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●知るを楽しむ この人この世界 「長寿の謎を解く」 家森幸男

脳卒中の原因の究明で世界的に知られている医学博士、家森幸男さん。
WHOの協力を得て20 年にわたり世界25カ国61地域を調査、人生をかけて挑んだ「長寿の謎」について語る。
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1937年、京都府生まれ。京都大学名誉教授・医学博士。京都大学大学院医学研究科病理系専攻博士課程修了。京都大学医学部助教授、島根医科大学教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を経て、現在は京都大学名誉教授。また、武庫川女子大学教授、国際健康開発研究所長、(財)兵庫県健康財団会長、WHO循環器疾患専門委員、循環器疾患予防国際共同研究センター長などを併任。脳卒中ラットの開発者として知られ、98年には予防栄養学への貢献により紫綬褒章を受章。主な著書に、『ついに突きとめた究極の長寿食』(洋泉社新書)、『大豆は世界を救う』『長寿の秘密』『カスピ海ヨーグルトの真実』(法研)、『「長寿食」世界探検記』(講談社)、共著に『栄養学のABC』(朝日新聞社)など多数。


第1回 「冒険病理学者になる」■ --->D, E 0048 ノイズなし
研修医時代に多くの死をみとったこと。その無念さは、病気は治療より予防が大切という思いに。そして遺伝的に100%脳卒中になる「脳卒中ラット」を自ら開発、そのラットの食生活改善で発症を防ぎ、寿命をのばせる事を証明した。ならば人の場合、長寿の因子とは何か?家森さんは世界の長寿地域に赴き、その因子を科学的に解明しようと思い立った。

第2回 「グルジア〜百歳が住む村」■ --->D, E 0259 ノイズなし
世界有数の長寿地域での調査。家森さんは、振舞われたブドウを地元人がするように皮ごと食べた。結果は下痢。なぜ彼らは平気なのか。どんぶりで飲むヨーグルトの免疫力に注目。彼らはそれを抗生物質的に利用していた。その他にも高血圧なのに長寿なのは何故か?食生活から解明する。

第3回 「タンザニア〜マサイ戦士は塩をとらない」■ --->E 0173 ノイズなし
マサイ族の寿命はどのくらいなのか。槍で身構えるマサイ族が相手の検診。それまで調査した37カ国のデータと比較して特徴的だったのは、血圧が最も低い数値だったこと。尿検査では食塩の摂取量も最低値。実は、彼らが摂る塩分は、1日に2〜3リットル飲む牛乳に含まれる塩分、わずかに2.5gだっ た。

第4回 「新疆ウイグル〜長寿と短命の境界」■ --->D
中国の新彊ウイグル自治区は、同じ地域の中でも、平均寿命に大きな差がある。カザフ族は短命でウイ グル族は長寿なのである。その差はどこにあるのか。早速家森さんは、食事、血圧、血液、尿検査を開始した。その結果、カザフ族は遊牧民で野菜は食べず、お茶にも塩を入れており、高血圧。一方ウイグル族は、米が主食で畑を作って野菜を栽培している。データが明らかに示す長寿と短命の境界線をかたる。

第5回 「チベット〜高血圧地域の謎」■ --->D, E 0190 ノイズなし
チベットは突然死が多く短命の地域。その原因を調べるために鳥葬を見学した家森先生は、突然のアクシデントに見舞われ原因はわからずじまい。これまでの調査や研究の成果では、高血圧症が平均の2倍。野菜は少なく、肉は宗教上の理由で焼くだけ(しかも塩漬け)で一日の塩分摂取は17gと高い。家森さんは、住民に魚からとったアミノ酸を2ヶ月摂取してもらい、高血圧症が減るかどうか実験した。

第6回 「中国・貴陽〜豆腐の源流の地で」■ --->D, E 0204 ノイズなし
中国の長寿地域 貴陽は、80年代の調査で、高血圧や脳卒中、心臓死が少ないことが知られていた。その要因は何か?家森さんが行った検診の結果、尿検査で血圧とコレステロールを下げる効果をもつイソフラボンが多く検出された。貴陽は、豆腐や納豆など大豆食の源でありその食にこそ長寿の秘密があった。

第7回 「エクアドル〜長寿村に押し寄せた文明」■ --->D, E 0574 ノイズなし
長寿村ビルカバンバへは1986年に初訪問。高血圧や動脈硬化のリスクに関し、低いデータを得た。主因は、主食トウモロコシとユッカという芋。いずれもカリウムを多量に含む。カリウムは、高血圧の原因となるナトリウムを排泄する。しかし2001年の再訪時、長寿を求める欧米人の別荘乱立とともに、彼らの肥満化がはじまっていた。

第8回 「ハワイとブラジルの日系人〜長寿は遺伝か環境か」■--->E 0773 軽いノイズ
長寿の因子は、遺伝的なものか、環境によるものか。ハワイとブラジルの日系人を比較。ハワイ・オアフ島は沖縄からの移民が多い。実は彼らの平均寿命は日本人を上回る。家森さんの調査では、食塩摂取量は日本人よりも低く、野菜や大豆を中心とした沖縄料理を守っていた。これに対し、ブラジル・カンポグランデに移住した沖縄出身者は、現地の食生活に合わせ、野菜や大豆を食べることはなかった。彼らの平均寿命は、沖縄のそれを17年下回った。
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体にノイズあり>
NHK教育 25min 2006-12-11〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)
ノイズなし
NHK総合でのアンコール放送あり





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●知るを楽しむ 歴史に好奇心 「日本酒なるほど物語」 柳家花緑/小泉武夫

酒は何度か日本史の原動力になってきた。「発酵仮面」小泉武夫さんを案内人に迎え、古代、室町、江戸そして明治と
その時々の酒の製法、飲み方、肴などのうんちくを豊富にまじえながら、酒が動かした日本史を4回に分けてたどる。
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1943年、福島県生まれ。東京農業大学教授。東京農業大学農学部醸造学科卒業。農学博士。専門は醸造学、発酵学、応用微生物学。実家は代々、酒造業を営む。自称、食の冒険家。おいしい酒、肴を求めて日本はもとより世界中を訪ねる行動派。主な受賞に日本醸造協会伊藤保平賞、三島海雲学術奨励賞など。農林水産省政策研究所客員研究員、国立民族学博物館共同研究員、NHK国際放送番組審議会委員などを歴任。著書に『発酵』『日本酒ルネッサンス』『発酵食品礼賛』『漬け物大全』『食と日本人の知恵』『食あれば楽あり』『酒に謎あり』『不味い!』『納豆の快楽』『発酵は力なり』他多数。作家活動も。


第1回 「古代酒はとにかく甘い」■ --->D 0559 ノイズなし
古代の日本酒はまず稲作の神をもてなす祭りの飲みものであり、醸造は稲作儀礼の元締めである神社や朝廷が独占した。平安初期の「延喜式」には造酒司で作られた13種の酒の製法が詳しく記されている。いずれも強烈に糖度の高い酒である。古代人にとって酒はアルコールによる酔いと甘味の魅力を兼ね備えるものであった。酒宴を好み貴族政治の全盛時代を現出した藤原道長が晩年糖尿病に苦しんだエピソードも交えながら、古代の酒を小泉教授の指導の下いくつか実際に再現する。

第2回 「“日本人の酒”誕生す」■--->E 0779 ごく軽い
室町時代の終わりごろ、日本酒の品質が上がると共に日本料理も急速に発展し、「酒と肴」がそろってくる。足利将軍を大名達が接待する「御成(おなり)」の大パーティーが酒と肴のハーモニーを磨き上げた。盃を交わして主従の契りを交わす作法(酒道)も完成、「魚=いお」と言われてきたfishが「魚=さかな=酒菜」と呼ばれるようになるのもこのころからである。番組では「御成」を一部再現して「日本人の飲み方」の誕生期を描く。

第3回 「淡麗辛口 江戸を制す」■--->E 0107 軽いノイズ
維新の際、将軍のお膝元にいた江戸っ子が新政府に心服したのは、明治天皇の東京入りと共に下賜された日本酒を振舞われての事である。灘酒を中心とする淡麗辛口の「下り酒」はそれほど江戸っ子をとりこにしていた。上方から特急で届けられるその年の新酒は江戸っ子にとって初鰹に匹敵する縁起もの、文化文政期の江戸っ子は現代人をしのぐアルコール量を日本酒だけで摂取していた。大酒大会から二日酔い対策まで、絢爛たる江戸の「呑みだおれ」の世界を描く。

第4回 「大日本酒税帝国」■--->E 0165 ごく軽い
日清と日露の戦間期であった明治32年の国税収入総額は1億4500万円、うち4900万円が酒税である。明治の近代化は庶民が日本酒を飲んで支えたと言っても過言ではない。政府は酒造業を全国化するため、地方の酒蔵の技術革新を後押し、品評会ではやや甘口の酒を表彰して、灘酒の独占を揺さぶる。その一方で庶民の楽しみであったドブロク作りを厳禁、税収入に結びつかない酒を根絶しようとした。「東北六県酒類密造矯正沿革誌」などの資料にドブロク取締りにまつわる悲喜劇を交えながら「大日本酒税帝国」の姿を浮き彫りにする。
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に軽いノイズあり>
NHK教育 25min 2007-01-11〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->F





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●知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 「佐治敬三 良く稼ぎ、良く使え」 堺屋太一

1935年、大阪生まれ。作家。東京大学経済学部卒業後、通産省入省。通産省時代に万国博覧会開催を提案し、1970年の日本万博開催を提唱企画する。沖縄海洋博も担当。78年に退官した後、イベント・プロデューサーとして数々の博覧会を手がけるとともに、作家・評論家としても活躍。著書に小説「油断!」「団塊の世代」「峠の群像」「秀吉」などがある。小渕恵三政権・森喜朗政権の時代に経済企画庁長官を務めた。


第1回 「文化をつまみに酒を飲む」■--->E 0019 ごく軽い
堺屋さんは佐治の人生とウィスキーの売れ行きは重なっていると指摘する。全国に洋風の香り漂うトリスバーを展開。それは「規格大量生産」「職縁社会」「ちょっぴり洋風」という戦後社会の特徴にぴったりと重なる。佐治は洒落た雑誌「洋酒天国」をバーに置き、宣伝にも力を入れた。さらに「水割り」で日本人にあったアルコール度数の飲み方を広める。ウィスキーを食中酒にして、オールドの売り上げは世界一を達成。しかし戦後社会の変遷とともに、多様な酒の時代が到来する。ウィスキーという戦後文化を創りあげた実業家、佐治の軌跡を追う。

第2回 「身銭を切るからエエもんできる」■--->E 0341 ごく軽い
東京赤坂に音楽専用のホールを創り、大阪港に美術館を作った佐治。文化はみんなが「なんとなくいいなあ」というものではない。一人のアーティスト、作家、あるいは目利きが自分の世界を広めていく。そのことを佐治はよくわかっていたと堺屋さんは語る。本業ではビール事業に挑戦。その奔放な活動の源泉はファミリー企業にあった。かつて日本ではファミリー企業は古い形態と思われていた。しかし「規格大量生産」から「満足感」へと嗜好が変わった現代において、ファミリー企業は改めて注目されている。生粋のファミリー企業家、佐治敬三を通し、堺屋さんがその力を分析する。

第3回 「社長が世の中をオモロクする」■--->E 0780 ノイズ
佐治は、上品な大阪文化を体現する最後の人物だったと堺屋さんはいう。 “楽しみ”に大きな価値を置き、嫌味なく自由に振舞う、侘びとも雅とも異なる“こうと”な大阪人だった。その姿を堺屋さんは警察の大反対を説得して、ともに実行した御堂筋パレードに見た。繊維産業で一世を風靡した上品な大阪文化は姿を消しつつあると堺屋さんは危惧する。本物の文化を創らなければ産業、富の盛衰に左右されてしまう。ではどうしたらいいのか。佐治さんの楽しむ精神を解き明かし、その秘訣を探る。

第4回 「安藤忠雄と語る 現代“ダンナ”の条件」■--->E 0343 軽いノイズ
安藤忠雄さんはかつて、佐治に大阪天保山の美術館の設計を依頼され、叱咤されながら完成にこぎ着けた思い出を持つ。その特色は上から押し付ける官僚型の文化ではなく、目利きの作る市民文化だったという。佐治は展示室のみならず、周辺環境にこだわり、出費や努力を惜しまなかった。これからの企業を引っ張っていく者は、どのような意識で利益を得て、それを社会に還元すべきなのか。堺屋さんと安藤さんが、佐治の遺産である美術館で対談し、佐治を基点にした「現代旦那待望論」を展開する。
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に軽いノイズあり>
NHK教育 25min 2007-02-06〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





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●知るを楽しむ 人生の歩き方 「池田理代子 死ぬまで生き直せる」

1947年、大阪生まれ。劇画家・声楽家。東京教育大学(現・筑波大学)在学中に劇画を描き始め、72年から連載を始めた『ベルサイユのばら』が大ヒットとなる。80年、『オルフェウスの窓』で日本漫画家協会賞優秀賞受賞。『女帝エカテリーナ』『栄光のナポレオン エロイカ』など、歴史を題材にした作品を多く描く。95年、47歳で東京音楽大学声楽科に入学。卒業後はソプラノ歌手としてオペラやコンサートで活躍。『47歳の音大生日記』(中公文庫)、『あきらめない人生―ゆめをかなえる四〇からの生きかた・考えかた』(海竜社)など著書多数。


第1回 「ベルサイユのばら 絶頂の裏側」■--->E 0293 ノイズなし
幼い頃から絵を描き、自分で創作したおとぎ話をするのが好きだった池田理代子さん。 大学生時代、学費と生活費のために漫画を描くようになり21歳の時にデビュー。その後編集者の反対を押し切って描いた「ベ ルサイユのばら」が大ヒット。作品の中で描きたかったこととは何だったのか。その後の生き方にも貫いてきた池田さんの思いとは?

第2回 「早すぎた更年期障害」■--->E 0189 ごく軽い
40歳の頃、池田理代子さんは、身体の不調、精神状態の異変を感じ始める。うつがひど くなり、自殺願望が頭をもたげる。不調の原因がわからず悩んでいたが、ある時更年期障害ということが判明。当時まだほとんど知られていなかったホルモン療法を薦められ「やりたいことをやらずに死ぬのはイヤ」と受けることを決意。15年にわたる更年期障害との闘い、そして出会った現在の夫とのエピソードを聞く。

第3回 「47歳の音大生」■--->E 0967 ノイズなし
更年期障害により、残りの人生について深く考えることになった池田理代子さんは、これから何をしたいかを「40歳のリスト」として記した。その中で一番実現可能だった音楽大学への受験を決意。ピアノ、イタリア語などに初めて取り組み、2年間の懸命の努力の末、難関の東京音楽大学に合格。47歳で再び大学生となった。華やかな転身の裏にあったひたむきな努力とはどんなものだったのか?

第4回 「人のために生きる」■--->F 0762 ごく軽い
2003年、池田理代子さんは立て続けに事故に遭う。2年間に渡り 寝たり起きたりの生活が続いた。その間に、今までの人生を振り返り、これからは多くの 人と共に役に立つことをしてみたいと思うようになった。プロとアマチュアが一緒になっ て第九を歌うイベントを企画し、売上金を世界のめぐまれない子供たちや、拉致被害家族 に寄付している。波乱にみちた生涯の成熟期にいたった池田さんの人生論をきく。
(text from NHK site)

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NHK教育 25min 2007-02-07〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





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●知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 「武満徹 音の森への旅」 篠田正浩

日本で初めて西洋音楽の世界で名声を博した作曲家・武満徹(1930〜1996)。戦後、紙に鍵盤を書いた紙ピアノから始まった音は、重層的オーケストラ作品から黒澤明の映画音楽まで、ジャンルを超えて世界を魅了した。15本の映画を通じ武満の音現場を見てきた映画監督・篠田正浩さんが、武満の音世界を紐解く。
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1931年、岐阜県生まれ。映画監督。早稲田大学文学部卒業後、松竹撮影所に入社。1960年、「恋の片道切符」で監督デビュー。大島渚、吉田喜重らと共に、松竹ヌーベル・バーグとして前衛的作品を続けて発表する。1967年、妻で女優の岩下志麻と独立プロ「表現社」を設立、自主製作を始める。「心中天網島」「瀬戸内少年野球団」「鑓の権三」「少年時代」「写楽」「梟の城」などで国内外の受賞多数。2003年、「スパイ・ゾルゲ」を最後に監督を引退。現在、早稲田大学特命教授を務める。著書に『日本語の語法で撮りたい』(NHKブックス)他。


第1回 「映画という実験室」■■--D 0170, E 0253(ごく軽い)
独学で作曲を始めた武満が、様々な音の組み合わせを試せた場所が映画だった。『乾いた湖』で当時映画に使われることのなかったジャズを。『心中天網島』ではアジアの民族音楽の音色を用いた。黒澤明との映画『乱』では巨匠黒澤に対し一歩も譲らず衝突を繰り返した。武満は映画の中の「映像」と「音」のぶつかり合いの中で新たな音を生み出す実験を繰り返していた。それらを目の当たりにした篠田監督が、武満が映画によって獲得した表現について語る。

第2回 「日本の音の探求」■■ --->E 0225, C 0169
映画音楽は「世界のタケミツ」を生んだ。戦争体験から、伝統的な日本を拒否していた武満が、時代劇映画を通じ「日本伝統の音」を再発見したのだ。小林正樹監督の「切腹」で琵琶を、篠田監督の「暗殺」では尺八を用いた。こうした試みの中から、尺八と琵琶をオーケストラと同じステージにのせるという楽曲「ノーヴェンバー・ステップス」が生まれた。この曲を小澤征爾がニューヨークフィルで指揮し大絶賛を浴びるまでの軌跡を追う。

第3回 「“うた”への憧れ」■■ --->E 0147, C 0998(ごく軽い)
武満は生涯「うた」に憧れを持ち続け、多くの「うた」を作った。武満が音楽を志したきっかけ、軍国主義の時代に耳にしたシャンソンは彼に“音楽は自由への希求”という信念を与えた。60年代にベ平連の集会のために書いた「死んだ男の残したものは」に反戦の意志を、民放ニュース番組のテーマソング「翼」には、自由への希求を込めた。“私の音楽はうたのようにありたい”と語った武満の心と素朴な人柄に迫る。

第4回 「宇宙から聴こえてくる音」■■ --->E 0075, C 0509(ごく軽い)
武満の音楽を生涯貫いたテーマは“自然”と“宇宙”だった。「樹の曲」「海へ」「秋庭歌」「カシオペア」など武満は自らの自然観を音に反映させた。川の流れが集いたゆたう大海、時とともにうつろい見るものによって姿を変える庭…武満はそれらを自らの音楽の理想とした。篠田監督は「アニミズム・禅・密教など日本人のあらゆる自然観が入っている」と語る。武満の宇宙観、自然観、そして我々に託したメッセージについて考える。
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に軽いノイズあり>
NHK教育 25min 2007-03-06〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)
ノイズなし
NHK教育 25min 2007-05-30〜(2007-03-06〜の総合でのアンコール放送)
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●知るを楽しむ 人生の歩き方 「新藤兼人 わが仕事人生」

90歳をこえてなお現役映画監督・新藤兼人の人生哲学は如何に生まれたのか?「生きる」ことの厳しさに正面から向き合ってきた新藤兼人監督自身の語りから現代人一人一人が抱えるテーマや問題意識を重ねてゆく。
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1912年、広島生まれ。映画監督・シナリオライター。34年新興キネマ現像部に入り、美術部を経てシナリオライターに。50年に吉村公三郎、殿山泰司らと独立プロダクション「近代映画協会」設立。51年『愛妻物語』で監督デビュー。61年『裸の島』がモスクワ国際映画祭ブランプリ受賞。2002年文化勲章受賞。主な監督作品に『原爆の子』『鬼婆』『北斎漫画』『東綺譚』『午後の遺言状』『ふくろう』など。著書に『愛妻記』(岩波現代文庫)、『弔辞』『シナリオ人生』(岩波新書)、『作劇術』(岩波書店)など、著作集に『進藤兼人の足跡』(全6巻、岩波書店)がある。


第1回 「母〜創造の原点」■--->E 0484 ごく軽い
父親の借金の連帯保証人がもとで財産が没収された一家離散の頃から、その孤独と不安にさいなまれるも活動写真に夢中になり、将来は映画監督になる事を決意して京都の新興キネマに入社する迄の新しい人生に立ち向かう模索の時代を新藤が吐露。生まれ育った縁の地(広島県の山間にある五日市町)や母と姉への追憶の思いが込められる新藤の代表作『裸の島』『落葉樹』等の映像を織り込み、逆境をバネにすることの大切さとその原動力、家族とは何か、そしてその絆を描く。

第2回 「愛妻物語〜妻へのレクイエム」 >>録画失敗
映画監督を志して京都に出たものの助監督の道は閉ざされ、スタートは現像部でフィルム乾燥の雑役から。第二回目は、右も左も分からない映画の世界へ飛び込んだ新藤22歳からシナリオ作家になり34歳で2等兵として入隊した辛い軍隊時代。とにかく映画を撮りたいの一心で書いたのは、自分を支えて早逝した妻へのレクイエム「愛妻物語」だった。

第3回 「ともに闘った日々」■--->C 0732 ごく軽い
大会社にいては、自分の撮りたい映画をとることはできない。新藤は、1950年独立プロを旗揚げする。「原爆の子」は大ヒット。しかし、その後当たりがでず厳しい経営状態に陥っていく。追いつめられた新藤が撮ったのは、飛び込んできてくれた乙羽信子、殿山泰司を主人公に、黙々と畑に水を運ぶ夫婦を描いた「裸の島」だった。初心を貫徹することの厳しさ、仲間と共に闘い支えあうことの大切さを語る。

第4回 「生きているかぎり、生きぬきたい」■--->C 0649 軽いノイズ
女優・乙羽信子を抜きに新藤兼人の半生を語ることは出来ない。新藤作品への乙羽の出演は、氏を支え続けた最初の妻を描いた『愛妻物語』を皮切りに、死期迫る乙羽信子を出演させて女優人生を全うさせた『午後の遺言状』迄で殆ど出演した。生涯のパートナーを襲った不治の病、その時新藤は、どう考え、どう行動したのか?94歳の現役映画監督が、『生きること、老いること』のテーマを語る。これは、映画監督という枠を超えて、生きる勇気と知恵を与える第四章である。
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に軽いノイズあり>
NHK教育 25min 2007-03-07〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





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●知るを楽しむ 人生の歩き方 「都はるみ 人生は一度限り」

「人生は一度かぎり」と揺れる心情に正直に生きてきた歌手の都はるみさん。
デビュー・引退・復帰、58年の道のりを4回にわたって語る。
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1948年、京都市生まれ。歌手。16歳のときに<困るのことヨ>で歌手デビュー。<アンコ椿は恋の花>で第6回日本レコード大賞新人賞を受賞。その後の10年余の間に<涙の連絡船><好きになった人><北の宿から>などのヒットで一躍人気歌手に。1985〜89年まで引退・休養。復帰後は<小樽運河><BIRTHDAY><ムカシ><枯木灘 残照>など、歌謡曲や演歌というジャンルを超えたさまざまな歌を歌い続けている。


第1回 「母のこと父のこと」■ --->G 0148
都はるみは、1948年京都の小さな西陣織の工場を営む家に生まれた。母松代は、春美を頭に一男四女を産み、毎日機織り機の前に座って働いていた。歌好きだった母は春美の才能を見抜き、みじめな生活から脱出するため春美を歌手にすることを自分の唯一の夢として歌を習わせる。15歳で春美は独特の「うなり」を身につけ「コロムビア全国歌謡コンクール」で優勝、歌手への道を歩き始める。母の期待、父の反対に悩んだ少女時代を語る。

第2回 「市川昭介との出会い」■ --->D 0197
16歳で恩師・市川昭介と出会い、演歌歌手としてデビュー。「アンコ椿は恋の花」「涙の連絡船」など市川作曲で次々ヒットをとばすが、本心はフォークソングが流行る中で、着物を着て歌うのは嫌でたまらなかった。1976年小林亜星作曲の「北の宿から」で念願の日本レコード大賞受賞。歌は好きだけど仕事は嫌いで悩み続けた都はるみに歌の道を優しくきびしく教えた市川昭介。昨年亡くなった恩師市川昭介との日々を語る。

第3回 「盟友・中上健次」■ --->D 0012
歌手生活20周年を機に「引退したい。普通のおばさんになりたい」。1984年12月31日紅白歌合戦で涙の引退。その後、迷える都はるみを、再び歌の道に連れ戻してくれたのが、作家中上健次だった。兄貴と慕った中上との交流、そして、都はるみの復帰を見届けた後、病に倒れた中上、彼との別れを語る。

第4回 「別れから始まる人生」■ --->D 0652
復帰後は、「三里塚コンサート」や海外への音探しの旅、ロックやジャズのミュージシャンとのセッションなど多彩な活動をおこなってきた。一方で、昨年歌手都はるみを生み出した母・松代さんが亡くなり、さらには、父のように慕っていた市川昭介さんとの辛い別れが続いた。大切な人々との別れをとおして「人生は一度かぎり。体当たり、正直に生きるしかない」58歳のはるみさんの実感をきく。
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に軽いノイズあり>
NHK教育 25min 2007-04-11〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->D, G





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●知るを楽しむ 歴史に好奇心 「日中2千年 漢字のつきあい」 加藤徹/柳家花緑・林家きく姫

「中華人民共和国」のうち、「人民」と「共和国」は日本製の言葉である。私たちの祖先は漢字を日本語の一部とし、幕末から明治に西洋文明が入ってくると、洋語をまず漢語に翻訳して、西洋文明を効率的に取り入れた。日本人が「もう一つの漢字王国を作った」歴史を本家中国とのやり取りを交えながら4回にわたって描く。
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1963年、東京都生まれ。明治大学助教授。東京大学文学部中国語中国文学科卒業、同大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。1990〜91年、中国政府奨学金高級進修生として北京大学中文系に留学。広島大学総合科学部助教授を経て、現在、明治大学助教授(4月1日より准教授)。専攻は中国文学。『京劇』(中公新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。主な著書に『漢文力』『西太后』『漢文の素養』『貝と羊の中国人』などがある。


第1回 「初めは漢字なんか嫌いでした〜倭人 文字と出会う」
■--->G 0548/□>>総合再は事故速報画面のため消去
かつて仁徳天皇陵とされた大山古墳の被葬者はわからない。墓碑銘がないからである。「金印」に見られるように漢字は紀元前後には日本に入っていたが、言霊思想を信じていた古代の日本人(倭人)は文字を「言霊を封じ込める魔法」として敬遠した。古代インド人が仏陀の姿を像に刻むのをためらったように、聖なるものを目に見える形にして表すことに違和感を持ったのである。そうした言霊思想から自由になり漢字を縦横に使い始めたのが仏像を受け入れた蘇我氏と聖徳太子であった。太子の「十七条憲法」は内容もさることながら、それまで口頭でのやりとりだった政治を文書化したことに大きな意味を持つ。また太子はそれまで渡来人に頼っていた外交文書を自ら起草し「日出る処の天子」と自称した国書を中国の皇帝に送った。中華文明のエッセンス・漢字と遭遇した古代の日本人が長い逡巡の末、その漢字を使って自己主張を始めるまでを描く。

第2回 「日本で一番エライ人は誰 〜漢文と“国格”」□■ --->D 0254
現代の会社の肩書きでいうと中国の「皇帝」は言わば本社の社長で、「王」は地方の支店長である。歴代の中国の王朝から見ると、日本の元首の呼び名は「日本国王」でなくてはならなかった。ところが聖徳太子以来、日本の政権担当者で自らを「日本国王」と名乗って中国皇帝に臣従したのは足利義満ただ一人。「天子」「天皇」や「日輪の子」(豊臣秀吉)といった中華思想とは相容れない独自の称号が相次いだ。日本の支配者は「中国と対等」というスタンスを守るために「王」の呼称を拒み続けたのである。聖徳太子が小野妹子に持たせた国書、秀吉の朝鮮出兵の際、講和を急ぐ余りに小西行長が偽造した国書、明治の日清修好条規など「日本で一番エライ人」の呼び名が大問題になったケースを見ながら、二千年に及ぶ日中メンツ合戦を描く。

第3回 「“まんじゅうこわい”の謎 〜江戸の漢文力」■ --->D 0793/■ --->D 0676
落語の「まんじゅうこわい」は中国の笑話集「笑府」が原典である。江戸時代、それまで学者の家の秘伝だった漢文訓読の技術が広く公開され、漢籍は本家中国より日本での出版点数が多くなった。江戸の火消しのお兄さんまで「水滸伝」に熱中し、登場人物を真似た彫り物が流行した。「笑府」のように中国では失われてしまった書物、知識が日本で生き続け新たな文化につながるという現象も起こってくる。アヘン戦争に清が敗れた後、中国人が書いた警世の書「海国図誌」は中国では無視されたが日本で佐久間象山、吉田松陰以下多くの読者を得て、激動の時代の起爆剤となった。庶民レベルまで浸透した「江戸の漢文力」がわれわれに残してくれた豊かな遺産を紹介する。

第4回 「“中華人民共和国”の3分の2 〜日本漢語の形成」■ --->D 0189/■ --->D 0207
「人民」「共和国」「憲法」「権利」「義務」「金融」「投資」「経済」・・、いずれも明治の日本人がつくった漢語である。幕末から明治、西洋の文物を受け容れるに当たって日本人はまず漢語に訳した。漢字の持つ豊かな造語力を駆使したのである。福沢諭吉も西周もオランダ語や英語の前に漢文に親しみ、中江兆民はルソーの「民約論」を訳すため、わざわざ漢学塾に入りなおした。日本の素早い近代化は下級武士など社会の中間層まで幅広く浸透していた漢文の素養の賜物と言ってよい。やがて日本漢語は中国人留学生などを通じて大陸に流入し、現代中国語の一部となっていった。日本漢語が作られた経緯をたどると共に、「革命」などの漢語が中国史に与えた意外な影響も紹介する。
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に軽いノイズあり>
NHK教育 25min 2007-04-12〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)
--->G 0548, D 0793, D 0189

ノイズなし
NHK教育 25min 2007-06-22〜(2007-04-12〜の総合でのアンコール放送)
Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->D 0254, D0676, D 0207

> 2018年10月のダビング依頼で在庫調査した ---> DR-2790としてディスク化





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●知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 「マイルス・デイビス 帝王のマジック」 菊地成孔 Naruyoshi

半世紀に渡りジャズの最先端を走り続けた“帝王”マイルス・デイビス。そのサウンドは“ジャズ”という枠に収まりきらず、あらゆる音楽ジャンルに影響を及ぼし、世界中を魅了した。マイルスの人生とジャズの真髄を伝える。
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1963年、千葉県銚子市生まれ。音楽家・文筆家・音楽講師。85年にサックス奏者としてデビュー後、山下洋輔バンドなどを経て、現在はペペ・トルメント・アスカラールなど複数のバンドを主宰。ソロでは「デギュスタシオン・ア・ジャズ」「南米のエリザベス・テイラー」(イーストワークスエンタティンメント)などを発表。06年にはUAとのコラボレーション・アルバム『cure jazz』が話題に。音楽講師としては私塾「ペンギン音楽大学」 を主宰するほか、映画美学校などでも教鞭を執り、さらに05年まで東京大学教養学部の非常勤講師、07年からは東京藝術大学講師も務める。著書に『スペインの宇宙食』(小学館)、共著に『東京大学のアルバート・アイラー』(メディア総合研究所)などがある。


第1回 「お坊っちゃまとジャズの革命」--->C 0514 ノイズなし, F 0870 ノイズなし
時は第二次世界大戦。アメリカ中部の町で、黒人として稀なボンボンとして育ったマイルスは、 疾走感あふれる新しいジャズ=“ビバップ”に心酔し、ジャズマンとなる決意を固め、NYへと旅立った。マイルスが憧れたチャーリー・パーカーらは、兵役からアンダーグラウンドに逃れた黒人だった。お坊ちゃん育ちというコンプレックスを抱えていたマイルスは、鬱屈とした黒人のアングラ音楽=ビバップを洗練して『クールの誕生』をリリース。エレガントなサウンドで、終戦のアメリカンドリームに接続することに成功する。お坊ちゃんの劣等感から、“夜の大人のジャズ”が生まれた。

第2回 「“帝王という名の王子様”の誕生」--->F 0024 ノイズなし
1950年代、マイルスは揺るぎないカリスマ性を身につけ“帝王”と呼ばれるようになる。50年代のジャズは、ウェストコースト・ジャズ、ハードバップなどが登場し、百花繚乱・群雄割拠の時代を迎えた。その中でマイルスが切り開いた新たな道が“モードジャズ”だった。世界の民族音楽の音列(モード)を用い、極めて叙情的なサウンドを作り上げる。そして、圧倒的な完成度で“夜の大人の音楽”を表現し、世界でもっとも売れたジャズアルバムを発表する。リリシズム溢れる傑作『カインド・オブ・ブルー』。音楽史を変えた、帝王マイルスの快進撃に迫る。

第3回 「帝王の危機/王子の変身」--->F 0021 ノイズなし
ベトナム戦争、公民権運動、ヒッピー文化…混乱の季節1960〜70年代。帝王は“破壊神”へと変貌する。ビートルズなどのロックが台頭する中で、ジャズは急速に人気を失いつつあった。マイルスは、批評家の総スカンをものともせず当時の最新技術、エレキギターなどの電子楽器を導入。エレキの神様ジミ・ヘンドリックス、ファンク歌手ジェームス・ブラウンら、当時の若手スターたちに負けじと音楽スタイルを変貌させ、『ビッチェズ・ブリュー』『オン・ザ・コーナー』など混沌と狂気の音楽を展開する。そして1975年、マイルスは突如表舞台から姿を消す。破滅へと向かいながら生み出したマイルスの魔術とは!?

第4回 「“セレブ”としての晩年」--->F 0001 ノイズなし
1981年、『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』で6年間の沈黙を破ったマイルスは熱狂的に迎えられる。しかし、そのサウンドはまたもや人々の予想を大きく覆した。60歳になり“生ける伝説”となっても、マイルスは孫に近い年齢のメンバーと組み、大衆に向けて新しい音楽の創造を続けた。プリンスやマイケル・ジャクソンなど、ニュースターたちへの嫉妬を臆面もなくさらけ出し、最新のラップにも着手。1991年、前のめりのまま生涯を閉じる。晩年のマイルスは、日本に大きな親しみを寄せ、何度も来日した。マイルスの素顔を、日本人の共演者やマイルスのファッションを彩ったデザイナーとの対談を交えながら紐解き、ジャズの体現者=マイルスの軌跡を振り返る。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK教育 25min 2007-07-25 --->C 0514,
(2007-05-08〜の総合での再放送) --->F
Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





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●知るを楽しむ 人生の歩き方 「“挫折”が生んだノーベル賞」 小柴昌俊

ノーベル物理学賞を受賞し、世界的な名声を博した小柴さん。しかしその人生は「挫折王」と自称するほど、逆境の連続だった。逆境をバネにすることで小柴さんが、どの様に賞をつかんだのか、そこから学んだ「人生の歩き方」とは何か?骨太の人生観をじっくりとうかがう。
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1926年、愛知県生まれ。東京大学特別栄誉教授。東京大学理学部物理学科卒業、米国ロチェスター大学大学院修了。専攻は素粒子物理学と宇宙線物理学。33歳でリーダーとして米国での国際研究を指揮した後に帰国し、東大教授に。岐阜県神岡にある実験施設カミオカンデをつくり、世界で初めて超新星爆発からのニュートリノの観測に成功。ニュートリノ天文学という新分野を切り開く。現在は、平成基礎科学財団理事長などとして、若い研究者の育成や開拓にも力を入れている。


第1回 「甘ったれるわけにはいかない」--->F 0468 ノイズなし
小柴昌俊さんの最初の「挫折」は突然の「小児麻痺」。なんとか努力の甲斐があって、右手に麻痺が残る程度に回復し学業を続けることができた。21歳で東大物理学科に進学したもののアルバイトに奔走。何とか大学院に進学するが当時学生に人気の理論物理が全く分からず「挫折」。先輩が誘ってくれた宇宙の粒子を撮影するフィルム「原子核乾板」の実験で一変する。「これなら俺にもできる!」と自信を得て小柴さんは米国へと旅立つ。

第2回 「強い相手とケンカする方法」--->F 0557 ノイズなし
日本とアメリカ。小柴さんは、留学先で両国の力量の差を実感し愕然とする。大学の研究室でアメリカ軍の協力を得て、原子核乾板を巨大な風船につけてあげ、宇宙線を撮影するプロジェクトに加わる。リーダーの教授の突然の死で、後任を任されたのはなんと弱冠33歳の小柴さんだった。アメリカ軍相手に予算獲得交渉、実験結果の乾板回収のため戦闘機や駆逐艦の出動要請など、大立ち回りを演じることになる。小柴さんの強い者に憶することなく立ち向かう秘訣を聞く。

第3回 「カミオカンデ・貧者の勝利」--->F 0710 ノイズなし
1978年、小柴さんは岐阜県神岡の山中に巨大観測施設「カミオカンデ」を計画したが、その予算はアメリカとは桁違いだった。しかし小柴さんは宇宙からの光を観測する光電子増倍管の感度を上げる事に挑戦。1987年、改良を重ねた光電子増倍管がニュートリノを観測することに成功した。大きなハンディを英知で乗り越えたことが小柴さんのノーベル賞受賞につながった。逆境から成功を収めるには何が必要かをうかがう。

第4回 「“夢の卵”あります」--->F 0929 ノイズなし
2002年から国立大学の独立法人化が議論されはじめる。基礎科学の素晴らしさを子ども達に伝えておかなければ日本の科学の将来が危ない。そう感じた小柴さんは、困難の中、ノーベル賞の賞金や自らの印税をすべてつぎ込み寄付を集めて「平成基礎科学財団」を設立。奮闘をつづけている。小柴さんらしいアイディアあふれる活動を紹介しながら、どんなときでもあきらめず夢の卵をもちつづける大切さを語っていただく。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK教育 25min 2007-07-19(2007-05-09〜の総合での再放送) --->F
Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





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●知るを楽しむ 歴史に好奇心 「漢方なるほど物語」 小曽戸洋/柳家花緑・林家きく姫

江戸時代は漢方医学が花開いた時代である。幕府を開いた徳川家康は長寿こそ天下取りの秘訣と信じ、医学・薬学に強烈な関心を持っていた。番組では「漢方医は患者の何を診るのか?」「漢方薬はなぜ効くのか?」といった素朴な疑問を交えて、江戸時代から明治にかけての漢方の歩みを追う。
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1950年、山口県生まれ。北里研究所教授。東京薬科大学卒業。日本大学医学部(生化学)にて医学博士。現在、北里研究所東洋医学総合研究所医史学研究部部長、北里研究所教授。日本医史学会常任理事、日本東洋医学会理事。編著書に『和刻漢籍医書集成』『小品方・黄帝内経明堂古鈔本残巻』(共編)『日本漢方典籍辞典』『中国医学古典と日本』『漢方の歴史』などがある。


第1回 「家康が作った薬〜江戸の漢方事始」■ --->D 0198
戦国時代、食うか食われるかの世相の中で武将たちは切実に長寿と健康を求めた。長寿こそ天下取りの秘訣と信じた徳川家康は美食を避け、運動にいそしみ、漢方薬を自分で作った。その知識は専門家顔負けで、強精剤の「烏犀円」など現在まで伝わる「家康の薬」が存在するほどである。家康だけではない。「人生50年」の時代に70才を超える長寿を得た毛利元就も伊達政宗も独自の健康法を持っていた。 番組では金より高価といわれる麝香、ガマの油など珍しい生薬を紹介しながら、日本で「健康管理」が始まった時代を描く。

第2回 「名医・曲直瀬玄朔〜漢方治療はオーダーメイド」■ --->D 0310 ごく軽ノイズ
漢方医療では同じ病気でも患者が違うと薬の処方が違ってくるという。秀吉から家康の時代、名医の名をほしいままにした曲直瀬玄朔(まなせげんさく)は患者の体質や性格、生活習慣まで把握し、いわばオーダーメイドの医療を施した。その具体的な処方は玄朔が遺した“日本最初のカルテ”「医学天正記」に詳しい。戦国武将・毛利輝元や時の天皇の重病を劇的に回復させた例を紹介しながら漢方医療の基本をわかりやすく説明する 。

第3回 「葛根湯の不思議」■ --->D 0439
漢方薬はなぜ効くのか。その鍵は複数の生薬の「組み合わせ」にある。西洋医学では、薬の効き目は特定の化学物質に行き着くが、漢方では何種類もの生薬を組み合わせて、単一物質では発揮できない効き目を生じさせる。例えば風邪薬でおなじみの葛根湯。生姜、甘草など単体の成分ではあまり効果はないが、7種類の生薬が良い塩梅でブレンドされることによって効能が発生する。一方トリカブトのような猛毒でも他の成分との組み合わせ次第で毒性が減り、薬として利用されることがある。 番組では、長い経験の中で熟成された漢方薬の製法をいくつか紹介し、生薬の組み合わせの魔術を見る。

第4回 「明治が手放した知恵」■ --->D 0769
脚気を病んだ明治天皇はあえて西洋医を退け、漢方治療によって全快を得た。他にも西洋医学が治せなかった症状を漢方医が治した例は珍しくない。しかし明治の半ばになると、漢方をいくら学んでも西洋医学を修めなければ医師免許を取れなくなってしまう。決め手の一つになったのは戦争、戦場でたくさんの将兵を治療する場合、一人一人をじっくり診る漢方より一つの薬で多人数を診られる西洋医学のほうが効率的だったからだという。脚気の治療で漢方医と西洋医が対決したエピソードを交えながら、「文明開化」の中で手放された知恵を描く。
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に軽いノイズあり>??
NHK教育 25min 2007-05-10〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->D





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●知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 「開高健 悠々として急げ」 重松清

酒飲み、釣りマニア、美食家、世界漫遊…破天荒な行動力で圧倒的な存在感を示した小説家・開高健(1930-1989)。高度成長期の日本に刺激を与え続けた、昭和を代表する作家である。エピキュリアン(快楽主義者)とされる一方で、「ベトナム戦記」や闇三部作など、常に人間の闇を描き続けてきた。『作家像はその作品から語りたい』という作家・重松清さんは、開高の著作を手に、東京・大阪・ベトナムと実際に作家が見つめた現場を訪ね、開高健の世界とその時代背景を紐解いていく。
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1963年、岡山県生まれ。作家。早稲田大学教育学部卒。出版社勤務を経て、執筆活動に入る。91年『ビフォア・ラン』でデビュー。99年『ナイフ』で第14回坪田譲治文学賞、『エイジ』で第12回山本周五郎賞、2001年『ビタミンF』で第124回直木賞受賞。小説だけでなく、エッセイやルポルタージュも手がけている。『定年ゴジラ』『世紀末の隣人』『流星ワゴン』(講談社文庫)『きよしこ』(新潮文庫)『いとしのヒナゴン』『その日のまえに』『小学五年生』(文藝春秋)など著書多数。


第1回 「“鼻”の巻〜飢餓から飽食の時代へ」--->F 0703 ノイズなし
昭和5年に生まれた開高健は、早くに父をなくし青春時代を貧困と飢餓の中ですごす。大学生にして一児の父となり、結婚、サントリーの宣伝部に就職。名物コピーライターとして一世を風靡すると、サラリーマン業の傍ら、小説「パニック」を発表。その後三作目の「裸の王様」で大江健三郎を退け芥川賞を受賞し、一躍文壇に躍り出る。その一方、ルポルタージュ「ずばり東京」など、社会を取材し見つめたルポ作品を発表し、高度成長に沸き返る日本の姿を大阪人の立場で切り取った。戦後から豊かさへ急速に変わり行くニッポンの中で、時代の寵児として頭角を現した開高健の軌跡を紹介する。

第2回 「“眼”の巻〜ベトナムで見つめた生と死」--->F 0790 ノイズなし
「ずばり東京」を書き上げた二週間後、開高健は戦地ベトナムへ朝日新聞の特派員として乗り込む。アメリカ軍の従軍記者として赴いた最前線で、200人中17人しか生き残らない戦闘に遭遇し、九死に一生を得る。重松清さんは、ルポルタージュ「ベトナム戦記」を手に、開高が取材の拠点としたホーチミンや、ベトコンの拠点となったジャングルを訪ね、その後の人生を決定付けたベトナムで開高が見たものを探る。

第3回 「“耳”の巻〜闇に聞いた内なる声」--->F 0326 ノイズなし
「ベトナム戦記」を書き上げた開高健は、ベトナムでの経験を小説「輝ける闇」として発表する。この小説以降、それまでの取材に基づいて自己をなるべくあらわさない文体から一転、内面に深く沈んで心の内を描くようになる。その後、何故文体を変えたのか?「輝ける闇」の前に書かれた「渚から来るもの」、闇シリーズの「夏の闇」など、開高健の著作をもとに作者の心の変化を辿る。

第4回 「“舌”の巻〜無と快楽の果てに」--->F 0170 ノイズなし
小説が書けない中で、釣りに癒しを求めた開高健は、代表作「オーパ」をはじめとして、世界各国の秘境に巨大魚を求めるエッセイをつぎつぎ発表する。食を題材としてた小説やエッセイは開高のイメージを形作り、人生のマエストロとして世間に広く知られるようになるその一方で、小説がかけないと苦しみ続ける。重松さんは、開高が最後に求めた世界、そして彼が描き続けた昭和という時代を紐解く。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK教育 25min 2007-08-20〜(2007-06-05〜の総合での再放送) --->F
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●知るを楽しむ 人生の歩き方 「男と女の旅路」 加藤登紀子

加藤登紀子さんは「知床旅情」「百万本のバラ」などのヒット曲を持つ。東京大学在学中に「第2回日本アマチュアシャンソンコンクール」で優勝し、歌手デビュー。その後学生運動のリーダーだった藤本敏夫と獄中結婚し、3人の子供を育てながら、歌手・妻・母の三役をたくましく生き抜いてきた。5年前に死去した夫・藤本氏と向き合った加藤登紀子が苦闘し、学び得たその劇的な半生を振り返る。
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1943年、旧満州(現在の中国東北地方)ハルビン生まれ。歌手。東京大学文学部卒。65年、第2回日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝し歌手デビュー。<赤い風船>で日本レコード大賞新人賞、<ひとり寝の子守唄><知床旅情>で日本レコード大賞歌唱賞を受賞。映画『居酒屋兆治』で女優、『紅の豚』で声優を務めた。2000年より国連環境計画(UNEP)の親善大使。現在も年間数十回のコンサートを行っている。


第1回 「ひとり寝の子守唄〜出会いと獄中結婚」--->C 0730
東大生歌手として順風満帆のスタート切った加藤さんは、学生運動の指導者、藤本敏夫と出会う。藤本さんへの想いと歌手活動の狭間で悩みながら、お仕着せの歌謡曲ではなく自らの歌が欲しいと「一人寝の子守唄」を初めて作曲。大きなヒットとなった。学生運動の嵐が吹き荒れる中、リーダーとして指揮をとる彼は1972年国際反戦デーの騒乱で逮捕され実刑判決を受ける。収監直前長崎県平戸で語り合った二人は、はじめて一緒に人生を歩んでいけると実感した。

第2回 「あなたの気配〜服役中の愛」--->C 0109
藤本敏夫さんが収監されてまもなく、加藤さんは身ごもっていることを知る。迷い、悩む中で、「私はあなたと結婚して子供を産むことを決めました」と手紙を獄中の藤本に送った。藤本の答えは「OK」。5月6日、鉄格子越しに、2人は結婚を決めた。1972年長女・美亜子誕生。加藤は美亜子と共に、黒羽刑務所(栃木県)で服役中の藤本に面会した。そして1974年9月、藤本さんは仮出所。ようやく家族三人の生活が始まった。

第3回 「百万本のバラ〜妻・母・歌手の狭間で」--->C 0380
仮出所した藤本さんは自立を求め、「大地を守る会」を設立。有機野菜の直販を開始するが、経営は思うようには行かなかった。二女、三女を得た後、藤本さんは千葉県鴨川に単身移住。「俺の決めたことについて来ないなら、そんなのは夫婦じゃない。一つの船に二人の船頭はいらない。」「歌手を辞めるか離婚か」と加藤さんに迫った。二人は何度も離婚の危機を迎えるが、最後には踏みとどまった。それは二人の生き方の違いを認め合う愛情があったからだった。

第4回 「檸檬〜夫の死を越えて」--->C 0477
2002年夫の藤本敏夫さんが病死。有機農業経営など、さまざまな仕事を立ち上げた夫を加藤は長年支えた。藤本さんの生活の拠点は鴨川の棚田の上にあった。加藤さんは歌手と妻を往復する生活を続けてきた。2人の「絆」は、夫婦というよりも「同志」としての繋がりだった。加藤さんは夫を亡くした悲しみを胸にたたみ、3人の子供が自立した今、歌手として新たなステージに立っている。妻として、母として生きた人生を振り返りながら、これからの歌手として生きる道を語る。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK教育 25min 2007-08-24〜(2007-06-06〜の総合での再放送) --->C 0730, 0109, 0380, 0477
Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





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●知るを楽しむ 歴史に好奇心 「あの人は何を食べてきたか」 柳家花緑/林家きく姫

藤原道長、足利義政、水戸黄門、鬼平、この人たちが食べていたものを調べていくと、それぞれの時代の食文化が見えてくる。平安時代の「美しく切る」技術、室町時代のだし汁や調味料の発達による「和食」の誕生、そして江戸時代はグルメが庶民にまで広がり、TPOに応じた「粋なメニュー」を楽しむようになった。番組では、その時代を代表するメニューを再現し、日本料理の変遷を楽しく描く。
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1971年、東京生まれ。落語家。87年、中学卒業後、祖父小さんに入門。94年、戦後最年少の22歳で真打に昇進。落語はもとより、演劇・テレビなどでも幅広く活躍。著書に「花緑がナビする大人の落語ことはじめ」(小野幸恵氏と共著)、「柳家花緑と落語へ行こう」、CDに「じゅげむ」など。現在NHK教育「にほんごであそぼ」「アラビア語会話」に出演中。


第1回 「藤原道長の“とっておき”」■ --->B 0290
平安時代、宮廷や貴族の祝宴で出された「大饗料理」は、第一に見せる料理である。塩辛い「乾きもの」が多く、味付けはいたってシンプルだったが、素材の切り方、盛り付け方には異様なほど神経を使った。 「この世をば我が世とぞおもう」の藤原道長は毎日のように大饗料理を食べ、糖度35パーセントという猛烈に甘い日本酒を愛飲して中年期から糖尿病に苦しんだ。しかも牛乳を濃厚なチーズ状にしたものにたっぷりと蜜をかけた「道長スペシャル」ともいうべきデザートを手放せず病気を悪化させていく。見栄えは良いが多すぎる塩分と糖分で生活習慣病を頻発させた平安貴族の食生活を描く。

第2回 「足利義政の湯漬け」■ --->D 0374
室町時代は日本料理が「うまみ」を獲得した時代である。大きな役割を果たしたのは禅寺のお坊さん達。肉や魚を使わずにおいしいものをと考えた結果、昆布やシイタケの旨みを利用するだし汁が発明され、煮物のバリエーションが激増する。味噌や酒、醤油の元になるような調味料も充実して、しっかりと調味された焼き物・煮物・汁物が出現した。銀閣の渋好みで有名な足利義政は山海の珍味が並ぶ宴会料理よりも、だしの利いた一杯の湯漬けを好んだ。季節感あふれる旬の野菜を喜ぶようになったのもこのころからである。上品でおいしい「和食」の誕生期を描く。

第3回 「水戸黄門の手打ちうどん」■--->F 0130 軽いノイズ
江戸時代の殿様は毒見役が調べた後の冷たいものを食べねばならず、食生活は案外不自由だった。そこに敢然と立ち向かったのが黄門さまこと水戸光圀。若い頃お忍びでよく吉原に上がっていた光圀は帰り道、当時流行の「饂飩(うんどん)」を食べて感激、自ら麺をうち、客人に振る舞うほどの腕前となる。以後もうまいものを聞きつけては製法を習って自家製を作るのがくせになり、「食いしん坊副将軍」の道を歩んでゆく。本物の介さんは光圀のために日本各地をまわって美味・珍味を報告し、本物の格さんが帳面に書き取った。寛永から元禄、町場にうまいものが出回り始めた時代背景を交えながら水戸黄門の食生活を描く。

第4回 「鬼平の小鍋仕立て」■--->F 0904 ノイズなし
下っぴきの男たちと盗賊の動きなど探る時はちょっと場末で「シャモ鍋」。徹夜続きの仕事を終えて久しぶりに良く眠った朝、妻に作ってもらうのは「葱と炒り卵が入った白粥」。池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」は主人公長谷川平蔵以下、登場人物の食事場面が作品の大きな魅力となっている。池波氏は執筆の際、平蔵が生きた宝暦〜天明期の料理書を綿密に考証、特に気に入ったものを、平蔵に美味そうに食べさせたという。料理が庶民の娯楽の一つとなり、TPO に応じて“粋なメニュー”が出てきた田沼時代、鬼平の好物をいくつか再現しながら、現代人にもグッとくる江戸のグルメ事情を描く。
(text from NHK site)

NHK教育 25min 2007-06-06〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)







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