見・武士の家計簿」 磯田道史/柳家花緑

第1回 「武士にもいろいろありまして」--->F 0069 ノイズなし
南町奉行大岡越前は1万石の大名、赤穂藩家老大石内蔵助は1500石、鬼平こと長谷川平蔵は400石、中津藩の下級武士だった福沢諭吉13石2人扶持(ぶち)…、一口に武士と言っても、そのサラリーには大差があった。それぞれどんな役目を持ち、どんなふうに暮らしていたのか? 武士の中の多彩な階級を解説、それぞれ生活者としての輪郭を描いていく。

第2回「知行七十石、切米四十俵 〜年収千二百万でも借金だらけ」--->F 0385 ノイズなし
加賀藩の中級武士、猪山家の家禄は知行70石に切米40俵、今の感覚で約1200万円の年収である。一見裕福なはずのこの家は実は銀6260匁(約2500万円)に達する借金を抱えていた。天保13年7月、当主猪山直之はほとんどすべての家財を売り払って借金整理に乗り出す。知行高、切米など武士の給与制度の実情、猪山家の「全財産」であった88品目の家財の明細を明らかにし、収入と財産の面から武士の家計を分析する。

第3回「武士が貧乏だった理由(わけ)〜“身分費用”という浪費」--->F 0493 ごく軽い
武士の慢性的な赤字体質の主因は、ばく大な「武士であるための身分費用」であった。頻繁にある祝儀交際費、使用人の人件費、寺へのお布施…。「その金を払わなければ武士とはいえない」支出項目が山ほどあり、固定費として家計を圧迫し続けたのである。困窮に耐えつつ、武士としての「ミエ」を張る、加賀藩の中級武士、猪山家が残した家計簿から武士のせつない台所事情を見る。

第4回「“勝ち組”と“負け組”〜維新激動期を分けたもの」--->F 0349 ごく軽い
幕末の動乱は猪山家の三代目、成之に運命の激変をもたらす。京都に駐留する加賀藩兵の炊き出しを行っていた成之の手際が長州軍の司令、大村益次郎の目にとまり、ヘッドハンティングをうけたのである。維新後、海軍省に職を得た成之の年収は今の感覚で3600万円。一方、官員になれなかった親せきの年収は150万円ほどである。家計簿から新しい時代の「勝ち組」の姿を描く。
(text from NHK site)

NHK教育 25min 2006-07-06〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)










その時と重なるので(再)を録画する
●知るを楽しむ 人生の歩き方 「萩本欽一 ダメな奴なんていない」

1941年、東京下谷生まれ。コメディアン。
66年坂上二郎さんと「コント55号」を結成し、斬新な笑いでテレビを席巻。70年代から80年代にかけては「欽ドン」「欽どこ」「欽曜日」などで高視聴率を連発し、「視聴率100%男」と呼ばれる。その後もテレビ、映画、舞台などで活躍。2005年にアマチュア野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を結成し、監督に就任。「欽ちゃん」の愛称で親しまれている。著書に『欽ちゃんつんのめり』(読売新聞社)、『テレビに恋して20年』(日刊スポーツ出版社)、『欽ちゃんの人生コントだよ!!』(実業之日本社)、『人生にはチャンスが三度ある』(ビジネス社)、『ユーモアで行こう!』(KKロングセラーズ)などがある。
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コント55号で一世を風靡し国民的コメディアンとして人気者になった萩本欽一さん。去年からアマチュア野球のクラブチームの監督を務め話題になっている。欽ちゃんの現在そして下積み時代の体験から哲学、人生観を学ぶ。

第1回 「“笑い”の特訓進行中」--->F 0438 ノイズなし
現在、萩本欽一さんは茨城県稲敷市にホームグラウンドがあるアマチュア野球のクラブチーム「茨城ゴールデンゴールズ」の監督を務め、話題になっている。野球をあきらめきれず働きながらプロをめざす若者達が集まるチームで、欽ちゃんは一人一人の選手にドラマの種を見出す。データと計算で硬直化した野球場に熱いドラマを取り戻すという夢に、欽ちゃんは最後の情熱を傾けている。

第2回 「浅草は笑いの王国だ!」--->F 0593 ノイズなし
萩本欽一さんは、小学校3年生の時に父の事業が失敗し、借金取りに追われる生活になった。コメディアンになって金持ちになることを心に決めていた欽ちゃんは、18歳で浅草の劇場に入門、ところが芸のほうは一向に芽が出ない。天性の上がり症で舞台に出ると声が出ず、演出家にクビにされかけたが、先輩がかばってくれて芸人を続けられた。芸より人間、という欽ちゃんの哲学の原点を下積み時代の体験に探る。

第3回 「コント55号 笑いの秘密」--->C 0910 ノイズなし
萩本さんと坂上二郎さんの出会いは1962年。第一印象は最悪、台本を無視して次々とアドリブのギャグを連発する二郎さんに閉口した。舞台が終わるたびにへとへとに疲れ、半年でコンビを解消して劇場をやめた。しかし、何年か後、大事なテレビ番組で19回NGを連発してお払い箱。どん底になって浅草に戻ったとき、二郎さんから「麻雀やらない?」という電話が入った。この1本の電話をきっかけにコント55号は結成されることとなる。最大の友にしてライバルだった二郎さんとの不思議な縁を聞く。

第4回 「欽ちゃんファミリーの秘密」--->C 0026 ノイズなし
貧乏だった中学時代、欽ちゃんの心に今も残っているのは、借金取りにせまられて土下座している母の姿である。明るく「ウソ上手、おだて上手」だった母のもとで、欽ちゃんは貧乏していてもひねくれずに育った。母の影響をうけて育った欽ちゃんは、番組で出演者を選ぶときも、「うまい奴」は選ばない。ダメな奴に「運」はたまっている。「ダメ」なところを隠さなければ逆にそれこそ長所になる。欽ちゃんのユニークな人生論。
(text from NHK site)

ノイズなし■OK--F / ■OK--F / ■OK --C / ■OK --C
NHK教育 25min 2006-11-30〜(2006-07-12〜の総合での再放送)
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●知るを楽しむ 人生の歩き方 「岸惠子 孤独という道づれ」

1932年、横浜生まれ。
1951年、「我が家は楽し」でデビュー。57年、日仏合作映画「忘れ得ぬ慕情」のイヴ・シャンビ監督と結婚のため渡仏。夫から強い影響を受け、ジャーナリスト、キャスターとして世界を駆け巡る。現在、再び拠点を日本に戻し、映画やドラマに出演する一方、作家として活躍の幅を広げている。主な出演作に「雪国」「おとうと」「黒い十人の女」「約束」「細雪」「かあちゃん」など。著書に『巴里の空はあかね雲』(新潮文庫)、『砂の界(くに)へ』『ベラルーシの林檎』(朝日文庫)、『30年の物語』(講談社文庫)、『風が見ていた』(新潮社)、『私の人生ア・ラ・カルト』(講談社)がある。最新刊は『私のパリ 私のフランス』(講談社)。
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「君の名は」で一躍国民的なスターとなった若き女優時代から、結婚のため渡仏、その後再び、映画女優として活躍を始めるまでの女優人生を語る。

第1回 「一人から二人、そして一人へ」■--->F 0840
日本での生活をすべて捨ててとびこんだフランス人映画監督イヴ・シャンピとの結婚。しかし、41歳の時、最愛の夫との離婚にいたる。娘を連れて家を出た岸さんは孤独を道づれに自由を得た。自らの苦悩、思春期を迎え揺れる娘。それでも岸さんにとって、イヴは「私の出会った一番素晴らしい人」であり心の支えだった。しかし、夫の急死によって永遠の別れが訪れる。一人の男性との愛と別れを通して岸さんが見つめたのものとは?

第2回 「女優という仕事」■--->F 0778
>>>ニュースが10分延長されたので最後が切れている
進学を諦め、十代で映画の世界に入り、「君の名は」で日本映画興行界の記録をすべて塗り替えた岸さん。一躍スターにのぼりつめる。しかし、メロドラマの女優というレッテルが嫌で、映画「雪国」で真の女優になりたいと葛藤するがその厳しさは予想以上だった。そんな時、一人のフランス人男性との出会いが運命を変えた。本当の自分とは何かを問い続けた若き日々を語る。

第3回 「真実を見つめて」■ --->F 0447
離婚して10年、つきあいの続いていた夫の急死の報がもたらされる。「曠野に一人取り残された」と感じた岸さん。苦しみの中、女優ではなく一人の人間としてNHK衛星放送のパリ支局の番組を引き受け、パレスチナなど紛争地域に出かけてレポートする。また、ソ連に亡命した日本人女優岡田嘉子さんの足跡を辿るため、ソ連にもでかけ、事実の重さ、人生の厳粛さに打たれる。岸さんが、フィクションではなくノンフィクションに惹かれたのは、反ナチ運動で仲間の大半を失い映画を通して人間のあり方を問い続けた夫の影響と自らの戦争体験だった。

第4回 「母として、娘として」■ --->F 0864
一人娘のデルフィーヌ。太陽のように明るいガキ大将だった娘は、岸さんの離婚後内省的な少女へと急変した。娘を理解したい岸さんと、母を拒否する娘。自らの母娘関係を重ね合わせながら悩み続けた。「日本」と「フランス」、「男」と「女」、「親」と「子」。ひかれながらも相手を理解することの難しさ。人間とは?愛とは?考え続ける岸さんの人生論。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK教育 25min 2006-07-14〜(選として総合で再放送)
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●知るを楽しむ この人この世界 「だから失敗は起こる」 畑村洋太郎

1941年、東京生まれ。工学院大学教授。東京大学工学部機械工学科修士課程修了。日立製作所で2年間勤務した後、東京大学工学部助教授、同大学大学院教授を経て、現在は工学院大学教授、東京大学名誉教授。専門はナノ・マイクロ加工学、生産加工学、創造的設計論。2001年より畑村創造工学研究所を主宰し、また文部科学省の「失敗知識活用研究会」実行委員会の統括も務める。02年には特定非営利活動法人「失敗学会」の初代会長に就任。主な著書に『失敗学のすすめ』(講談社文庫)、『決定版 失敗学の法則』(文春文庫)、『「失敗学」事件簿 あの失敗から何を学ぶか』(小学館)、『直観でわかる数学』『続 直観でわかる数学』(岩波書店)など多数。
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忘れたいもの、隠したいものとして目を背けがちな「失敗」。畑村さんはその「失敗」を深く見つめ、原因を明らかにすることで次の失敗を防ぎ、新たな創造に結びつけようという「失敗学」を提唱してきた。今回のシリーズでは様々な事例をもとに、「失敗」とその原因にはどんな種類があるのか、許容できる失敗とできない失敗の違いは何か、失敗を防ぐために何が必要かを探っていく。

第1回 「失敗学へようこそ」■ --->A、 --->E (mpeg1)
2004年3月、六本木ヒルズの大型自動回転ドアに挟まれて男の子が亡くなった。畑村さんはこの事故の真の原因を究明するため、私的な研究会「ドアプロジェクト」を立ち上げて、調査にあたった。「失敗」を繰り返さないためには、警察による責任追及と同時に、「失敗」の本質を明らかにし、社会共通の知見として蓄積する作業が必要だと畑村さんはいう。「ドアプロジェクト」の実践を通じて「失敗学」とは何かを解説する。

第2回 「予測できない失敗」■ --->A
失敗学を立ち上げた畑村さんは、数百もの失敗事例を収集し、その原因を分析してきた。それによれば失敗の原因は「無知」「不注意」など10のカテゴリーに分けられる。そしてそのほとんどは予測し、防ぐことが可能なものであり、予測できないのは「未知」という1つだけだという。文明が発展する中で起こった「未知」を原因とする「予測できない失敗」の事例を紹介し、技術の進歩にどのような影響を与えたかを語る。

第3回 「予測できるはずの失敗」■
世の中で起きている失敗のほとんどは「予測できるはずの失敗」だと畑村さんはいう。それを防ぐには「あり得ることは起こる」という意識と、失敗が起きるとすればどのような原因かを考える「逆演算」の思考が必要だという。失敗を予測して大事故を防いだ、新潟県中越地震における上越新幹線の事例などを紹介しながら、失敗を予測し、防ぐ方法を考える。

第4回 「失敗は伝わらない」■
1件の重大事故の背後には、29件の軽度の事故があり、その背後にはさらに300件の、事故にはならない「ひやり」「はっと」した体験があるといわれる。つまり「ヒヤリ」「ハット」の情報がきちんと伝わり、収集されれば重大事故を防げるはずだが、現実には難しい。失敗は隠したい、忘れたいという気持ちが人の心理の根底にあるからだ。失敗情報は伝わりにくいからこそ、意識して伝える努力が必要になる。

第5回 「組織が失敗を呼ぶ」□>>2006-10-31総合での再放送■--->E 0426 ノイズなし
失敗の原因は無知、不注意、誤判断といった個人のミスとされやすいが、実はその裏に組織運営の問題が隠れていることが多いと畑村さんは言う。経済性を重視しすぎて安全性が置き去りにされたり、個人に負担をかけすぎることで失敗を引き起こしがちな組織になっていないか。特に成熟した組織には、各部署の担当分野の間に「隙間」が生まれ、そこに失敗が生じやすくなっているという。組織と失敗の関係について考える。

第6回 「偽のベテラン、真のベテラン」■--->F 0674 ごく軽い
失敗を防ぐ決め手とは何か。それは経験を積み重ね、失敗の芽を見抜く「真のベテラン」の存在だと畑村さんは言う。しかしマニュアル化が進む中、「真のベテラン」は育ちにくくなっている。組織のリーダーたるべき「真のベテラン」の条件と育て方を語る。

第7回 「トラブル発生、さあ、どうする?」■ --->E (mpeg1)
注意をしていても失敗は起きる。そのときにどう対処するか、が組織のリーダーの最重要な仕事であり、その後の成り行きに大きく影響する。「もしも失敗が起きたら・・・」という仮想演習が、リーダーには欠かせないと畑村さんは言う。トラブル発生時の思考のまとめ方を手ほどきし、失敗を糧に、新たな創造を生み出す方法を探る。

第8回 「失敗を残せ」■--->E 0995 ごく軽い
今年4月、羽田空港の近くに日本航空の安全啓発センターが開設した。21年前、御巣鷹山に墜落した旅客機の機体が展示されている。破断した圧力隔壁、バラバラになった垂直尾翼、そしてねじ曲がった座席。新人の整備士たちがここを訪れ、自分たちの仕事に臨む覚悟を固める。忘れてはいけない失敗を残すことの大切さ、その意義と方法について語る。
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に軽いノイズあり>??
NHK教育 25min 2006-08-07〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





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●知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 「ジャイアント馬場」 〜巨人伝説〜 香山リカ

1960年、北海道札幌市生まれ。精神科医。東京医科大学卒。帝塚山学院大学教授。精神科医として活動するかたわら、豊富な臨床経験をもとに現代人の心の病についてテレビ、新聞、雑誌などさまざまなメディアを通して発言しつづけている。『結婚幻想』(ちくま文庫)、『テレビの罠』(ちくま新書)、『いまどきの「常識」』(岩波新書)、『働く女の胸のウチ』(大和書房)、『貧乏クジ世代』(PHP新書)、『結婚がこわい』(講談社)など著書多数。
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4歳のときに羽田空港で「お嬢ちゃん、危ないよ」とジャイアント馬場に抱き上げられた香山リカさん。それ以来馬場さんの試合を見続けてきた。馬場さんはその高い視野からどんな日本を見つめ、人々は彼の巨体に何を見たのか。精神科医の香山リカさんが読み解く。

第1回 「巨(おお)きいものが必要だった」■--->E 0653 ごく軽い
日本中が上を向いてひた走った1960年代から1970年代、人々は何か巨きいものを必要としていたと香山さんはいう。一般の人々には手が届かない巨人たちの闘い。そこに人々は‘神聖なる劇’を見ていたのではないか。一方、馬場さん自身もプロ野球選手としての望みを絶たれ、プロレス界に入るまではその大きな体をもてあましていた。時代に選ばれた馬場さんは経済成長の中で膨らんでいく日本人の巨大な欲望をその体で受け止めながら闘いを重ねていった。香山さんが戦後復興のシンボルとしてジャイアント馬場を語る。

第2回 「私の選ぶベストマッチ」■--->E 0711 軽い
生涯5700以上の試合に出場したジャイアント馬場。香山さんは力道山亡き後、日本のプロレスをしょってたった若き世界チャンピオンの馬場に始まり、“王道”を掲げなみいる外国人レスラーを打ち破った姿、そしてメインイベントを降りたあとの“明るく楽しく激しいプロレス”までを見続けてきた。香山さんの記憶に残る名試合とともに馬場プロレスの醍醐味をたっぷりと味わう。そこにはデビューから40年近く、肉体や立場が変わり続ける中、常に観客を沸かせ続けたプロレスラーの姿がある。

第3回 「“儀式”としてのプロレス」
リングの中にはアメリカからやってきた巨大プロレスラーの姿が必ずあった。そして最後を決めるのは十六文キックなどの大技。レスラーとしてプロモーターとして、馬場さんは年間およそ150に及ぶ試合の中で‘同じ型’を大事にしてきた。香山さんはそれを平安時代に天皇の前で奉納された古来の相撲に重ねる。国家安泰と五穀豊穣を祈り行われた、儀式としての日本最初の格闘技。馬場さんのプロレスが持っていた「様式美」「法則性」を浮き彫りにしながら、馬場プロレスが持つ反復の快感を香山さんが語る。

第4回 「心も巨(おお)きな人でした」
外国人と渡り合う日本のトップレスラーのイメージそのままに、一流ホテルに外車でのりつけ、葉巻をくゆらせるジャイアント馬場。一方、風景を愛で静かに絵画を描くことが好きだった馬場。その人間としての幅の広さが、晩年にメインイベントを若手に譲りながらも生涯リングに上がり続けることが出来た秘訣だったのではないか。馬場さんの人柄とその奥行きを愛妻、元子さんとの対談をもとに振り返る。
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に軽いノイズあり>??
NHK教育 25min 2006-08-08〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





●知るを楽しむ 人生の歩き方 「きれいの哲学」 佐伯チズ

ミリオンセラー続出の美容カウンセラー佐伯チズ。不遇だった少女時代や夫との早すぎる別れ、45歳での再出発、会社の中で居場所を求めての格闘や波乱にみちた生涯をきく。

第1回 「“手”への目覚め」--->

第2回 「夫の死」--->E 0770 ノイズなし

第3回 「四十五歳の再出発」--->
夫の死後、45歳で大手化粧品会社に就職。美容部員を束ねるトレーナーになり、その成果は現れたが化粧品の販売より手入れの大切さを説く佐伯は、やがてたった一人サロンに出向させられる。サロンは評判を呼んだが、58歳のときに閉鎖。その後佐伯は、人数限定の特別美容相談会を企画、定年まで全国をまわる。「自分だけの価値観こそが成功への鍵」という佐伯の再出発から現在に至るまでをきく

第4回 「美しく老いる」--->
15年勤めた会社を定年退職。長年培った佐伯の美容の理論を、編集者がまとめ「頼るな!化粧品」として出版したところ、たちまちミリオンセラーに。佐伯が伝えたいのは「高い化粧品に頼らずとも自分の手できれいになれる」「毎日鏡を見て自分を磨くということは、やる気と自信を育てる」ということ。これまで多くの女性の肌に触れてきた佐伯に、さまざまな女性のエピソードも含め、自らの力できれいに生きる大切さをきく。
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に軽いノイズあり>
NHK教育 25min 2006-08-09〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





●知るを楽しむ 歴史に好奇心 「江戸時代・夏の一日」 柳家花緑

1971年、東京生まれ。落語家。87年、中学卒業後、祖父小さんに入門。94年、戦後最年少の22歳で真打に昇進。落語はもとより、演劇・テレビなどでも幅広く活躍。著書に『花緑の落語江戸ものがたり−師匠小さんの思い出をたどる』(小野幸恵氏と共著)、『柳家花緑と落語へ行こう』、CDに『じゅげむ』など。現在NHK教育「にほんごであそぼ」「アラビア語会話」に出演中。
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日差しを和らげ風を取り入れる住まい、夏バテしないための食べ物、飲み物、目や耳を楽しませるさまざまな涼しさの演出・・・。長く蒸し暑い夏をしのごうとする日本人の知恵は、江戸時代の後期にほぼ出揃った。昔の夏は現代人が思う以上に涼しかった。その涼しさを体感すると共に、その知恵や工夫が生まれた背景を歴史的に考える。

第1回 「お氷さまと富士参り」■ --->A
氷は夏最高の貴重品。宮中でさえ氷に似たお菓子でごまかしていた時代、将軍様は加賀藩から天然氷の献上を受けていた。その名も「お氷さま」。金沢から江戸まで超早飛脚で陸路5日、一行が江戸城に入る旧暦6月1日(氷の朔日〜こおりのつひたち)には多くの庶民が、はね落ちるしぶきの一滴でも受けようと沿道に並んだという。一年の真ん中に当たるこの氷の朔日は、今日から夏が始まるという節目の日でもあり、さまざまな夏迎えの行事があった。関東各地では「仮富士」に登っての健康祈願が庶民のレクリエーションを兼ねて盛んに行われている。番組では氷の朔日を迎えた江戸にタイムスリップ、現代の機械氷とは一味違う天然氷の薀蓄も傾けながら江戸の夏が始まる一日を描く。 【出演】中島満(氷業史研究家)

第2回 「熊さん八っつぁんの消夏法」■ --->A
江戸の下町、熊さん八っつぁんの住む棟割長屋は構造上一切風が通らない灼熱地獄、しかし意地でも「暑い」とは言いたくない。江戸っ子は暑い夏に余計に身体が熱くなるようなことばかりした。早起きして朝顔なんぞを世話した後はひたすら汗をかいて暑さをしのぐ。夏の江戸市中では毎日どこかで盛大な祭礼があった。祭りの熱気を存分に浴びて、ちょっと一服、とは言っても身体を冷やすようなものはダメ、ホカホカの甘酒は夏の飲み物だし土用はご存知ウナギの蒲焼。日暮れになってようやく「夕涼み」、隅田川の川風にあたりながらの花火見物が江戸の夏最大の娯楽であり採涼であった。番組では江戸風俗研究家の石川さんが所蔵する膨大な図版を駆使して熊さん八っつぁんの夏の一日をトレース、やせ我慢ばかりでなく、夏に身体を温める合理性にも触れながら江戸っ子の消夏法を紹介する。 【出演】石川英輔(江戸風俗研究家)

第3回 「古都の涼み方」■
元禄14年6月28日から討ち入り目前の翌年冬まで、大石内蔵助は京でふた夏をすごした。仇討ちの宿願を胸に秘めた赤穂義士の頭目は一方で大変な遊び人、援助を受けた京の商人や医師たちと盆地の夏を縦横に遊び歩いている。夏の朝は自ら建てた茶室に名水を引き客人と会談、昼間は川魚を食べさせる貸席で涼み、日暮れ時ともなれば、夏座敷にしつらえたお茶屋で三味線三昧、京都の涼を満喫しているのである。番組では元禄時代の京都の夏にタイムスリップ、大石内蔵助の足取りを追いながら古都に息づくさまざまな消夏法を紹介する。 【出演】中村利則(京都造形芸術大学教授)

第4回 「古民家・涼への進化」
一畳で500ccの水を吸う防湿性と断熱性を兼ね備えた畳は蒸し暑い日本の夏にピッタリの優れもの。しかし奈良時代の畳は天皇の寝台にのみ使われ、平安時代でも使う人の位によって厚さや縁取りに規定がある超貴重品だった。部屋全体に敷きつめるようになったのは室町時代、民家に普及し始めるのは江戸の後期である。かやぶき屋根に畳、棟の両側に庭を取って大きな開口部から風を通す夏向きの民家はようやくこのころに始まる。番組では江戸時代の民家に畳が来た日にタイムスリップ、涼を呼ぶ一つ一つの素材や工夫を検証しながら、「夏をもって旨とする」日本の民家が涼しさを目指して進化していった歴史をふりかえる。 【出演】木村建一(早稲田大学名誉教授)
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に軽いノイズあり>??
NHK教育 25min 2006-08-010〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





ガイアと重なるので(再)を録画する
●知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 「円谷英二 −特撮の神様」 唐沢俊一

1958年、札幌生まれ。作家・評論家。大学在学中からアニメ評論、演劇関係の仕事に携わり、その後、ライターとして活動。「B級物件評論家」「裏モノ研究家」として知られる。いわゆる「オタク第一世代」を代表するクリエイターの一人で、従来評価の対象となってこなかった種類の本を紹介・批評するエンターテイメント書評集団「と学会」を創設、運営委員も務める。主な著書に『トンデモ一行知識の世界』(ちくま文庫)『古本マニア雑学ノート』(幻冬社文庫)『ガメラ創世記 映画監督・湯浅憲明』(エンターブレイン)『唐沢先生の雑学授業』(二見文庫)等多数。
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怪獣王・円谷英二(1901〜1970)。「ゴジラ」と「ウルトラマン」を生み出し、「特撮」を一つのジャンルとして確立させた天才だった。円谷の手腕は、海外でも高い評価を受け、ファンも多い。誰も見たことのない世界を観衆に目撃させた特撮の神様・円谷英二の凄さを怪獣オタクの第一世代・唐沢俊一さんが語り尽くす。

第1回 「ゴジラは日本人である」
「ゴジラ」誕生の背景には、「キングコング」など欧米の怪獣ものの映画がある。しかし予算も技術もない当時の日本映画では、同じ手法をとることは不可能だった。円谷英二は低予算でも可能な手法を選択する一方、その見せ方を徹底的に研究することで、日本を代表する怪獣「ゴジラ」を生み出した。早回しのフィルムスピードが産む重量感。リアルなミニチュア。戦闘機の攻撃をものともしない超越した生命力。生物の枠組みを超えた「荒ぶる神」としてのゴジラを産んだ円谷英二の手法に迫る。

第2回 「先生は“キング・コング”」■ --->E (mpeg1)
日本映画の黎明期、円谷英二はトリック撮影の虜になり、様々な手法を開発した。若き日に最も衝撃を受けた映画は「キングコング」。特撮が主役となったこの映画に興奮し、どんな手法が使われているかを分析した。いつかはこんな映画を作りたい・・・しかし時代劇スター全盛の映画界、ようやく特撮が注目されたのは戦争中、軍部から要請された映画でだった。真珠湾攻撃をド迫力の特撮で描いた「ハワイマレー沖海戦」で英二の手腕は全国に知られることになる。しかし戦後は軍部に協力したという名目で公職追放。そんな中でも英二は特撮への夢を膨らませていた。

第3回 「ウルトラのおやじさん」■ --->E (mpeg1)
映画からテレビへと大衆の娯楽が変わっていった1960年代、円谷英二は「円谷特技プロダクション」を設立し、「ウルトラQ」「ウルトラマン」などのシリーズを世に出した。家にいながらにして見ることができるようになった怪獣、子ども達は円谷特撮に魅了された。「テレビは若い人の作るもの」英二は20代、30代の異才、鬼才を集め、自由な発想でウルトラシリーズを作らせた。若きクリエイターたちを導くことで、日本中が「怪獣ブーム」に沸き返った。当時のスタッフの心に今も残る「おやじさん」の素顔を、証言を交えて綴る。

第4回 「ここに特撮あり!」 〜唐沢俊一が選ぶ円谷特撮名場面〜■ --->E (mpeg1)
円谷特撮を代表する名場面はどのように生まれたのか?撮影現場での円谷監督の意外な素顔とは?英二の遺伝子を継ぐ特撮監督・中野昭慶さんと「ウルトラQ」「ウルトラマン」に出演した桜井浩子さんを交えた鼎談で、円谷英二の実像に迫る。
(text from NHK site)

ノイズなし
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●知るを楽しむ 歴史に好奇心 「江戸の教育に学ぶ」 小泉吉永/柳家花緑・林家きく姫

1959年、東京生まれ。往来物研究家・法政大学講師。早稲田大学政治経済学部卒業。小・中・高校の教員を経て出版社勤務。1987年より往来物の蒐集と研究を始め、学術出版の大空社勤務時代に近世史科専門の編集者として数多くの出版企画(復刻・CD-ROM版)に携わる。この間、往来物を主とする論考、著作を発表。近年は女筆手本類の研究を進め、1999年、論文「近世の女筆手本―女文をめぐる諸問題―」で金沢大学社会環境科学研究科より学術博士を授与された。
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江戸時代の日本人は、現代とは違う教育システムをもって世界最高といわれる教育水準を達成していた。江戸末期1万5千軒以上あったという寺子屋では一斉教授ではなく、ひとりひとりの子供にあわせてカリキュラムが組まれ、教科書は「往来物」という職業別に編集されたお手本が7000種以上も使われた。子育ての秘訣を江戸時代に探す。

第1回 「子どもはご近所の宝物」■--->E 0778 ごく軽い
江戸時代の子どもは両親だけでなく、名付け親、帯親、乳親など何人もの仮親に囲まれて育った。その中でも一番大事な仮親が「手習いの親」すなわち寺子屋の師匠である。寺子屋の授業は明治以降の一斉教授とは異なり、家庭の職業や子どもの学習進度により、ひとりひとり教える内容を違える個別指導であったので師弟の結びつきが強かった。時には悪い子に「破門」を言い渡すこともあったが、そういう時はご近所から「あやまり役」の大人が現れてマアマアと取りなしたという。寺子屋を舞台に江戸の子どもを育んだ「ご近所の教育力」を見る。

第2回 「往来物という教科書」■ ---> D 0653
江戸の教科書として使われていた「往来物」は職業別に細かく分かれていた。商家の子には「商売往来」、農家の子には「百姓往来」、船大工には「船由来記」、子ども達は各々将来の仕事を見据えつつ職業用語や心構えを学んだ。ところが不思議にも、この往来物には実際に役立つ仕事上のマニュアルは殆ど出てこない。本当の職業技能は実地によってしか身につかないと誰もが思っており、子どもにはあえて書き物でのマニュアルを与えなかったのである。往来物を入り口に「子どもにはみなまで教えず自分で工夫させる、考えさせる」という江戸の教育の大方針を描く。

第3回 「女のたしなみ教えます」■ ---> D 0050
江戸時代、女性の教養は武家奉公をした娘達と遊郭の太夫たちから生まれた。武家に仕えた女性たちは言葉遣い、身ごなし、挨拶などを身につけ、奉公後は寺子屋師匠となって、地域の娘たちに基本的な読み書き・礼儀作法を教えた。また、遊郭は、究極の女子教育の場であるとされ、太夫ともなれば和歌、音曲、流麗なかな文字の手紙など、女が持つべき教養を全て求められた。彼女たちの虎の巻「遊女大学」という往来物には、年配の客への接し方(老客にこそ濃厚に)、得意客の断り方(口紅でしたためた手紙を書く)など人間関係の手練手管が詳細に書かれている。番組では『江戸時代にまともな女子教育などなかった』と主張する石部金吉氏が登場。その誤解を実例をもとに解いていく。

第4回 「本当は面白い数学の話」■ ---> D 0111
戦国時代まで一種の魔法に近いものとして軍師や陰陽師の秘密めいた知識だった数学は江戸時代以降、算盤の普及と共に民衆に行き渡っていく。村の数学好きが幾何の難問を神社の絵馬に奉納して解く者を待ったり、諸国を行脚して「数学道場破り」をしたりする「遊歴算家」と呼ばれる人たちが現れたり、案外人間くさく江戸の数学の水準は上がっていった。あの伊能忠敬に日本中を測量して回らせたのは、同経度上の2点の距離から地球の大きさを割り出したいという数学者としての情熱だったという。問題を解くこと、知識を得ることそのものを楽しみとした江戸の大人たちを描く。
(text from NHK site)

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●知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 「三波春夫 −わが愛しの日本人」 森村誠一

1933年、埼玉県熊谷市生まれ。作家。大学卒業後9年間のホテル勤務を経て、作家活動を開始。1969年、『高層の死角』で江戸川乱歩賞、1972年、『腐蝕の構造』で日本推理作家協会賞を受賞。1976年、『人間の証明』、翌年『青春の証明』『野生の証明』(すべてハルキ文庫)の「証明」三部作により、現代日本を代表する推理小説作家としてその地位を確立。2004年には、日本ミステリー文学大賞受賞。その後も推理小説の分野にとどまらず歴史・時代小説、ノンフィクションなど作品の幅を広げながら現在も精力的に執筆活動を展開中。
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作家・森村誠一さんは、三波春夫は戦後の歴史と重なりながら国民の心を歌った、文字通りの国民歌手だったという。二人は雑誌の対談で意気投合し、晩年は頻繁に電話、FAXをやりとりする仲だった。森村さんが“笑顔”をキーワードに三波春夫とその時代を読み解く。

第1回 「この明るさはなんだ」■--->E 0716 軽いノイズ
三波春夫はデビュー翌年の1958年から全部で31回、紅白歌合戦に出場した。テレビ史上最高視聴率81%を記録した紅白のトリを務めたあの“笑顔”。たとえば「チャンチキおけさ」。歌詞だけを読めば故郷を離れた孤独の歌である。それをあの笑顔と明るい声で歌った。森村さんは故郷を離れ大阪のホテルでひとり働いていた頃、屋台でこの歌を聞き、気づくと頬を涙が伝っていたという。三波は幼少期に母を亡くし、13歳で家業が傾いたのちの奉公、そして戦争と4年間に及ぶシベリア抑留を経験した。デビューまでの経歴は決して明るくはない。その明るさはどこからくるのか。森村さんがお気に入りの曲を紹介しながら、三波春夫の明るさを考察する。

第2回 「どこまでも伸びる歌声」■ ---> D 0997
高度成長期の日本は三波の明るさを選んだ。「東京五輪音頭」は各レコード会社の主力歌手が歌う競作だった。橋幸夫、坂本九などの下馬評を抑え、三波の歌が一番売れた。三波春夫は「東京五輪音頭」で国民歌手の地位を不動のものとした。日本の代表として、世界にアピールした三波春夫。その後、晩年にはハウスミュージックにも挑み、ライブハウスで若者の喝采を浴びた。国境も時代も軽々と超える三波の歌声はどうやって生まれたのか。森村さんがその歌声の秘密を読み解く。

第3回 「この国が好きでした」■ ---> D 0897
長年のファンだった森村誠一さんが実際に三波春夫さんに会ったのは1994年6月。お互い「平家物語」を題材に、小説と曲をつくっていたのが縁だった。舞台と変わらぬ笑顔と誠実な人柄、日本の歴史への深い造詣に森村さんはあっというまに引き込まれた。その後、二人は電話、FAXを通して交流を続けた。その内容は日本の神話に始まり、第二次世界大戦、天皇、話芸のルーツまで多岐に渡った。森村さんは晩年三波さんが制作した数々の“歴史物”は自分たち日本人への遺言のように感じている。ヒーロー、悪役に限らずすべての人を同じように血の通った人として歌うまなざし。三波さんとの個人的な交流を含め、森村さんがそのメッセージの大切さを語る。

第4回 「神様とその妻」 〜長女がみた三波夫妻〜■ ---> D 0173
三波春夫のかげにはいつも妻ゆきさんがいた。浪曲の曲師をしていたゆきさんは、“三波春夫”にすべてを捧げたという。日本で初めての和服での歌唱スタイルを夫に勧め、ステージでの音響チェックに演出、レコーディングまで仕切った。二人は一体で三波春夫だったと森村さんはいう。1994年、三波春夫はガンを告知される。その事実は亡くなるまでの7年、家族だけで伏せられた。最期の舞台は生まれ故郷の新潟県越路町。亡くなる半年前だった。「逝く空に桜の花があれば佳し」。夫婦の関係と晩年の素顔を長女の美夕紀さんとの対談から浮き彫りにする。
(text from NHK site)

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NHK教育 25min 2006-10-03〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





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●知るを楽しむ 人生の歩き方 「見城慶和 夜間中学校は僕らのふるさと」

1937年、群馬県生まれ。元夜間中学校教師。東京学芸大学卒。1961年から東京都荒川区立第九中学校夜間学級に27年間勤務。1988年から東京都江戸川区立小松川第二中学校夜間学級に10年間勤務。1998年定年退職後、東京都墨田区立文花中学校夜間学級に嘱託として5年間勤務。現在は民間の学びの場「えんぴつの会」を運営している。長年にわたる夜間中学校一筋の実績が評価され、99年に第33回吉川英治文化賞受賞。著書に『夜間中学校の青春』(大月書店)などがある。
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40年あまりの教師生活を夜間中学ひと筋にかけてきた見城慶和さん。見城さんが出会った生徒たちとの数多のエピソードを通じて、学ぶことと生きることを深く見つめる。

第1回 「夜間中学校との出会い」■ --->D 0276
大学生のとき見城さんは夜間中学を紹介した本と出会い衝撃を受けた。義務教育を充実させて、夜間中学は無くすべきではないか、勢い込んで見学に出かけた見城さんは、生活に困窮し、昼間働かざるをえない子供達を目の当たりにし、言葉を失う。そして夜間中学の教師となる事を決意する。しかし貧しさによる一家離散など、困難を生きる生徒たちは、なかなか心を開いてはくれなかった。子供達と心を通わせようと奮闘した若き日々を語る。

第2回 「生きる力を支える言葉」■ --->D 0037
厳しい境遇におかれた生徒たちに本当に役に立つ学習を。見城さんは生徒の職場や家庭を調査し、生活のために最低限必要な漢字・381字を選び抜いた。また生徒達の使っている言葉を分析し「生きる力を支える言葉」を国語にとりいれた。実用的な学習から始まって、学ぶことの喜びに目覚めた生徒たちは、次第に自らの境遇を深く見つめていく。自信がもてない生徒達が、自分を取り戻していく姿、そこから学んだことを語る。

第3回 「不登校の君へ」■ ---> D 0020, D 0584
1990年代以降、夜間中学に増えてきたのが不登校で中学に行けなかった子どもたち。昼間の学校で傷つき、学校不信、教師不信に陥っている不登校児の多くが、夜間中学に通ううちに実に生き生きと輝き出す。最初は全く口がきけず、給食も食べられない、しかし周囲の働きかけに反応するようになり、言葉を発し、そこからぐんぐんと成長をする。一人一人にあった学びがどれほど人を成長させるか、不登校児とのエピソードから語る。

第4回 「“鈍行列車”で行こう」■ --->D 0113, D 0634
高齢者が多い夜間中学で実感することは、人はいくつになっても生き直せるということだ、と見城さんはいう。長年読み書きができないという苦痛を抱え続け、一念発起して夜間中学に来た高齢者たちの学ぶ喜びは並大抵ではない。彼らは卒業しても力強く生きている。心から学びたいと願う「本物の生徒」がいる、こんな素敵な学校はそうざらにはない。そんな場所で教え続けてきた自分を「日本一幸せな教師」と見城さんはいう。
(text from NHK site)

第3回-ごく/第4回-軽
NHK教育 25min 2006-11-08〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->D
ノイズなし 第1回/第2回
NHK教育 25min 2006-12-20〜(2006-11-08〜の総合での“選”再放送) --->D
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●知るを楽しむ 歴史に好奇心 「西洋料理と日本人」 勝見洋一

1949年、東京都生まれ。作家・エッセイスト。成城大学文芸学部卒業。東京・新橋に代々続く古美術商の長男として生まれ、少年時代に美術品の審美眼を養う。大学卒業後、中国に渡り、北京中央文物研究所にて美術品の鑑定に従事。その後パリに居を移し、本場フレンチの虜となる。現在は、作家、エッセイストとして活躍するほか、美術評論、オーディオ・ビジュアルの評論など幅広く活動している。パリのきき酒コンクールでの優勝経験を持ち、また、NHK『男の食彩』のキャスターを務めるなどした食通。『中国料理の迷宮』(サントリー学芸賞受賞)、『勝見洋一の美食講座』『恐ろしい味』など著書多数。
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イタリアン、フレンチ、スパニッシュ…日本の食卓にのぼるさまざまな国の西洋料理。 明治維新後、日本は世界でも類を見ないほどの急速な食の西洋化革命を成し遂げた。 日本人がどのように西洋料理を受け止め、自分たちの食文化の中に取り込んでいったのか? 毎回当時の再現料理を紹介しながら日本食の一大革命史を紐解く。

第1回 「西洋料理事始」■ --->D 0778 ノイズ
明治維新以来、食の西洋化を成し遂げた日本。開国するまでほとんどの日本人は西洋料理を口にする機会はなかった。 しかし、安土桃山時代に日本にやって来た宣教師によってキリシタンたちに振舞われた西洋料理があった。 番組では維新以前の日本における西洋料理の姿を、出島のオランダ人が食べていた西洋料理やペリーが日本を開国するときに使った西洋料理などのエピソードと共に紹介し、日本における西洋料理史を紐解く。

第2回 「肉食との出会い」■ --->D 0263 ノイズなし
飛鳥時代の天武天皇による殺生禁断令以来、「肉を食べるとバチがあたる」として、日本人は牛肉や乳製品をなかなか食べようとしなかった。 しかし明治維新後、西洋化を推し進め日本人の体格を向上するために、牛乳や肉食を広く庶民に浸透させることが国家の重要なプロジェクトとなった。 政府は明治天皇や福沢諭吉による肉食奨励キャンペーンを展開したが、庶民はなかなか食べつけない…そこで生まれた料理が「牛鍋」だった。 明治における肉食推奨プロジェクトの秘密に迫る。

第3回 「外交とフレンチ」■ --->D 0983 ノイズなし
明治時代、欧米の列強に日本を文明国として認めさせ、不平等条約を改正させることが日本外交の悲願だった。そのために日本が選択したのが、フランス料理を使った「食卓外交」だった。開国からわずか数年で西洋人も驚くほどのフランス料理の技術を身につけ、日本を文明国として認めさせようとした。 明治8年に作られたフランス料理を再現するとともに、実際の外交における食の重要性を、元外交官・苅田吉夫氏の話を交えながら検証する。

第4回 「“洋食”誕生」■ --->D 0972 ノイズなし
明治になって続々と西洋料理店ができたが、庶民にとっては高嶺の花だった。庶民はさまざまな工夫によって西洋料理を安く手軽で「コメ」に合う『洋食』へと作り変えたが、実は洋食誕生には、港町に出入りする船が大きな影響を与えていた。カレーやハヤシライスなど、現在人気の洋食の元となった西洋料理を再現することで、日本人がどのようにして、西洋料理を自分たちの食文化に合う「洋食」へと作り変えたのか、創意の歴史をたどる。
(text from NHK site)

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NHK教育 25min 2006-11-09〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





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●知るを楽しむ この人この世界 「長寿の謎を解く」 家森幸男

1937年、京都府生まれ。京都大学名誉教授・医学博士。京都大学大学院医学研究科病理系専攻博士課程修了。京都大学医学部助教授、島根医科大学教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を経て、現在は京都大学名誉教授。また、武庫川女子大学教授、国際健康開発研究所長、(財)兵庫県健康財団会長、WHO循環器疾患専門委員、循環器疾患予防国際共同研究センター長などを併任。脳卒中ラットの開発者として知られ、98年には予防栄養学への貢献により紫綬褒章を受章。主な著書に、『ついに突きとめた究極の長寿食』(洋泉社新書)、『大豆は世界を救う』『長寿の秘密』『カスピ海ヨーグルトの真実』(法研)、『「長寿食」世界探検記』(講談社)、共著に『栄養学のABC』(朝日新聞社)など多数。
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脳卒中の原因の究明で世界的に知られている医学博士、家森幸男さん。WHOの協力を得て20 年にわたり世界25カ国61地域を調査、人生をかけて挑んだ「長寿の謎」について語る。

第1回 「冒険病理学者になる」■ --->D 0068 軽ノイズ
研修医時代に多くの死をみとったこと。その無念さは、病気は治療より予防が大切という思いに。そして遺伝的に100%脳卒中になる「脳卒中ラット」を自ら開発、そのラットの食生活改善で発症を防ぎ、寿命をのばせる事を証明した。ならば人の場合、長寿の因子とは何か?家森さんは世界の長寿地域に赴き、その因子を科学的に解明しようと思い立った。

第2回 「グルジア〜百歳が住む村」■ --->D 0949 ノイズなし
世界有数の長寿地域での調査。家森さんは、振舞われたブドウを地元人がするように皮ごと食べた。結果は下痢。なぜ彼らは平気なのか。どんぶりで飲むヨーグルトの免疫力に注目。彼らはそれを抗生物質的に利用していた。その他にも高血圧なのに長寿なのは何故か?食生活から解明する。

第3回 「タンザニア〜マサイ戦士は塩をとらない」>>録画失敗
マサイ族の寿命はどのくらいなのか。槍で身構えるマサイ族が相手の検診。それまで調査した37カ国のデータと比較して特徴的だったのは、血圧が最も低い数値だったこと。尿検査では食塩の摂取量も最低値。実は、彼らが摂る塩分は、1日に2〜3リットル飲む牛乳に含まれる塩分、わずかに2.5gだっ た。

第4回 「新疆ウイグル〜長寿と短命の境界」■ --->D 0247 ノイズなし
中国の新彊ウイグル自治区は、同じ地域の中でも、平均寿命に大きな差がある。カザフ族は短命でウイ グル族は長寿なのである。その差はどこにあるのか。早速家森さんは、食事、血圧、血液、尿検査を開始した。その結果、カザフ族は遊牧民で野菜は食べず、お茶にも塩を入れており、高血圧。一方ウイグル族は、米が主食で畑を作って野菜を栽培している。データが明らかに示す長寿と短命の境界線をかたる。

第5回 「チベット〜高血圧地域の謎」■ --->D 0808 ノイズ
チベットは突然死が多く短命の地域。その原因を調べるために鳥葬を見学した家森先生は、突然のアクシデントに見舞われ原因はわからずじまい。これまでの調査や研究の成果では、高血圧症が平均の2倍。野菜は少なく、肉は宗教上の理由で焼くだけ(しかも塩漬け)で一日の塩分摂取は17gと高い。家森さんは、住民に魚からとったアミノ酸を2ヶ月摂取してもらい、高血圧症が減るかどうか実験した。

第6回 「中国・貴陽〜豆腐の源流の地で」■ --->D 0410 ノイズなし
中国の長寿地域 貴陽は、80年代の調査で、高血圧や脳卒中、心臓死が少ないことが知られていた。その要因は何か?家森さんが行った検診の結果、尿検査で血圧とコレステロールを下げる効果をもつイソフラボンが多く検出された。貴陽は、豆腐や納豆など大豆食の源でありその食にこそ長寿の秘密があった。

第7回 「エクアドル〜長寿村に押し寄せた文明」■ --->D 0268 ノイズなし
長寿村ビルカバンバへは1986年に初訪問。高血圧や動脈硬化のリスクに関し、低いデータを得た。主因は、主食トウモロコシとユッカという芋。いずれもカリウムを多量に含む。カリウムは、高血圧の原因となるナトリウムを排泄する。しかし2001年の再訪時、長寿を求める欧米人の別荘乱立とともに、彼らの肥満化がはじまっていた。

第8回 「ハワイとブラジルの日系人〜長寿は遺伝か環境か」
長寿の因子は、遺伝的なものか、環境によるものか。ハワイとブラジルの日系人を比較。ハワイ・オアフ島は沖縄からの移民が多い。実は彼らの平均寿命は日本人を上回る。家森さんの調査では、食塩摂取量は日本人よりも低く、野菜や大豆を中心とした沖縄料理を守っていた。これに対し、ブラジル・カンポグランデに移住した沖縄出身者は、現地の食生活に合わせ、野菜や大豆を食べることはなかった。彼らの平均寿命は、沖縄のそれを17年下回った。
(text from NHK site)

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●知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 「種田山頭火 遙か見る無頼人生」 仲畑貴志

1947年、京都市生まれ。クリエイティブディレクター・コピーライター。仲畑広告制作所・仲畑広告映像所主宰。数々の広告キャンペーンを手がけ、「目の付けどころが、シャープでしょ。」(シャープ)「おしりだって、洗ってほしい。」(TOTO)「ココロも満タンに」(コスモ石油)「おじいさんの大車輪篇」(クレディセゾン)などが有名。カンヌ広告映画祭金賞・ニューヨークADC賞・朝日広告賞・毎日広告デザイン賞など国内外のあらゆる広告賞を受賞。主な著書に、『コピーのぜんぶ』(宣伝会議)『この骨董が、アナタです』(講談社)など。毎日新聞「仲畑流万能川柳」の選者でもある。
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大地主の家に生まれ、母を自殺で亡くし、家を破産させ、離婚し、酒乱の道を突き進んだ種田山頭火。コピーライターの仲畑貴志さんは若い頃、その生き方と句にはまった。無用の人と思いながら、決してひきこもることなく、句を詠んだ山頭火。現代のことばの達人が山頭火の句とその生き様を読み解く。

第1回 「うしろすがたのしぐれてゆくか」■ --->D 0679 軽ノイズ
山頭火には期せずして出来上がったイメージがあると仲畑さんはいう。「うしろすがたのしぐれてゆくか」、有名なこの句と対になるような行乞姿の山頭火の後姿を撮った写真がある。この二つがまるでポスターとキャッチコピーのように山頭火のイメージをつくりあげた。そして山頭火の句は現代でもキャッチコピーとして充分通用するという。機能がほとんど変わらない現代の商品を売るには、その企業を好きになってもらわなければならない。自らの生き方を句につぶやいた山頭火の句がコピーとして通用する由縁だという。後姿の写真を撮った弟子近木圭之介さんのインタビューを交え、仲畑さんが山頭火の句を分析する。

第2回 「鴉啼いてわたしも一人」■ --->D 0794 ノイズあり
社会とうまく折り合えず、たったひとり漂白の旅を続けた山頭火。しかし、山頭火は本当に“ひとり”ではなかった、と仲畑さんはいう。「烏がだまってとんで行った」。句誌『層雲』の同門、尾崎放哉の句である。山頭火は放哉の句に、こう応じた。「鴉啼いてわたしも一人」。ともに酒で身を崩し、家族を失い、孤独に過ごした。ともに師事した萩原井泉水は二人の違いをこう評した「放哉の鴉はだまっている、内に潜んでいるのに、山頭火の鴉は鳴いている、外へ向いて呼掛ける」。さびしい自分を自意識のまま表現した放哉に対し、山頭火は自らの孤独を客観的に場面化してみせた。仲畑さんが尾崎放哉と比べながら、ひきこもることなく主張する山頭火の孤独を論じる。

第3回 「酔うてこほろぎと寝てゐたよ」■ --->D 0060 ノイズなし
「ゆうぜんとして生きてゆけるか しょうようとして死ねるか どうぢゃ、どうぢゃ 山に聴け、水が語るだらう」山頭火は利き水の達人だった。水を詠んだ句も数多く残している。「落葉するこれから水がうまくなる」。「淀んで濁った水はなかなか澄まないのである。澄ますには流れるより外ない。・・・翁は歩くことが本来の姿ではなかったろうか」山頭火の暮らしを支えた句友の木村緑平のことばである。宿のランクまでまめに記した山頭火の日記をもとに、九州の地を回りながら、一人旅の達人でもあった山頭火を仲畑さんが体感する。

第4回 「どうしようもないわたしが歩いてゐる」■ --->D 0838 ごく軽ノイズ
山頭火は旅先の酒食や庵の世話、果ては飲み屋、女郎屋の金まで句友に無心した。また、離婚後も妻のもとに何度も足を運ぶダメ人間だった。「絶対友達にはしたくないが、どこか憎めなく、気になる人」だと仲畑さんはいう。「けさは猫の食べのこしを食べた、いくらかでも稿料が貰へたらワン公にもニャン子にも奢ってやらう、むろん私も飲むよ!」こう日記に書いた5日後、句会の最中に休んでいた隣室で念願の「コロリ往生」を遂げる。山頭火の至った境地を松山の庵に訪ねる。
(text from NHK site)

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●知るを楽しむ 人生の歩き方 「田辺聖子 まいにち ばらいろ」

1928年、大阪生まれ。作家。樟蔭女子専門学校国文科卒。64年『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニィ)』で第50回芥川賞受賞。87年『花衣ぬぐやまつわる―わが愛の杉田久女』で女流文学賞、93年『ひねくれ一茶』で吉川英治文学賞を受賞。2000年に文化功労者として顕彰される。著書に『姥ざかり』(新潮文庫)、『ゆめはるか吉屋信子―秋灯机の上の幾山河』(朝日文庫)、『田辺写真館が見た“昭和”』(文藝春秋)など多数。『田辺聖子全集』全24巻、別巻1(集英社)を刊行した。
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いつも前向きがモットーの、作家 田辺聖子さん(78)。その人生は逆境の連続だった。
あらゆる困難を、プラスの方向に変えていく力、人生を面白がる知恵を聞く。

第1回 「楽天少女の青春」■ --->D 0451 軽ノイズ
昭和初期、モダン文化の花咲く大阪に生まれた田辺さん。実家は時代の最先端をゆくハイカラな写真館。沢山の従業員を抱え、事業は隆盛だった。優しい父に見守られ、笑いのあふれる家庭で、何不自由ない少女時代を送る。しかし、そんな幸せな少女時代は太平洋戦争で一変する。写真館が空襲で全焼し、一家は家財道具一切を失った。さらに大好きな父が不治の病に。どん底の状況を、田辺さんはどう生き抜いてきたのか。

第2回 「半端と半端が寄れば」■ --->D 0358 ノイズなし
昭和39年、田辺さんは、小説『傷心旅行(センチメンタル・ジャーニィ)』で芥川賞を受賞、新進気鋭の女性作家として文壇にデビューした。華々しく活躍し始めた矢先、夫となる川野純夫さんと、運命的な出会いを果たす。2人はたちまち恋に落ち、田辺さんはプロポーズされるが、結婚には大きな問題があった。川野さんには亡妻との間に4人の子どもがいたのだ。仕事と家庭のどちらを取るか、その悩みに答えを出したのは、川野さんの意外な一言だった。

第3回 「わしはあんたの味方やで」■ --->D 0452 ノイズなし
田辺さんと川野さん、50代。子どもも無事に独立し、夫婦水入らずの生活が始まる。しかし、数年後、50代後半で川野さんが脳こうそくに倒れ、介護生活が始まった。田辺さんの献身的な介護で、容態は長く安定していたが、2001年8月に急変。舌がんを宣告された。川野さんは、5ヶ月間の闘病の末、ついに帰らぬ人となる。その看病の日々を、エッセイに書き続けた田辺さん。心の揺れの中で見つけた、夫婦の絆とは。

第4回 「過ぎしこと、みな佳し」■ --->D 0820 軽ノイズ
昨年10月、同居していた母・勝世さんが亡くなった。享年100歳。この母が、田辺さんを小説家への道へと誘った。二人三脚で小説家の夢を追ってきた母子は、芥川賞受賞でその夢が叶う。しかし直後に田辺さんは4人の子どもを持つ川野さんと出会い結婚することに。勝世さんは断固反対し、田辺さんは家を出る。一人暮らしの母と再び同居をはじめるのは、老いた母が倒れたのがきっかけだった。同居を遠慮する母に田辺さんが思いついた名案とは?
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に軽いノイズあり>??
NHK教育 25min 2006-12-13〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





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●知るを楽しむ この人この世界 「」 家森幸男

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第1回 「

第2回 「

第3回 「


第4回 「

(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に軽いノイズあり>??
NHK教育 25min 2006-12-11〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)




 

 

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