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●知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 「夏目漱石 悩む力」 姜尚中

姜尚中さんの人生の傍らにはいつも夏目漱石の本があった。近代人の自我を描き、その先に明るさを決して見出してないにも関わらず、愛にも金にも本能にも逃げず、悩みを引き受ける覚悟を示した漱石。漱石を通して姜さんが得た、悩む力の大切さを語る。
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1950年、熊本県熊本市生まれ。東京大学大学院教授。政治学者。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。ドイツ・エアランゲン大学に留学したのち、国際基督教大学准教授などを経て、98年から東京大学社会情報研究所(現・大学院情報学環)教授。国境を超越し、「東北アジア」に生きる人間として、独自の視点から提言を行っている。著書『マックス・ウェーバーと近代』『東北アジア共同の家をめざして』『日朝関係の克服』『在日』『姜尚中の政治学入門』『愛国の作法』『ニッポン・サバイバル』など多数。テレビ、雑誌、新聞などでも幅広く活躍している。


第1回 「現代を見抜いていた人」--->E 0605 ノイズなし
漱石が徹底して追究したのは人間の“自我”。私は何者なのか、何を求めているのか、何から逃れようとしているのか、なぜこんなことを考えるのか。ものごとの意味を求めてしまうこの自我を、近代の問題の本質ととらえていたと姜さんはいう。漱石は、そうして悩むことがたとえ上滑り的なことであろうと、滑り続けなければならないと述べた。姜さんはそこに、意味を求めてしまう近代に生きているなら、わが身がどんなになろうと悩み続けるべきだというメッセージを読み取る。もうひとりの師、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーと時に比べながら、現代を見据えた知の巨人として語る漱石論。

第2回 「東京の女(ひと)―『三四郎』より」--->C 0822  ノイズなし
姜さんは日本の高度成長期のさなか、大学進学のために熊本を離れ、一人上京した。当時、愛読していたのは『三四郎』。同じく熊本から上京して、都会の文化に戸惑い、都会の女性に恋して悩む主人公に若き自分の姿を重ねた。だが中年に差し掛かった姜さんが『三四郎』を再読したとき、今まで気にも留めなかった「名もない女性の自殺シーン」が目に飛び込んできた。姜さんはそこに、ただの青春小説を凌駕(りょうが)する現代への恐ろしい予見を見出してしまう。近代以降に変容してしまった「死」の問題だった。

第3回 「愛でもなく、金でもなく―『それから』より」--->E 0381 ノイズなし
『それから』の主人公・代助は親に生活費をもらい、何の仕事もしていない。実業家の父をばかにしながら、そこに寄生している。ものごとに意味を求め、考えるばかりで活動しなくなってしまう“高等遊民”。友人の妻を愛した代助は、親から縁を切られ、何かにとりつかれたように電車に飛び乗り、世の中が赤く回って見えるところで物語は終わる。しかし姜さんは、代助は愛を信じたわけではないとみる。腹をくくった相手の女性に比べ、代助は思索の時間と生活のための労働の間で揺れている。愛でも金でもどうにもならない自我の孤独。それは近代的知性の行き詰まりであり、答えが見えず苦悩する漱石自身の姿だと姜さんは見る。

第4回 「あなたは真面目ですか?―『心』より」--->E 0511 ノイズなし
自己に悩み続けた姜さんの転機となったドイツ留学。そのときに持って行ったのが『心』だった。個人がつながりを求めるときの重要な手がかりを与えてくれたという。『心』は“私”と“先生”と先生の友人“K”の物語。女性問題で親友のKを裏切り、自殺に追いやった過去を負う先生は、私にその一部始終を書いた手紙を託す。しかし、私がその手紙を読んだときには、先生は自ら命を絶っていた。親子のきずな、男女の愛、友情が交錯する中で、姜さんは“友情”が最も重いと読んだ。誰とでも自由に結べ、だからこそ、その人の本源的な部分が表れるのではないか。先生は私に「あなたは真面目ですか」と問い、過去を託していなくなった。エロスでも社会の決まりでもなく、真面目に人と交わる。漱石がいまだ発する根源的なメッセージを読み解く。
(text from NHK site)

ノイズなし■OK --->E / ■OK --->C / ■OK --->E / ■OK --->E
NHK教育 25min 2007-09-20〜(2007-07-03〜の総合での再放送)
Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





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●知るを楽しむ 人生の歩き方 「細谷亮太 子どもの命みつめて」

小児ガンの治療をライフワークとする医師細谷亮太さん。重い病との闘い、幼い子どもの場合、その現実はどのようなものとして受け止められるのか?子どもや家族とどう向き合えばよいのか?医師にできることは何なのか。細谷さんが、医療者として内に蓄えてきた思いや日々のさりげない風景から生きることの辛さとすばらしさを語る。
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1948年、山形県生まれ。聖路加国際病院小児科部長・副院長。小児がんを専門的に学んできた小児科医。東北大学医学部卒業後、聖路加国際病院小児科に勤務。のち小児がんの先端的治療を研修のため、米国テキサス大学総合がん研究所M.D.アンダーソン病院小児科に赴任。現在聖路加国際病院小児科部長。著書に『小児病棟の四季』(岩波現代文庫)、『医師としてできることできなかったこと―川の見える病院から』(講談社+α文庫)、『ぼくのいのち』(岩崎書店、絵本)、訳書に『君と白血病』(医学書院)など。


第1回 「治せない病との出会い」■--->E 0148 ノイズなし, F 0454 ごく軽い
細谷亮太さんが、小児科の医師になった34年前は、まだ小児ガンはほとんど治療法がなかった。新米医師の細谷さんは今でも、受け持った子どもが初めて亡くなった日のことを忘れることはない。若き日に出会った小児ガンの子どもを通して小児ガンの専門医として生きることを決意し渡米するまでの細谷さんの心のうちを語る。

第2回 「病と闘う子どもたち」■--->E 0233 ノイズなし, F 0851 ごく軽い
アメリカから小児ガンの治療法を学び帰国した細谷亮太さんは、ガンの子どもと共に重い病と闘う日々を送る。治療をすすめるためには、病名を告知して本人に病気と闘う覚悟をもってもらわなくてはならない。白血病の麻意ちゃんは7歳で再発、「死ぬのが怖い。死んだらどうなるの?」と訴え続けた。懸命に闘病する子どもの姿が教えてくれた生きることの意味を語る。

第3回 「親の悲しみと向き合う」■ --->C 0865 ごく軽い, E 0536 ノイズなし
「なぜうちの子がこんな目にあわなくてはいけないんですか?」辛い闘病の末の再発、亡くなる子どもの親の悲嘆を受け止める苦しさ。親との交流をとおして学んだ親子の絆、親がもつわが子への思いの深さを細谷亮太さんが語る。

第4回 「サヨナラの向こうに」■ --->C 0726 軽ノイズ, C 0221 ノイズなし
勤続30年目を迎え、細谷亮太さんは休みをとって四国遍路の旅に出た。それは気軽な思いつきからだったが、これまで自分が看取った200人の子どもたちが一緒に歩いているような実感があった。細谷さんは、子どもの死に立ち会っては涙を流す自分がプロではないように感じ悩んできた。しかし今では、逆に「涙を流せなくなったらこの仕事をやめる」と考えている。自問を続けた細谷さんの思いを聞く。
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に軽いノイズあり>
NHK教育 25min 2007-07-04〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)
ノイズなし■OK--->E/■OK--->E/■OK--->E/■OK --->C
NHK教育 25min 2007-09-28〜(2007-07-04〜の総合での再放送)
Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





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●知るを楽しむ 歴史に好奇心 「京都花街 歴史をつくった奥座敷」 相原恭子

京都花街。歴史に名を残す大政治家や文化人が愛した街。男たちと深く交流したのが、花街に暮らす女たちだった。彼女たちの中には、都の命運を託された者、欧米の社交界を渡り歩いた者、文壇の華となった者…それぞれに数奇な運命を辿った者がいた。小さなお座敷の中で一体どんなドラマが繰り広げられ、女たちはどんな人生を歩んできたのか?花街の女たちが歩んだ人生から歴史をひもとく。
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横浜市生まれ。作家。慶應義塾大学文学部哲学科卒業。ドイツ政府観光局勤務を経て、ヨーロッパと京都の花街をテーマに自ら撮影した写真を使い執筆・講演を続ける。英国の出版社CarltonBooksから、ヨーロッパに造詣が深く外国人に日本を語れる日本人に選ばれ英語の著書Geishaを刊行。仏語版(soline)、ハンガリー語版(DEE-SIGN)も刊行され各国で発売。著書は『京都舞妓と芸妓の奥座敷』(文春新書。中国語版も刊行)、『京都花街もてなしの技術』(小学館)、『京都発 舞妓さんマナー集』(山海堂)、『秘密の京都 舞妓と芸妓』(近刊予定。弘文堂)、『もっと知りたい!ドイツビールの愉しみ』(岩波アクティブ新書)、『ドイツここが見たい!10都市紀行』(東京書籍)など多数。


第1回 「都を再生させた芸」■--->C 0235 ノイズなし
明治維新後、天皇が東京に移り、もぬけの殻となった京都。没落の危機にあった都を、あでやかに甦らせたのが「都をどり」だった。祇園の芸舞妓が総動員で舞を披露するこの舞台は、明治5年、一人の女性によって創り上げられた。当時、祇園の芸舞妓に舞を指導していた、京舞三世井上八千代である。まだ無名であった八千代は、座敷で舞う舞を、ステージ仕様に大転換。艶やかな衣装を身にまとった芸舞妓たちの舞台は、「日本の誉れは京にあり」と世に知らしめ、以来135年間、都に多くの客を集める一大イベントとなっている。毎年4月に1ヶ月間に渡って行われる「都をどり」を取材し、花街の女たちによる「芸」が、すたれかけた都に繁栄をもたらした歴史をひもとく。

第2回 「西洋人をも魅了した美の化身」■--->C 0319 ノイズなし, F 0655 ごく軽い, F 0311 ごく軽い
明治時代、祇園の名を世界に知らしめた芸妓がいた。アメリカのモルガン財閥の一員に気に入られ、四万円という破格の金額(現在の一億円相当)で身請けされた「モルガンお雪」だ。美人の誉れ高く、胡弓の腕は祇園随一と謳われたお雪は、まだ女性が表舞台に立つことのなかった時代に、日本人女性が国際社会へ出た先駆者でもある。海を渡ったお雪を待ち構えていたのは、日本人に対する偏見のまなざし。「日本の女はこんなもんや」と思われたらあかん。すさまじい努力で、後にパリ社交界の花とまで賞賛されるようになった祇園の芸妓・モルガンお雪の生涯を辿り、女性が国際進出を果たしていった時代を重ね見る。

第3回 「幕末の志士とお座敷の魅力」■--->C 0478 ノイズなし, F 0603 ごく軽い
お座敷でのことは決して外に漏らさない。徹底した機密性は、花街を政治の重要情報が飛び交う社交場にした。幕末には、西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作、桂小五郎など諸藩の志士たちが祇園を根城にし、秀でた社交術や複雑な人間関係を把握する能力をもつ芸妓を妻や愛人にした。勤王芸妓「君尾」は、高杉晋作や井上馨ら勤王の志士の命を幾度も救った。木戸孝允(桂小五郎)の妻となり文明開化の東京で名を馳せたのは任侠芸妓「幾松」。かたや西郷隆盛は、丸く太った下働きの仲居を「豚姫」と呼んで溺愛した。大久保利通は、芸妓「お雄」を妾とし、都の情報収集を怠らなかった。祇園の女たちの目を通して、維新の志士の素顔を描く。

第4回 「文芸の生まれ出る花街」■--->C 0593 ノイズなし, F 0499 ごく軽い
ノーベル賞受賞者数日本一を誇る京都と花街の関係は深い。“京大生は先物買い”とお小遣い程度で遊ばせた花街は、異分野の学者や学生の自由闊達な交流の場であり、学問を支援する土壌があった。日本人初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹、ノーベル文学賞を受賞した川端康成も祇園の常連。学者らとの交友の中、和歌・俳句、絵を嗜む「文学芸妓」が登場。祇園の名を文芸界に有名ならしめた磯田多佳だ。文才に優れ、谷崎潤一郎や夏目漱石、志賀直哉、横山大観など一級の文化人と交流を深めた。漱石との約束を多佳がすっぽかし、謹厳な漱石に「春の川を隔てて男女哉」と詠ませたのは、近代文学史に残る有名な話。作家にインスピレーションを与え、文学・芸術の豊かな土壌となった花街から、近代文学の系譜を辿る。
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に、ごく軽いノイズあり>
NHK教育 25min 2007-07-05〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->C以外
ノイズなし■OK/■OK/■OK/■OK
NHK教育 25min 2007-10-11〜(2007-07-05〜の総合での再放送) --->C
Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





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●知るを楽しむ この人この世界 「栗林慧 虫の目になりたい」

昆虫写真家の栗林さんが半生をかけて取り組んできたフィールドワークから特に印象深い“冒険”を
映像を交えながら語っていただき、栗林さんの昆虫へ向けられた“好奇心”と“発見の感動”を伝える。
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1939年、瀋陽生まれ。昆虫写真家。3歳のときに父の故郷である長崎県の田平に移る。陸上自衛隊、保険会社勤務を経て、69年より写真家として独立。独自に開発したカメラで、アリをはじめさまざまな昆虫を撮影する。2000年、自作のビデオカメラで撮影したオリジナル動画作品『草間の宇宙』で内閣総理大臣賞を受賞。06年、科学写真のノーベル賞といわれるレナート・ニルソン賞を日本人で初めて受賞。ほかにも受賞多数。著書に『アリになったカメラマン』(講談社)、『栗林慧全仕事』(学研)、『源氏蛍』(ネイチャー・ブックス)、『昆虫の飛翔』(平凡社)、『The MOMENT』(日経サイエンス社)など多数。


第1回 「昆虫になったカメラマン」■ --->F 0110 ノイズなし
栗林さんの原点は、少年時代に飽きることなく見入ったクロナガアリ。その営みをアリの目線でとらえたいと試行錯誤の末開発したのが「クリビジョン」。なんと内視鏡を改造して虫の目線で撮ることに成功する。

第2回 「ヘラクレスオオカブトと目が合った」■ --->C 0521 ごく白メダカ, F 0259 ノイズなし
栗林さんはエクアドルへ世界最大のカブトムシ、ヘラクレスオオカブトを撮影するため向った。日本のカブトムシやクワガタは樹液をめぐって激しく争い、ついに戦うための角やハサミを発達させてきた。では世界最大のヘラクレスオオカブトはどのような生態なのだろうか。苦労の末、アマゾンで栗林さんが見たのは、意外な姿だった。

第3回 「憧れのチョウが棲む森」■ごくnoiz --->C>>消した, E 0979 ノイズなし
マレー半島の熱帯雨林。黄金クワガタなど数々の珍しい虫が生息する地。栗林さんが遇したのは、世界最大級のアゲハ。翅の間は約23cmにも達する。 密林の中を高く飛ぶため 幻といわれた巨大アゲハが、100匹以上の群れをなして水辺に休息していた。

第4回 「アリの視点でアリを撮る」■ --->F 0634 ノイズなし
巣穴にクリビジョンを入れアリの生態を驚異の映像で捉えた。中米パナマ。巣を作らないことで知られるグンタイアリ。数百万のコロニーはどのように作られるのか。女王アリはどこで卵を産むのか。栗林さんは、無数のアリが球状に集まった内部に、女王アリを見た。

第5回 「だれも知らなかったアリの大陸」■ --->C 0219 ノイズなし
アリの大陸オーストラリア。樹の上に住み、葉を折り曲げて袋状の巣を作るツムギアリの驚くべき生態に栗林さんが密着した。

第6回 「昆虫が空中で止まった」■ --->F 0758 ノイズなし
昆虫の飛んでいる姿をリアルにみてみたい。栗林さんは、光センサーをカメラとつなぎ、高速シャッターも開発。超高速ストロボで見事飛翔する昆虫の姿をとらえる。さらに、ゴミムシがガスを発射する瞬間や植物の種がはじける瞬間も撮影に成功した。

第7回 「闇に舞うホタルの光」■ --->E 0266 ノイズなし
10年間に及ぶゲンジボタルの追跡調査。大分の鍾乳洞に産み付けられた卵も光を放っていた。幼虫、さなぎ、成虫と光続けるホタルの生態にクリビジョンが迫る。

第8回 「昆虫たちへの挑戦状」■ --->C 0447(軽いノイズ), E 0397 ノイズなし
身近な自然こそ驚きに満ちている。カマキリは唯一人間と同じように首を動かす昆虫。振り向くカマキリの眼をクリビジョンがとらえる。栗林さんの住む長崎・田平の昆虫たちの生態。
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に軽いノイズあり>
NHK教育 25min 2007-08-06〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->C, F
ノイズなし■OK--F/■OK--F/■OK--E/■OK--F/▼失敗/■OK-F/■OK--E/■OK--E
NHK教育 25min 2007-11-19〜(2007-08-06〜の総合での再放送)
Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





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●知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 「城山三郎 “昭和”と格闘したサムライ」

「昭和」と格闘し続けた作家が生を終えた。城山三郎、享年79歳。権威に走らず最期まで「足軽作家」の「気骨」を持ち続けた作家 城山三郎。その人物と作品の魅力を、哀悼の意を込め、遺族と真山仁(小説家)佐高信(評論家)平松守彦(前大分県知事)が語る。
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真山仁: 1962年大阪生まれ。小説家。同志社大学法学部政治学科卒業後、中部読売新聞(現・読売新聞中部支社)に入社。岐阜支局記者として警察、市町村行政、地域振興などを担当した。89年退職。2004年、業務不振の会社などから経営権を奪取する「ハゲタカファンド」を取り上げた『ハゲタカ』でデビュー。以後、『虚像(メディア)の砦』『マグマ』などの作品を発表し、経済小説の新鋭として注目される。

佐高信: 1945年山形県生まれ。評論家。慶應義塾大学法学部卒業。高校教師、経済雑誌編集長を経て、現在は評論家。『週刊金曜日』発行人。経済評論からスタートし、政治・社会・文化・世相など幅広い評論活動を行う。『日本国憲法の逆襲』(岩波書店)『佐高信の丁々発止』(七つ森書館)『石原莞爾』『官僚国家=日本を斬る』(講談社文庫)『城山三郎の昭和』(角川文庫)『西郷隆盛伝説』(角川学芸出版)など著書多数。城山三郎との共著『男たちの流儀』(光文社知恵の森文庫)など共著も多い。

平松守彦: 1924年大分県生まれ。前大分県知事。 東京大学法学部卒業後、商工省(現・経済産業省)に入省。産業公害、石油計画、電子政策の各課長を歴任。電子工業課課長補佐、初代電子政策課課長時代にはIBMなど海外のコンピューターメーカーの進出に対抗して、国策会社の設立や企業再編に奔走。国産コンピューター産業の基礎を築く。75年、当時の大分県知事に請われ、国土庁長官官房審議官から郷里大分県の副知事へと転身。79年に大分県知事に初当選。以後6期務めて退任。知事時代は「一村一品運動」を提唱し、地域の活性化に貢献した。著書に『一村一品のすすめ』『グローバルに考えローカルに行動せよ』『地方からの発想』などがある。


第1回 「無所属の生き方〜素顔の父」■ごくnoiz --->C 0233
城山三郎さんは「形式」を嫌っていた一方で、私的な人間関係に深い愛情を示した。大学の同窓生との「輪読会」は数十年欠かさず出席。また愛妻家で、取材には妻を同伴。死を認めたくないと妻の没後7年間、一度も墓参に訪れなかった。心と心の結びつきを何よりも愛おしんだ亡き父の姿を、息子杉浦友一さん、娘井上紀子さんがはじめてカメラの前で語る。

第2回 「事実との格闘から見えてくる人間の誠」--->C 0868 ノイズなし
巨大な「組織」に立ち向かう勇気ある「個人」を描いた経済小説で注目を集めている作家の真山仁さん。真山さんは城山三郎を「一番、尊敬している作家」と語る程、心酔している。真山さんが感じる城山作品の魅力は豊富で綿密な取材力に裏打ちされたリアリティー。その中で一番好きな作品が「小説日本銀行」である。真山さんがそれを読みときながら、城山さんが事実と格闘しながら描こうとした人間の誠を語る。

第3回 「“精神の火傷”が生んだ戦争文学」--->C 0170 ノイズなし
佐高信さんは27年前、城山にインタビューして以来、公私にわたり深く交流してきた。小説「大義の末」、「一歩の距離」、A級戦犯の中で唯一の文管だった広田弘毅を描いた「落日燃ゆ」、遺作となったドキュメント「指揮官たちの特攻」。城山さんは17歳で特攻隊に「志願」して国に裏切られたトラウマを一貫して書き続けた。城山さんとの数々のエピソードと、城山さんの気骨ある生き様を、30年来の盟友で評論家の佐高信が語る。

第4回 「打たれ強く生きる」--->C 0322 ノイズなし
元大分県知事平松守彦さんは、城山さんと通産省時代「官僚たちの夏」の取材で出会った。その後平松さんは故郷大分県の副知事に転身を決意する。ちょうどそのころ、奥さんが亡くなり、大変辛い時期だったが、城山作品の中で逆境を生きる男達の姿に励まされ勇気づけらた。逆境に陥ったとしても、決してひるむことなく「打たれ強く生きる」。城山が遺したメッセージを語る。
(text from NHK site)

1回目のみ残す<受信障害により映像全体に、ごく軽いノイズあり>
NHK教育 25min 2007-08-07〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->C
ノイズなし▼失敗/■OK/■OK/■OK
NHK教育 25min 2007-10-22〜(2007-08-07〜の総合での再放送) --->C 0233,
Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





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●知るを楽しむ 人生の歩き方 「岸朝子 美味しゅうございます」

「おいしゅうございます」で一躍有名になった岸朝子さんは料理記者歴50年、今だ現役である。次々と料理の世界に革命をまきおこしてきた。岸さんが、「おいしく食べて健康に」という信念で貫いてきた波瀾の人生を語る。
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1923年、東京都生まれ。料理記者。両親は沖縄県出身。女子栄養学園(現・女子栄養大学)卒。55年、32歳で出版社に入社して以来、料理記者・編集者・雑誌編集長などさまざまな立場で、食や料理に関する記事・雑誌・書籍づくりにかかわってきた。93年より、フジテレビ系「料理の鉄人」に審査員として出演。「美味しゅうございます」の言葉が評判になり、お茶の間にもデビュー。84歳の今も現役のジャーナリストとして活躍。昨年、フランスの食文化普及に努めた活動により、仏政府より農事功労賞シュバリエが贈られた。


第1回 「良妻賢母のはずが」--->C 0981 ノイズなし
岸朝子さんは、良妻賢母をめざし、職業軍人と結婚したものの、戦後夫は公職追放となり、夫婦は千葉でカキの養殖業を始める。夫の仕事を手伝いながら何でも手作りで自給自足生活。昭和27年にきちんとした資格がとりたいと、栄養士の試験を受けるために上京、見事合格する。ところが、家に帰ると4才の長男の具合がおかしい。留守中に食べた寿司が原因の疫痢だった。長男の死。辛い思いから逃れるように一家は上京。「料理好きの女性記者求ム」という出版社の求人広告が目にとまり、岸さんは妊娠中にもかかわらず入社試験に挑戦する。食の大切さを身をもって知った若き日々から、料理記者岸朝子誕生までをうかがう。

第2回 「料理記者 誕生」--->C 0190 ノイズなし
4人の子どもを育てながらの岸朝子さんの料理記者生活が何とかスタートする。当時、料理の先生は計量カップやスプーンは使わず、もっぱらカンに頼っていた。専門家の味を、誰でもがだせるようにするために、どうしたらよいのか。岸さんは、「大さじ何杯」「カップ何杯」と表記したいと、早速料亭の厨房で、いちいち調味料や分量を正確に計って料理人を呆れさせた。正確な情報を伝えるために、何でも自分で確かめ考える大切さを学んでいった記者時代をうかがう。

第3回 「編集長の苛烈な日々」--->C 0303 ノイズなし
岸朝子さんは13年間勤めた出版社をやめ、「栄養と料理」の編集長に。香川綾学長の「おいしく食べて健康に」という編集方針のもと、主婦ならではの新しい企画を次々出してヒットを重ねていく。「生活習慣病を食事で防ぐ」「街角の美味探訪」など今では料理雑誌の定番となっている記事を初めて生み出したのが岸さんだった。たちまち販売部数は飛躍的に伸びた。今回は、岸さんの波瀾万丈の編集長時代を語っていただく。

第4回 「夫へ、来世もよろしく」--->C 0625 ノイズなし
子どもを育てながら、忙しい仕事を続けられたのは、岸さんのことを面白がりながら慈愛をもって 見守ってくれた夫のおかげだった。岸さんの転機にはいつも適切な助言をしてくれ、岸さんが会社を作るときは、監査役として応援してくれた。見合いして1ヶ月で挙式、平凡なスタートだったが、52年連れ添い78歳で亡くなった。「夫はもうこりごりだというかもしれないが、来世もまたあの笑顔に包まれて暮らしたい」家族、特に夫との日々を語っていただく。
(text from NHK site)

ノイズなし■OK/■OK/■OK/■OK
NHK教育 25min 2007-10-31〜(2007-08-08〜の総合での再放送) --->C
Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





●知るを楽しむ この人この世界 「金田一秀穂 日本語のカタチとココロ」

外国で日本語を長年教えた経験をもつ金田一秀穂さんが、
外国人の目から見た日本語と、そこに秘められた日本語の歴史や日本人の心性を読み解く。
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1953年、東京都生まれ。杏林大学教授。上智大学心理学科卒業。東京外国語大学大学院日本語学専攻修了。祖父・京介、父・春彦に続き、日本語研究を専門とする。中国大連外語学院、アメリカのイェール大学、コロンビア大学で日本語を教えたあと、主に国際交流基金日本語国際センターを拠点に日本語教育を行ないながら、インドネシア、ミャンマー、ベトナムなどで、現地の日本語教師の指導に携わる。94年にハーバード大学客員研究員。2001年より杏林大学外国語学部教授。主な著書に『新しい日本語の予習法』(角川oneテーマ21)、『ふしぎ日本語ゼミナール』(NHK出版生活人新書)、監修に『新レインボー小学国語辞典』(学習研究社)などがある。


第1回 「外国語として見た日本語」■ 台風同時画面+5minズレによる尻切れ --->F 0365 ごく軽い
金田一秀穂さんの日本語研究の出発点は、外国人にどうやって日本語を教えれば理解させられるのかという試行錯誤。日本語教育の現場で外国人が最も理解できないものは何か?音、文法、文字の特殊性にはじまり、言葉の使い方、選び方に至るまで現場で起きている混乱を実例をもとに語る。

第2回 「日本語の音は文字にできる」■ --->F 0463 ノイズなし
日本語は、ほとんどが「あいうえお」の5つの母音でおわる。子音「t」「k」などで終わる言葉がない。これは、ハワイやポリネシアの言葉に似ているが世界的にも珍しい。さらに、50音にはあるのに使われていない音がある。例えば「びゅ」は、「誤謬」という言葉以外には日本語に存在しない。「ひゅ」は地名の「日向」、「みゅ」も地名の「生田(みゅうだ)」のみ。五十音に隠された謎とは?

第3回 「音の不思議な力」■ --->F 0571 ノイズなし
「イポポ」と「オポポ」の夫婦。どちらが女性?「ジキルとハイド」どちらが悪役?なぜか、音がかもしだす印象がある。メールアドレスは「メルアド」コラボレーションは「コラボ」など、日本語は3拍、4拍が大好き。日本語の音のもつ不思議な力とは?

第4回 「ひらがな・カタカナ・漢字がある理由」■ --->F 0665 ノイズなし
なぜ日本ではメールの絵文字が大流行するのか?日本語にはもともと文字がなく、中国の漢字を表意文字として使ってきた歴史があるからと言われる。しかし、それだけではない。話し言葉では語れない「微妙」な関係性を書き方や文字で表現する日本人の心性が隠されている。

第5回 「漢字を知れば日本語がわかる」■ --->D 0900
タクシー代なのに、給食費。「代」と「費」の違いは何か?病人なのに患者。「人」と「者」の違いは何か?操縦士、歌手、会社員……。漢語の不思議な世界を探る。

第6回 「“ある”と“いる”にはルールがある」■ --->C 0084 ノイズなし
「クマのぬいぐるみが」なら「ある」「ぬいぐるみのクマが」なら「いる」。「ある」は食べられるが、「いる」は食べられない。言葉の使い方で、読み取れる心情をキャッチしよう。

第7回 「心地よい言葉の正体」■ --->E 0007 ノイズなし
偉い人に醤油をとってもらう時、どう言うか?「醤油をとってください」では丁寧ではない。かといって「大変恐れ入りますが醤油をとっていただくわけにはまいりませんでしょうか」では丁寧すぎ。こういうときには、「それ、醤油でしょうか?」「醤油を……」が自然だ。四角四面ではない心地よい言葉とは?

第8回 「人と人とをつなぐ言葉」■ --->E 0097 ノイズなし
美しい日本語、正しい日本語を知っているだけでは「心をうつ日本語」はしゃべれない。形式、語彙は関係ない。心をこめた日本語を話せば、なぜか相手の心に通じる不思議。
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に、ごく軽いノイズあり>
NHK教育 25min 2007-09-06〜(2007-07-02〜の総合での再放送)
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●知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 「植木等 世の中スイスイ“無責任”」

今年3月27日、他界した植木等さんは戦後最大のエンターテイナーで、「スーダラ節」などの大ヒット曲や映画「ニッポン無責任男」シリーズで高度経済成長のカリスマとしてサラリーマンに絶大な人気を博した喜劇人である。番組では植木等を「映画、経済、ミュージシャン、師」の4つの面から取り上げ、その魅力について4人の方に語っていただく。
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大林宣彦
1938年広島県生まれ。映画作家。幼少のころに個人映画を撮り始める。60年代にテレビCMディレクターとなり、2000本以上を制作。77年『HOUSE』で劇場映画に進出。『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』の“尾道三部作”をはじめ、『ふたり』『青春デンデケデケデケ』『理由』などの名作を世に送り出す。2004年、紫綬褒章受章。今年、25年ぶりにリメイクした『転校生―さよならあなた―』が公開になり、話題となった。

森永卓郎
1957年東京都生まれ。獨協大学教授。東京大学経済学部卒。大手金融系シンクタンクの研究員などを経て、06年より獨協大学経済学部教授。専門はマクロ経済、計量経済、労働経済。『誰がウソをついているのか―増税も改革も必要ない!』(ビジネス社)、『新版 年収300万円時代を生き抜く経済学』(知恵の森文庫)『萌え経済学』(講談社)など著書多数。独自の視点と平易な説明に定評があり、テレビ、ラジオ、雑誌などでも活躍している。

佐野史郎
1955年生まれ。俳優。20歳でシェイクスピア・シアターの創立に参加。25歳で唐十郎主宰の状況劇場に入団。86年『夢みるように眠りたい』(監督:林海象)で映画主演デビュー。92年テレビドラマ「ずっとあなたが好きだった」のマザコン男、冬彦さん役が社会現象に。『TOMORROW/明日』(監督:黒木和男)『ゲンセンカン主人』(監督:石井輝男)『太陽』(監督:A・ソクーロフ)など出演映画多数。99年に映画『カラオケ』で初監督。

小松政夫
1942年福岡県生まれ。コメディアン・俳優。61年に俳優を目指して上京。数々の職業を経て、64年、植木等の付き人兼運転手になる。その後、植木等のはからいで独立。70年代に伊東四朗との番組から「小松の親分さん」の名コントや「しらけ鳥音頭」などの大ヒットを生み、一躍人気コメディアンとなる。現在はバラエティのほか、俳優としてテレビドラマや舞台など、多方面で活躍。著書に『のぼせもんやけん』がある。


第1回 「“引き”の喜劇人」--->F0444
独特な映像作品で知られる大林さんは学生時代からクレージーキャッツの演奏を聞いており、その映画も大好きだった。「ニッポン無責任時代」で植木等がバレーボールを受けながら階段の下に投げてしまうシーンこそ高度成長の「金とモノ」に傾斜していく日本人の心情を映像で描いた強烈な一シーンだと言う。95年、植木さんに「あした」で映画出演してもらったが、その律儀で礼儀正しい役者ぶりを目の当たりにし、植木等の人間性を肌で感じたという。映画製作のエピソードも交えて大林宣彦さんが語る植木等の実像とは。

第2回 「そのうちなんとかなるだろう」--->F0504
経済学者の森永卓郎さんは高度成長の時代に就職し職場で無責任男たちに出会ってきた。「わかっちゃいるけどやめられない」など、植木等が歌ったサラリーマンの姿は日本人が本来持っている「ラテン的体質」でバブルが崩壊した今こそ求められる気質だという。森永さんが体験した「無責任男」の実例などにも触れながら、植木等がなぜ高度成長期のサラリーマンを魅了したのか、エコノミストの目から探っていく。

第3回 「不世出のミュージシャン」--->F0546
戦後のジャズバンドから出発した植木等だが、果たしてその歌手・ギタリストの実力はどのようにして培われたのか。小さいときからクレージーキャッツの映画や「シャボン玉ホリデー」を見、俳優としても植木等に一番影響を受けたという佐野さんが、寺の子に生まれた前半生やジャズとの出会い、クレージーキャッツ誕生のいきさつなどから植木等の「不世出のミュージシャン」ぶりを探っていく。

第4回 「日本一の無責任男」--->F0595
43年前、車のセールスマンから植木等の付き人となり、3年9ヶ月行動を共にした小松政夫さん。小松さんが父を亡くした事を知った植木は「自分を父親と思えばいい」と声を掛け、一度も怒らず、小松さんの失敗をギャグにして周囲を笑わせた。小松さんの役者志望の気持ちを知ってデビューさせようと様々に尽力した。そこには「優しさ」という「気品」があり、小松さんは「おやじ」の芸が人々の心に残るのは、その「気品」だと言う。 最も身近にいた「息子」小松政夫さんが植木等の人間像を熱く語る。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK教育 25min 2008-03-31〜(2007-09-04〜の総合での再放送) --->F
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●知るを楽しむ 歴史に好奇心 「江戸っ子に学ぶお金の使い方」 石川英輔

江戸っ子といえば金離れの良さ。「宵越しのカネは持たねぇ」という啖呵(たんか)に象徴されるように、江戸っ子にとって「ケチ」は最大の悪口だったという。江戸の庶民を代表する大工の暮らしを見てみると、手もとにはせいぜい1週間程度の生活費を残すだけで貯金はほとんどなかった。金は無いと困るが金に執着するのはみっともない―それを信条とする江戸っ子の生活はどのようなものだったのか、なぜお金をためずに済んだのか。江戸っ子にお金とのつきあい方を学ぶ4回シリーズ。
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1933年、京都府生まれ。作家。製版会社経営の傍ら、76年『SF西遊記』で作家デビュー。85年から執筆活動に専念し、江戸の庶民生活を中心テーマにした多数の作品を著す。また、江戸時代の生活文化の研究にも取り組む。主な著書は『大江戸神仙伝』『大江戸仙境録』『SF三国志』『大江戸えねるぎー事情』『大江戸生活事情』『雑学「大江戸庶民事情」』など。


第1回 「宵越しの金を持たない 〜持たなかったか持てなかったか」■--->E 0366 ノイズなし
大工の吉五郎が落とした小判三両入りの財布を左官の金太郎が届けるが、双方「そんな金は要らない」と言い張る落語「三方一両損」。金に執着しない江戸っ子らしい話だが不思議でもある。吉五郎は落とした三両(当時の1か月分ほどの給料に相当)をなぜ惜しがらないのか。江戸の庶民の多くを占めていた大工職人を例に、その懐具合を古い資料に探っていくと、まさに「宵越しの金を持たない」生活実態が見えてくる。大工の家族の1日の収支をシミュレーションし、金離れの良い江戸っ子の金銭感覚はいかにして成り立っていたかを探る。

第2回 「宵越しの金を持たない 〜貯めなくてすむ世界」■--->E 0537 ノイズなし
江戸っ子が貯金をしなかった謎、その答えは現代人がなぜ貯金をするかを考えると見えてくる。現代人が大金を使う3大項目はマイホームの購入、子の教育、老後の貯えであるが、江戸っ子はそのいずれとも縁がない。まず、庶民は格安の長屋住まいが当たり前で家を持つ必要がなかった。定年はないので老後は短く、今ほど長生きもしなかったから貯えも考えない。子の教育費といっても手習い(寺子屋)の謝礼は微々たるものだった。日銭を稼ぐその日暮らしでまとまった金が無くても、将来の生活に不安を抱かずに暮らせたのである。さらにそこには、「江戸の華」と言われた火事も一役買っていた。

第3回 「大江戸金融道 〜間違って金を貯めた人々」■ --->E 0898 軽いノイズ
「江戸っ子の生まれそこない金を貯め」と言うが、江戸には高利貸しで大もうけした町人もいた。幕府の家臣たちが給料である禄米(ろくまい)を担保に金を借りた相手、「札差(ふださし)」たちだ。もうけた金を吉原通いや芝居につぎ込み、並外れた浪費・豪遊を繰り広げた。江戸っ子たちは武士への対抗意識もあって、札差ら粋な金持ち町人を英雄視するが、武士にとっては目の上のたんこぶ。寛政の改革では幕府の強権で実に118万両(約3500億円)を踏み倒されている。間違って金を握った江戸っ子が武士を相手に繰り広げた丁々発止の金融道と、少々ニヒルで痛快な浪費振りを描く。

第4回 「税金のない都市の秘密 〜こうすればお役人はいらない」■ --->C 0272 ノイズなし
江戸時代、税は田畑への課税(年貢)が中心で、今のような所得税や住民税はない。江戸の職人たちに恒常的に課される税はほとんどゼロであった。その代わり今のような行政サービスもほとんどない。信じがたいことだが、江戸八百八町を巡回するお巡りさんはたったの12人だったという。ごみ収集もなければ、学校もない。火事が多いというのに町の消防に公費はつかない。現代人が多額の税金を払って役人に任せている公共サービスを、江戸っ子は基本的にわずかな町会費と自分たちのボランティアで運営していた。金離れのよい江戸っ子が金を使わずに乗り切った治安、消防、教育などの仕組みと知恵に迫る。
(text from NHK site)

保存分はノイズなし
NHK教育 25min 2007-09-08〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)
ノイズなし■OK--E/■OK--E(1、2回のみ録画した)
NHK教育 25min 2007-11-12〜(2007-09-08〜の総合での再放送)
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●知るを楽しむ 人生の歩き方 「見城徹 常識との闘い」

幻冬舎社長で編集者の見城徹は、編集者として30数年、数々のベストセラーを生み出し、常識を覆すことから成功を成し遂げてきた。56歳になった見城は今、人生の幕引きを考えるようになったという。見城が今伝えたいことは何なのか?その人生の哲学を聞く。
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1950年、静岡県清水市生まれ。編集者・幻冬舎社長。慶応大学卒。廣済堂出版、角川書店を経て、93年に幻冬舎を立ち上げる。角川時代から文芸誌編集を担当。中上健次、宮本輝、北方謙三、村上龍、林真理子、山田詠美、坂本龍一、つかこうへい、松任谷由美、尾崎豊といったジャンルを超えた若い表現者とともにベストセラーを世に送り出す一方、五木寛之、石原慎太郎といった大物の話題作を手がけた出版界の風雲児。幻冬舎を立ち上げてからの広告戦略や出版戦略は、それまでの常識を覆すものとして、広く注目された。


第1回 「ピエロだった少年」■軽noiz --->D 0510
見城徹は、静岡県の清水市で生まれた。見城は少年時代いじめられっこだった。体は小さく自分の顔は世界で一番醜いと思っていた。中学のときのあだ名はタコ。未だにタコやイカは見るのも嫌で食べられないくらい心の深い傷となっている。そんな少年時代を救ってくれたのは本だった。本がなかったら死ぬことを考えたであろうとまで言う。しかし、そうした原体験があったからこそ相手の苦しみや痛みを理解できるようになれた、それが後の編集者時代に生きていく。

第2回 「編集狂時代」■ごくnoiz --->D 0622
慶応大学卒業後、実用書専門の廣済堂出版に入社。編集者1年目にして手がけた「公文式算数の秘密」が30万部以上のベストセラーとなる。見城は文芸の編集者になりたいという思いから角川書店に入社。尾崎豊や坂本龍一らミュージシャンと公私に渡る人間関係を作り、著書を手掛けた。またそれまで角川に書かなかった作家を口説き落として数々のベストセラーを生み出した、そして異例のスピード出世で41歳にして取締役まで上り詰める。成功の裏には何があったのか。

第3回 「尾崎豊 内臓同士の擦りあい」■ごくnoiz --->D 0779
ヒット作を連発する中で、三十代半ばを迎え、社内でもある程度の地位を得ることになった見城は、ルーティンワークとなりつつあった仕事にどこか物足りなさを感じていた。そんな時に、彼の目の前に現れたのが、金も名誉もすべてを失い失意のどん底にあった尾崎豊だった。見城は、尾崎の復活劇に自分を重ね合わせて、新しい自分に生まれ変わることを誓う。彼の人生観を変えた尾崎豊との道行きとは、いかなるものだったのか?

第4回 「笑って死ねたら」■ごくnoiz --->D 0919
42歳のとき、角川書店を辞め、幻冬舎を立ち上げる。古い体質がはびこる出版界で新規参入は必ず失敗するといわれた。立ち上げに際し、3千万以上の新聞全面広告を組んだ。初めに出した6冊の本はすべてベストセラーになり、創立3年目には文庫本の世界に参入し、62冊を一挙に出版。10年目にはジャスダック上場を果たす。「本が売れないのは活字離れのせいだ」とする出版業界に対して、それは読者が読みたくなるような本を作れない編集者の責任だと言う。常識を常に破り続けるというゲリラ戦術で、出版局に闘いを挑み続ける見城の活躍の裏には何があったのか。
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に軽いノイズあり>
NHK教育 25min 2007-10-03〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->D





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●知るを楽しむ 歴史に好奇心 「お伊勢参り ニッポン観光事始め」 金森敦子

庶民の旅が禁じられた江戸時代、特例地として認められ、最盛期には年間486万人―全国民の実に6人に1人―が訪れたという一大観光地・伊勢神宮。お伊勢参りは、庶民が物見遊山の旅のだいご味を初めて知る“観光旅行の事始め”であった。その人気を支えたのは、現代にも通じる旅行業者の巧みなビジネス術、宿泊・輸送・為替など街道沿いのインフラとサービス、そして何より、庶民の異郷への好奇心であった。ある地方農民の道中記を軸に、江戸時代のお伊勢参りを日本庶民の観光事始めとして探究する。
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1946年、新潟県生まれ。作家。國學院大學文学部卒業。主な著書に『お葉というモデルがいた―夢二、晴雨、武二が描いた女』『江戸の女俳諧師「奥の細道」を行く―諸九尼の生涯』(日本エッセイスト・クラブ賞受賞)『芭蕉はどんな旅をしたのか―「奥の細道」の経済・関所・景観』(以上、晶文社)、『女流誕生―能楽師津村紀三子の生涯』(法政大学出版局)、『伊勢詣と江戸の旅―道中日記に見る旅の値段』(文春新書)、『江戸庶民の旅―旅のかたち・関所と女』(平凡社新書)、『芭蕉「おくのほそ道」の旅』(角川ONEテーマ21)、『"きよのさん”と歩く江戸六百里』(バジリコ)などがある。


第1回 「農民 諸国漫遊の旅に出る」--->F0924
江戸時代、未曾有の伊勢参りブームが到来し、富裕な武士町民のみならず地方の農民までが続々と伊勢神宮を目指した。常陸の国(茨城県)に住む24才の若者、益子廣三郎もそんな旅人の一人だった。ブームを仕掛けたのは、「伊勢の御師(おんし)」。すご腕の旅行業者だった御師は、巧みな営業戦略によって、庶民の旅心をかきたてた。最盛期には、実に全国の7割もの世帯を顧客として取り込むことに成功。御師の活躍によって、日本人の旅のスタイルに、一大変化が起きた。信仰目的の辛い巡礼の旅から、娯楽目的の楽しい観光へ。庶民の伊勢へのあこがれは最高潮に達する。番組では、益子廣三郎が残した旅日記をひも解きながら、伊勢神宮を目指す旅人の出発前夜の興奮のドラマを描く。

第2回 「道中 山あり谷あり助けあり」--->F0522
常陸の国(茨城県)を出立し、700キロ離れた伊勢神宮をめざす農民・益子廣三郎。しかし、その行く手には、険しい山道や大河越えなど幾多の困難が立ちふさがるのだった。また、幕府が街道の要所要所に築いた関所の取り調べも旅人を悩ませた。それでも、江戸時代半ばには過熱する観光ブームを背景として、旅人を支えた便利な商売が次々と登場する。食事付きの清潔な宿屋や、旅人の休憩所となった茶店、さらには宅配便や為替といった現代顔負けのサービスも登場。伊勢参りの道中は、便利で楽しい観光ルートに変化した。番組では、カーロック・ホームズこと柳家花緑が、江戸時代の旅人のごとく当時の難所やサービスを実体験しながら、伊勢参りの旅の実態を探っていく。

第3回 「つまらないとは言わせない! 腕利き案内人の活躍」--->F0475
長旅の果てについに伊勢へ辿り着いた庶民たち。旅行業者・御師(おんし)は彼らを温かく迎え、自邸で手厚くもてなした。タイや伊勢エビ、アワビのごちそう、夜具は最上の絹布団と、人生初の 「大名気分」を満喫させる。さらに15両も払って神楽奉納を申し出た客には、添乗員付きの二見浦詣で、伊勢神宮の参拝、あげくは芝居小屋や遊郭巡りなど、華やかなオプションツアーを用意。行く先々で、旅人は御師に勧められるがままにまき銭・投げ銭まで施す始末。彼らは旅行代金の高さをすっかり忘れ、歓待ぶりを郷里で吹聴し、次回以降の集客に図らずも貢献したのである。「つまらないとは言わせない」旅行業者・御師の腕利きぶりを描く。

第4回 「おかげ参りのエネルギー 庶民の旅が日本を変えた」--->F0412
旅を終え郷里に戻った農民たちは、各地の土産物を渡すとともに、旅で得た知識(新しい稲の品種や農具、農法など)を伝授し、村の暮らしを向上させることに貢献した。その所産として、全国各地に「伊勢」と名の付く稲の品種が広まる。こうしてお伊勢参りをはじめとする旅ブームが生活に浸透していく中、神宮の御札降りに端を発する参拝ブーム「おかげ参り」がたびたび発生した。慶応3(1867)年には、御札降りが庶民の一大ボイコット運動「ええじゃないか」に転化する。騒乱の中、京都では尊皇派によるクーデターが発生。王政復古の大号令が発布され、ついに江戸時代は終えんを迎える。伊勢参りという庶民の旅が、日本人の暮らしを変え、果ては時代までも変えたエピソードを、オムニバス形式で見ていく。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK教育 25min 2007-12-17〜(2007-10-04〜の総合での再放送) --->F
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●知るを楽しむ 人生の歩き方 「玄侑宗久 “なりゆき”を生きる」

芥川賞作家で僧侶の玄侑宗久さん。家出や転職を繰り返し人生の針路に悩んでいた玄侑さんが得た信条は、人生の「なりゆき」を見据えながら「決然」と生きる事。作家と僧侶、二足の草鞋を履く玄侑宗久さんが人生の歩き方を語る。
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1956年、福島県三春町生まれ。作家・臨済宗僧侶。慶応大学卒。さまざまな仕事を経験した後、27歳で京都・天龍寺専門道場に入門。現在は臨済宗妙心寺派福聚寺副住職。2000年、「新潮」 に『水の舳先』を発表し、作家としてデビュー。翌年『中陰の花』で上半期の芥川賞を受賞。生と死、人の精神、老いなど、実感しにくい世界を見つめた独特の玄侑ワールドを小説で展開する一方、対談、エッセイ、時事批評、往復書簡、仏教や禅の解説書など、幅広いジャンルで著作活動を行っている。


第1回 「“やおよろず”への興味」--->E 0317 ノイズなし
福島県にある古刹の長男として生まれた玄侑さんは、跡継ぎとして期待されていた。しかし宗教への不信や父親への不満から悩み、家出を繰り返す。そんな中、玄侑さんに芽生えたのは「作家」への夢。大学受験をきっかけに上京。同人誌に参加し小説を書く一方、社会を知らなければならないと、土木工事やナイトクラブ、ごみ焼却所など、様々な職業を体験する。様々なこと「やおよろず」を模索した心のうちを語る。

第2回 「飲みこむまでの苦さかな」--->E 0483 ノイズなし
作家として芽が出ないまま玄侑さんは25歳になっていた。周囲の仲間は次々と就職する中父親から「作家修行は27歳まで」と期限を宣告される。26歳で小説を書き上げたものの、掲載誌が廃刊になるという悲運を味わう。夢破れた玄侑さんは、京都・天龍寺の修行道場へ。しかしこの修行こそ、玄侑さんを救う場となる。作務、坐禅、読経、托鉢…。ただ目の前の事をこなす“予断を持たない”生活。それが玄侑さんの内面に新しい扉を開く。人生の極意を得た瞬間を語る。

第3回 「此れあるとき彼あり」--->E 0639 ノイズなし
3年の修行の後、福島へ帰郷した玄侑さんは副住職となる。しかし41歳の時、再び小説を書き始める。たった数文字の短い戒名では死者を弔う気持ちが表せない。その思いが筆を取らせた。そして3作目の小説『水の舳先』が芥川賞候補にノミネート。玄侑さんは再び作家への道を歩むこととなる。そして2001年『中陰の花』で第125回芥川賞を受賞。僧侶になったために作家になることができたという人生の不思議さを語る。

第4回 「“あはひ”に立ち、“あはひ”を描く」--->E 0738 ノイズなし
受賞後、玄侑さんは、義母や知人など、身近な人々の病や死をモチーフに執筆。作品の発表ごとに電話や手紙、寺を訪れる人々から、相談が多く持ち込まれるようになった。「あの世」と「この世」の間(あはひ)、「病気」と「元気」の間(あはひ)。悩んでいる人、苦しんでいる人と同じ間(あはひ)に立って見る。その境地から新たに見えてくる生の様相。心の救済を求めて模索する玄侑さんの心情を聞く。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK教育 25min 2008-01-11〜(2007-11-07〜の総合での再放送) --->E
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●知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 「渋澤龍彦 眼の宇宙」 四谷シモン、金子國義、細江英公、巖谷國士

翻訳家、思想家、批評家、エッセイスト、小説家。多彩な顔を持つ澁澤龍彦。今年没後20年となります。澁澤は独自の「眼識」で「異端」とされるヨーロッパ芸術や文学を紹介、日本人の美意識を変えたと言われています。澁澤龍彦の「眼の宇宙」を、生前親交のあった4人が迫ります。
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◎四谷シモン/1944年東京生まれ。人形作家。10代前半から人形をつくり始める。 60年代後半は劇団・状況劇場の舞台で女形として活躍。73年に銀座・青木画廊で第1回個展を開く。2000年には人形作家として初めて公立美術館で巡回展をおこなう。「六本木クロッシング2007:未来への脈動展」(森美術館)に天使の人形などを出展中。創作人形学校「エコール・ド・シモン」主宰。著書に『四谷シモン前編』(学研)、『人形作家』(講談社現代新書)など。

◎金子國義 1936年埼玉生まれ。画家。独学で油絵を描きはじめ、66年澁澤龍彦の注文で『O嬢の物語』の挿絵を担当。67年銀座・青木画廊で個展『花咲く乙女たち』を開き、画壇デビュー。絵画のみならず、装幀、版画、写真の作品を発表し、近年では浴衣のデザインを手がけるなど、幅広く活躍している。おもな画集に「KUNIYOSHI KANEKO OIL PAINTINGS」(メディアファクトリー)、写真集「Drink Me Eat Me」(平凡社)。

◎細江英公/1933年山形生まれ。写真家。63年三島由紀夫を被写体とした『薔薇刑』で評価を確立。舞踏家土方巽を撮った『鎌鼬』で69年度芸術選奨文部大臣賞受賞。ほかの写真集に『抱擁』『ガウディの宇宙』『ルナ・ロッサ』『死の灰―細江英公人間写真集』などがある。98年紫綬褒章受章。日本を代表する写真家の一人であり、2003年には英国王立写真協会150周年記念特別勲章を受章するなど海外でも評価が高い。

◎巖谷國士/1943年東京生まれ。フランス文学者・旅行家。東京大学文学部卒、同大学院終了。明治学院大学教授。『裸婦の中の裸婦』の連載を引き継ぐなど、澁澤龍彦にあとを託され、『澁澤龍彦全集』の編集や、今年ひらかれている「澁澤龍彦 幻想美術館」展などの監修にあたる。著書に『シュルレアリスムとは何か』『ヨーロッパの不思議な町』(筑摩書房)、『澁澤龍彦考』『澁澤龍彦の時空』(河出書房新社)、『封印された星』『澁澤龍彦 幻想美術館』(平凡社)ほか多数。


第1回 「人形」--->D 0587
人形作家・四谷シモンさんは、10代の頃、自分が人形を作る理由や、人形製作とは何か、悩んでいた。その頃、中古書店で見つけた一枚の記事の中にあったのが「人形とは動くもの。だからポーズは必要ない」という澁澤の文章だった。触発された四谷さんは、独自の世界を築いていく。澁澤本人と深い親交があった四谷シモンが、「思考を探求する者の道程に関所のよう控えている」澁澤を語る。

第2回 「エロス」--->D 0631
画家・金子國義さんは、澁澤に才能を見出されて画家となった。澁澤は金子さんにポーリーヌ・レアージュ作「O嬢の物語」の訳書の挿絵を依頼、さらに個展を勧めた事で金子さんは画壇でめざましい活躍をする事になる。澁澤は金子さんに「単なる「エロ」か「エロス」かの違いは「品格」だと語った。「エロスの解剖」「幻想の画廊」等の著作を通して、金子國義がエロティズムの視点から澁澤を語る。

第3回 「少年」--->D 0699
写真家・細江英公さんは、澁澤が翻訳したサドの「悪徳の栄え」が発禁処分を受け、表現の自由を巡って争った裁判の最中に出会った。澁澤の顔付きは係争中にも関わらず少年の様だった。その後細江さんは、澁澤の写真を数多く撮影する。海岸で花札に夢中になっている澁澤と当時の妻、矢川澄子の写真は、「これぞ渋澤龍彦」という面白いものになった。大人の世間知が尊ばれる日本で、澁澤は少年のビジョンを失うことなく成熟した数少ない人間だった。細江英公が「永遠の少年」澁澤を語る。

第4回 「旅」--->D 0774
美術評論家・巖谷國士さんは、澁澤に「俺の学生時代にそっくりだ」と言われ、晩年、病室で「あとを頼む」と言われた。全集の編纂にもあたった巖谷さんは澁澤を「ゆっくり変貌しつづける作家」と捉える。「書物の旅」から「幼年期への回帰」、そして「時空をかけめぐるファンタスティックな物語世界」。休むことなく歩き続けた澁澤の人生と作品世界を巖谷さんが「旅」になぞらえて語る。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK教育 25min 2008-01-18〜(2007-11-06〜の総合での再放送) --->D
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●知るを楽しむ この人この世界 「長寿企業は日本にあり」 野村進

「世界最古にして今も現役の会社」は日本にある!…それは、大阪の建築会社・金剛組。飛鳥時代から1400年の歴史を誇る。日本は世界に例を見ない「長寿企業」の国。創業100年以上の会社が10000社以上。200年以上でも3000社もある。中国ではわずか9社、インドでは3社しか無く、ヨーロッパでもドイツですら800社に止まっている。 ノンフィクション作家で拓殖大学教授の野村進さんは、特色ある長寿企業を21社ルポして来た。野村さんは長寿企業の「長寿」の秘訣を、物づくりの本業重視と時代に適応する柔軟な発想にあると語る。そして、長寿企業の知恵にこそ、今の時代を生き抜く手がかりがあると述べる。 番組では、今、注目を集めている「ニッポン長寿企業」の実態を、最新の姿や、歴史、社長や職人のインタビューなどを織り交ぜ、8回にわたって紹介する。
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1956年、東京都生まれ。ジャーナリスト・拓殖大学教授。上智大学外国語学部英語学科中退。78年から80年にかけてフィリピンのアテネオ・デ・マニラ大学に留学。帰国後、『フィリピン新人民軍従軍記』(晩聲社、現在は講談社+α文庫)を発表し、ノンフィクション・ライターとなる。アジア・太平洋地域、先端医療、メディア、事件、人物論などの幅広い分野で取材と執筆を続けながら、現在は拓殖大学国際学部の教授も務める。97年に『コリアン世界の旅』 (講談社+α文庫) で第28回大宅壮一ノンフィクション賞と第19回講談社ノンフィクション賞をダブル受賞。99年に『アジア 新しい物語』(文春文庫)で第11回アジア太平洋賞を受賞。ほかの主な著書に『千年、働いてきました』(角川oneテーマ21)、『救急精神病棟』 (講談社+α文庫) 、『日本領サイパン島の一万日』(岩波書店)などがある。


第1回 「老舗の技がケータイをつくった」■OK --->D 0839
今や一億台を超える携帯電話を支えるのが長寿企業の技だ。 創業122年(明治18年・1885年)の田中貴金属工業。両替商から出発したこの会社は、金の加工技術を100年以上かけて磨き上げ、純度99.99%の、国際的に最高の評価を受ける金を造り上げた。通電性の良い田中貴金属の金は、今では携帯電話の様々な部品に使われている。本業を生かしながら時代に柔軟に対応する、長寿企業の「長寿」の秘訣を、田中貴金属を例に語る。

第2回 「“虫”の戦略」■軽noiz --->D 0135
神奈川県にある天然ワックス・メーカー、セラリカNODA。創業は天保3年、1832年のロウ一筋の老舗だった。戦後、この会社は岐路に立たされる。ロウが入っている整髪料、ポマードの売り上げが激減したからだ。しかしコピーやFAXのトナーに販路を広げる事に成功した。さらに、これまで害虫とされたカイガラムシから「雪ロウ」を作り出すことに成功。カラーインクや防湿剤などに用いられている。大企業の様な「象の戦略」では無く、細かな技術で生き延びる長寿企業の「虫の戦略」をセラリカNODAから考える。

第3回 「造り酒屋のバイオテクノロジー」■OK --->D 0299
香川県綾川町にある醸造メーカー・勇心酒造(安政4・1854年創業)は、酒の原料である米を徹底的に見直す事でビジネスを拡大している。米のエキスを元に、アトピー性皮膚炎などに効果がある薬品を開発した。このヒット商品誕生の背景には、長寿企業ならではの家訓が関わっている。「不義にして富まず」。この会社は、十数年かけて開発した製品のデータを大手メーカーに奪われてしまう。しかし家訓を忠実に守り、別の商品の研究を開始した。それがこの商品の誕生に繋がった。長寿企業が生み出した日本型バイオについて、羊の毛を抜けやすくする薬を開発した銚子のヒゲタ醤油(創業・1616年)も合わせて紹介する。

第4回 「老舗企業の“本業力”」■OK --->D 0431
奈良に本社を持つ創業1902年の墨の製造メーカー・呉竹。墨の製法は創業以来変らず手作り。しかしこの会社では戦後、墨汁や筆ペンを開発、さらにはゴルフ場で役立つ融雪材も生み出した。こうした新しい商品開発を進めるかたわら、この会社では、売り上げには貢献しない墨そのものの品質改良を続けている。長寿企業に残る、常に「本業」を忘れない精神を、呉竹の歴史から考える。

第5回 「“丹精”から生まれた、ものづくり」■OK --->D 0602
創業1871年・永瀬留十郎工場。「鋳都」川口で鋤・鍬、鍋釜を造ってきた。 鋳物の歴史は5000年。いわば「ものづくりの原点」だ。村上開明堂(静岡県・創業1882年)は元々、鏡台の鏡メーカーだったが、トヨタなど自動車メーカーから発注を受け、バックミラーを製造している。共にコンピューター時代にあって、最後まで職人のカンが求められる世界だという。物作りの「丹精」から生まれる伝統と心意気を探る。

第6回 「“敗者”からの逆転劇」消/■OK --->D 0036
広島県にある創業1823年の戸田工業、焼物の染料に使われる顔料「弁柄」を 製造していた。しかし酸化鉄を焼く中で亜硫酸ガスを出す為、公害企業第一号に認定されてしまう。しかし戸田工業は、焼かないで作る新しい弁柄製造法を編み出し、そこから出る「磁性粉」をビデオやマネーカードに使い、起死回生した。公害企業という「敗者」からの長寿企業ならではの技で、復活した戸田工業に歩みを見る。合わせて長寿企業のルーツともいうべき近江商人博物館を訪ね、「三方良し」の教えなどを紹介する。

第7回 「“醗酵屋”の大発明」■OK --->D 0146
岡山の「林原」。元々、水飴屋(1883年創業)からスタートしたこの会社は、零下196度にも耐えるネムリユスリカ(蚊)から発見したトレハロースという「糖」で大ヒット。トレハロースは冷凍食品やおにぎり、ジュースや缶コーヒーなど幅広く使われている。この会社の特徴は、他社でできない事業を作り出す事。様々な異種業の人材が交流する中で、独創的な発想を生み出そうとしている。また、同族経営をすることで任期を気にせず、長期的な視点で研究が行える環境を整えている。長寿企業ならではの技術開発の方法や、同族経営がもたらすメリットを、林原から読み解く。

第8回 「老舗企業は死なず」消/■OK --->D 0403
578年、飛鳥時代に創建した金剛組。大阪・四天王寺の建立から始まった金剛組は、寺社建築の宮大工として1400年の歴史を持つ。しかし2006年、不動産業に手を出して失敗、倒産の危機に立たされた。しかし、「金剛組を潰しては大阪の恥」と、同業者の助力で会社は存続できた。最終回は金剛組の歴史を追う中で、改めて長寿企業の秘訣、現代の企業が学ぶべき極意は何かを探る。
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に、ごく軽いノイズあり>
NHK教育 25min 2007-12-03〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)
ノイズなし
NHK教育 25min 2008-03-03〜(2007-12-03〜の総合での再放送)
Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)

>NHK SPECIAL 「長寿企業大国にっぽん」 2007-06-18 もあり(--->E )





●知るを楽しむ 歴史に好奇心 「映画王国・京都 カツドウ屋の100年」 中島貞夫

日本映画の歴史は京都に始まる。日本最初の映画監督・マキノ省三が本格的に劇映画の制作に乗り出してから、ちょうど100年。マキノにはじまる映画産業の歴史は、そのまま京都の近代史であり、100年の光と影を如実に映し出す鏡でもある。映画という夢の装置は、激動の時代をどのように生き延び、人々の心をどのように駆り立ててきたのか。そして、カツドウ屋たちは何を求めて奮闘してきたのか。 このシリーズでは、美術や衣装など京都の伝統や文化とつながりの深い映画職人にも光を当てながら、映画産業とカツドウ屋の歴史を探っていく。
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1934年、千葉県生まれ。映画監督・脚本家・大阪芸術大学大学院客員教授。東京大学文学部卒。在学中、ギリシア悲劇研究会を設立。1959年、東映に入社した際、「ギリシア悲劇は時代劇だ」との理由で、東映京都に配属となる。『くノ一忍法』で監督デビュー。以後、チンピラたちの青春群像を描く『893愚連隊』、幕末から近代にかけての暗殺事件を描く『日本暗殺秘録』などの話題作を製作。ほかに『木枯し紋次郎関わりござんせん』『真田幸村の謀略』『序の舞』など60作以上の作品でメガホンをとる。京都市芸術文化振興計画委員会委員、京都映画祭総合プロデューサーを務めるなど、京都における映画文化の振興にも取り組んでいる。


第1回 「日本映画の父マキノ」■ごくnoiz --->F0102
京都をハリウッドに改造しようとした偉大なる映画人・マキノ省三。撮影所を次々と建設、常に時代の先を読み、その足跡がそのまま日本映画史となっていく。京都の伝統や文化遺産を活用するとともに、新しい映画技術を積極的に導入。たえず映画を革新しようと試みた。目玉の松ちゃん、阪妻、千恵蔵、嵐寛、など大スターを次々と発掘したのもマキノ。京都をアジア最大の映画王国に育て上げた。マキノの軌跡をたどりながら、日本映画の原点を探る。

第2回 「映画を変えた天才たち」■OK --->F0322
マキノの活躍で急成長した京都の映画産業。昭和に入ると、時代劇の大スターが次々とマキノから離れ、京都は百花繚乱の独立プロ時代を迎える。独立プロの功績は、無名に近い若者を登用し、活躍のチャンスを与えたこと。ここから映画を革新していく新しい才能が育っていく。稲垣浩、伊丹万作、そして山中貞雄。とくに山中はアメリカ映画の語法を大胆に取り入れ、東の小津(安二郎)と並ぶ日本映画の若き旗手として期待された天才。英雄豪傑でなくアウトローや庶民を主人公とし、リアルで面白い新鮮な人間ドラマを創造した。だが、山中は召集され、中国大陸で戦死。その後、軍部による映画への締めつけが強まり、カツドウ屋は冬の時代に入る。

第3回 「満州から京都へ」■OK --->F0457
戦時体制が強化されると撮影所は整理統合され、国策映画以外の映画づくりは窒息していく。カツドウ屋の多くが失業。映画への夢をあきらめきれない映画人たちは満州へ渡る。だが日本の敗戦で全てが四散。満州映画協会で甘粕理事長の片腕となっていたマキノ省三の息子、マキノ光男は京都に帰り、戦後、満州映画界の残党を大胆に吸収、新会社を作って映画界に新風を吹き込もうと試みた。荒海に漕ぎ出した新会社は、GHQによる「時代劇禁止令」や、責権者の群れと戦いながら異例の成長をとげ、日本映画界のエネルギッシュな主役となる。すなわち「東映」である。マキノ光男を中心とした京都東映人脈にズームイン。戦後映画史の舞台裏を探る。

第4回 「黄金時代の光と影」■OK --->F0610
1950年代、日本映画は不死鳥のように甦り、黄金時代を迎える。突破口となったのは、国際映画祭での華々しい受賞ラッシュ。「羅生門」(1951年ベネチア映画祭グランプリ)、「雨月物語」(1953年ベネチア映画祭最優秀外国語映画賞)、「地獄門」(1954年カンヌ映画祭グランプリ)。いずれも京都の撮影所で作られた作品である。世界を驚嘆させた傑作群を支えたのは、巨匠たちの演出力ばかりではない。京都に生きてきたカツドウ屋たちの心意気と高い技術力、そして宮大工1000年の伝統を受け継いだ映画美術が大きな力となった。美術や衣装を中心に、黄金時代の映画界を力強く支えた京都の映画職人たちの底力にあらためて光を当てる。
(text from NHK site)

<回により受信障害で映像全体に軽いノイズあり>
NHK教育 25min 2007-12-06〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->F
3回目は2008-02-27に総合で再放送したもの









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