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●知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 「永井荷風 “お一人さま”の天才」

一人暮らしを貫いた永井荷風、彼が持っていた“こだわり”とは何なのか?「お一人さま」が流行り、ひとりの生き方が注目されている今、荷風の人生哲学を解き明かす。
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◎坪内祐三 1958年東京生まれ。文芸評論家。早稲田大学大学院修士課程修了。『東京人』の編集者を経て、書評、コラム、評論など執筆活動を始める。『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(マガジンハウス)で第17回講談社エッセイ賞受賞。ほかの著書に『ストリートワイズ』(晶文社)、『一九七二』(文春文庫)、『私の体を通り過ぎていった雑誌たち』『靖国』(新潮文庫)、『四百字十一枚』(みすず書房)、『アメリカ』(扶桑社)、編著に『明治の文学』全25巻(筑摩書房)など多数。

◎半藤一利 1930年東京生まれ。作家。53年東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。「週刊文春」「文藝春秋」編集長、専務取締役等を歴任。退社後、文筆業に専念する。『漱石先生ぞな、もし』で新田次郎文学賞、『ノモンハンの夏』で山本七平賞、『昭和史』で毎日出版文化賞特別賞を受賞。『日本のいちばん長い日』『永井荷風の昭和』『日本国憲法の二〇〇日』(文春文庫)、『聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎』(PHP文庫)、『荷風さんの戦後』(筑摩書房)など著書多数。

◎坂崎重盛 1942年東京生まれ。エッセイスト。千葉大学造園学科卒。横浜市計画局で造園家として公園設計などを行う。その後編集者、ライターに。町歩きをこよなく愛し、日本路地・横丁学会会長でもある。著書に『TOKYO 老舗・古町・お忍び散歩』(朝日文庫)、『一葉からはじめる東京町歩き』(実業之日本社)、『東京下町おもかげ散歩』(グラフ社)、『東京読書―少々造園的心情による』(晶文社)、『「秘めごと」礼賛』(文春新書)などがある。

◎持田叙子 1959年東京生まれ。近代文学研究者。慶應義塾大学大学院修士課程、國學院大學大学院博士課程単位修了。現在、青山学院女子短期大学・國學院大學兼任講師。1995年より2000年まで『折口信夫全集』(中央公論新社)の編集に携わる。著書『朝寝の荷風』(人文書院)では、女性の視点で作家論を展開し、新風を吹きこんだ。2008年2月〜4月に世田谷文学館で開催された「永井荷風のシングル・シンプルライフ」展の監修にもあたった。


第1回 「シングルこそのグルメ道」 語り手: 坪内祐三 --->D 0361
一人暮らしを貫いた荷風は、食に大変な“こだわり”をもっていた。代表作「断腸亭日乗」にも、食にまつわる様々な記述が残されている。例えば、大正八年正月元旦の項では、「九時頃目覚めて床の内にて一碗のショコラを啜り、一片のクロワサンを食し、昨夜読残しの疑雨集を読む。…」と。元日に、クロワサンとショコラ。いかにも荷風である。一人暮らしだからこそ持っていた荷風の“こだわり”とは?作家の坪内祐三さんが解き明かす。

第2回 「日本からの亡命者」 語り手: 半藤一利 --->D 0322
小説を発表し、荷風が作家として脂が乗っていたころ、日本は挙国一致を掲げ、太平洋戦争へと突き進んでいた。そんな風潮の中、荷風は冷めた眼で『一億総軍国主義』を批評し、一人平然と普段と変わらぬ日常を貫き通した。その姿を作家の半藤一利さんは“沸騰する鍋の底の石”と表現している。まわりの情けなくも浅ましい姿に、崩れたりせず、デンとして冷たい視線を送っているという意味だ。一人孤独な中、独立心を持ち時代を生き抜いた永井荷風の思いを「歴史探偵」の作家・半藤一利さんが見つめる。

第3回 「生涯の遊歩人」 語り手: 坂崎重盛 --->D 0318
一人暮らしで、わずらわしい人付き合いを好まなかった荷風の終生の楽しみが、散歩をすること。銀座、新橋、浅草…『断腸亭日乗』を読むと、毎日のように東京の下町散策を楽しんでいた荷風の姿が見えてくる。そして、足しげく訪れた町は小説の舞台となり、その風景や風俗はエッセイにつづられている。まさに、散歩は荷風にとって、人生の伴侶であり、文芸の源であった。そんな荷風の“散歩道”を町歩きの達人・エッセイストの坂崎重盛さんが案内する。

第4回 「覚悟あるシングル・ライフ」 語り手: 持田叙子 --->D 0104
荷風が好んで描いたのが芸妓、女給、教師などの職を持ち、自立をしている女性たちだ。楽ではない一人暮らしを、自らの力で切り開く女性たちの姿は、世間に流されず、孤高を貫く荷風の生き方にも通じるものがある。歌人でもあった荷風は、時に寂寥感と孤独感のあふれる作品も残している。一人で生きることには、それなりの覚悟も必要なのである。荷風がたどり着いた個性的なシングルライフとは?荷風の人生の哲学に近代文学研究者の持田叙子さんが迫ります。
(text from NHK site)

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NHK教育 25min 2008-08-05〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->全D

> 作家の半藤一利さんが死去 昭和史研究で著書多数、90歳 共同通信 2021年1月13日配信
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「日本のいちばん長い日」などの著作で知られる作家の半藤一利(はんどう・かずとし)さんが12日午後、東京都世田谷区の自宅で倒れているのが見つかり、死亡が確認された。関係者への取材で分かった。90歳。東京都出身。東京大を卒業して文芸春秋に入社。「週刊文春」「文芸春秋」編集長を歴任、1994年から著述に専念した。編集者として坂口安吾らを担当し、歴史研究に開眼。終戦時の軍部関係者らを集めた座談会「日本のいちばん長い日」は、雑誌「文芸春秋」の記事となった後に単行本化され、映画化された。憲法9条と平和の大切さを次世代に説き続け、2015年に菊池寛賞を受けた。






●知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 「伊丹十三 カメレオン男のトリック」

映画監督、俳優、エッセイスト、TV制作、デザイナー…知性と遊び心を武器に、独創性あふれる表現を繰り広げた「マルチの男」、 伊丹十三(1933〜1997)。豊富な文章や映像資料から、その魅力に迫る。
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◎村松友視 1940年、東京都生まれ。作家。慶應義塾大学卒業。中央公論社勤務を経て、作家となる。中公時代には野坂昭如、吉行淳之介などを担当、また既成文壇以外の書き手を発掘する名編集者として知られた。82年、『時代屋の女房』で直木賞受賞。風俗小説のほか、かつて交流のあった作家を題材とした著作も多い。著書『私、プロレスの味方です』『鎌倉のおばさん』『アブサン物語』『俵屋の不思議』『幸田文のマッチ箱』『淳之介流 やわらかい約束』など多数。

◎浅井愼平 1937年、愛知県生まれ。写真家。早稲田大学中退。1966年、ビートルズ来日時に密着取材した写真集『ビートルズ東京 100時間のロマン』で脚光を浴びる。三和酒類の焼酎「いいちこ」の広告写真も有名。海、都市、人などを洗練された目線でとらえ続けている。主な写真集『Winds collection』『銀河鉄道「水族館」駅』『HOBO』『風の中の島々』、著書『セントラルアパート物語』など。千葉県安房郡に個人写真美術館「海岸美術館」がある。

◎南伸坊 1947年、東京都生まれ。イラストレーター。私塾「美学校」赤瀬川教場卒業。漫画雑誌『ガロ』編集長を経てフリーとなる。オニギリ型の自画像で有名。赤瀬川原平氏らとともに行った路上観察など、つねに既成の美術やアートの世界を別の視点から眺める。イラスト+エッセイという意味で、イラストライターとも称している。主な著書『モンガイカンの美術館』『笑う写真』『大人の科学』『歴史上の本人』『本人の人々』『健康の味』『狸の夫婦』など。

◎白井佳夫 1932年、神奈川県生まれ。映画評論家。早稲田大学卒業。映画雑誌『キネマ旬報』編集長を経て、映画評論家となる。日本政府とGHQから二重検閲を受けた伊丹万作の『無法松の一生』のフィルム復元でも知られる。映画と社会の関係にかかわる活動を意欲的に行っている。著書『白井佳夫の映画の本』『二十四時間の映画』『日本映画黄金伝説』『日本映画のほんとうの面白さをご存知ですか?』『黒白映像 日本映画礼讃』など。


第1回 「ちょっぴりイジワルな知能犯」 語り手: 村松友視 --->D 0114
初回は、「ちょっと斜め」の目線が光る伊丹エッセイの魅力に迫る。 入り口は、1960年代を代表する珠玉のエッセイと語り継がれる伊丹の処女作「ヨーロッパ退屈日記」。伊丹は、巨匠ニコラス・レイの大作「北京の55日」への出演のためヨーロッパに滞在。帰国した伊丹は、安保闘争に始まる熱い時代の空気をよそに、スノッブな目線でヨーロッパの見聞録を発表。ファッション、食、車といった身近な話題を、確かな見識で斬るという、独特のスタイルで、「本物」に飢えた若者たちの心をさらった。鋭い観察眼が冴える伊丹エッセイの魅力を、編集者として公私ともに付き合いの深かった作家・村松友視氏が語る。

第2回 「凝り性の常習犯」 語り手: 浅井愼平 --->D 0151
凝り性の趣味人でもあった伊丹は、高度経済成長真っ只中で、働く機械と化した日本のサラリーマン社会に、不思議な魅力を放った。優雅にヴァイオリンを習い、厨房で料理の腕をふるい、子育てに没頭する姿を自ら演出し、オートバイや車にこだわり、果ては、精神分析で「自分の心」に熱中した。日本の男たちが軽んじてきた「遊び」や「趣味」、そして「生活の楽しさ」に目を向けさせ、日本社会のターニングポイントを作り出した。友人の写真家、浅井愼平氏が、そんな伊丹の厄介なほどの凝り性ぶりと、奥にある伊丹の陰影に富んだ素顔に迫る。

第3回 「テレビをひっくり返した実行犯」 語り手: 南伸坊 --->D 0186
常識を突き破る伊丹の表現に加速度をつけたのが、「テレビ」との出会いである。70年代、番組作りの自由さに魅了された伊丹は、出演者の枠を超え、企画、構成にまで参加。歴史ドキュメンタリー「天皇の世紀」では、伊丹自身が侍姿でパリの凱旋門を歩き、過去と現在を交差させるスタイルを築き上げ、現代アートを取り上げた美術番組「アート・レポート」では、アンディ・ウォーホルの作品を質屋に売りに行き、渋る質屋に伊丹があれこれと説明し、最後に値段をつけさせるという斬新な演出で、美術番組に一石を投じた。伊丹の口ぐせ、「退屈な日常に驚きを!」―南伸坊氏が、若い頃、虜になった、伊丹のテレビ番組の魅力を語る。

第4回 「日本映画を挑発した確信犯」 語り手: 白井佳夫 --->D 0289
51歳にして、マルチな才能を全て注ぎ込み、初監督映画「お葬式」を発表する伊丹。曰く、「映画は僕の全人生の煮こごりのようなもの―」鋭い観察眼で「日本人」を斬る、「伊丹映画」の誕生だ。 葬式、ラーメン、税金…日常を深く観察し、そこに人間の滑稽さや美しさ、醜さといったドラマを見出す伊丹。一方で、宗教、暴力団、食品偽装といったタブーにも果敢に切り込むスタイルは、ついに自身への襲撃事件にまで発展していく。 カメレオンの様に変貌し続けた男、伊丹の集大成である映画監督時代を、処女作「お葬式」以来伊丹を見つめ、その父・万作の研究者でもある映画評論家の白井佳夫氏が振り返る。
(text from NHK site)

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NHK教育 25min 2008-09-02〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->全D





●知るを楽しむ 人生の歩き方 「やなせたかし 正義の味方はカッコ悪い!」

元祖アンパンマンから現在のアンパンマンに至る変遷や、やなせたかしさんの戦争体験など、アンパンマン誕生秘話をお伝えする。
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1919年、高知県生まれ。漫画家。東京高等工芸学校(現・千葉大工学部)卒。漫画家を目指しながらデザイナーとして仕事を始め、その後、舞台美術、作詞、放送作家など、さまざまな仕事をする。73年、絵本『あんぱんまん』を刊行。同年、雑誌「詩とメルヘン」の責任編集を担当。88年、アンパンマンのテレビアニメ化で人気が爆発し、現在に至る。本職の漫画家、絵本作家のほか、詩人、イラストレーター、舞台演出、舞台美術などさまざまの顔を持つ。アンパンマンの主題歌や挿入歌の作詞・作曲も手がけている。日本漫画家協会理事長。


第1回 「アンパンマン誕生!」--->C 0811 ノイズなし
アンパンマンの原作者として知られる漫画家やなせたかしさん(89歳)。やなせさんが、絵本「あんぱんまん」を発表したのは1973年、54歳の時。発表当時は、アンパンマンが困っている人に自分の顔を食べさせる、というストーリーが、「残酷だ」、「くだらない」と不評だった。しかしその後、子どもたちの間で人気に火がつき、アンパンマンは世代を超えたヒーローとなる。アンパンマン誕生の背景には、やなせさんの戦争体験があるという。格好悪い元祖アンパンマンから現在のアンパンマンに至る変遷や、やなせさんの戦争体験など、アンパンマン誕生秘話をお伝えする。

第2回 「夢を託されて」--->C 0797 ノイズなし
漫画家やなせたかしさんの父、清さんは新聞記者の仕事柄、留守がちだったが、やなせさんはその生き方に大きな影響を受けたという。しかし清さんは赴任先の中国で急死。やなせさんは幼くして、父親を失ってしまう。さらに戦争では、弟も亡くしてしまう。今、やなせさんは、父と弟から、才能や運、夢を託されたと感じている。絵や詩が好きで、本を書くのが夢だった父。やなせさんは今も、父や弟への思いを胸に生きているという。

第3回 「本職は漫画家!?」--->C 0878 ノイズなし
やなせたかしさんが、人気漫画家となったのは、60歳を過ぎてからのこと。それまでは代表作に恵まれず、様々な仕事を体験した。34歳の時、妻・暢さんに背中をおされ、漫画家として独立するも、漫画の依頼はさっぱり。しかし、幸か不幸か、何をやっても器用にこなすやなせさんには、舞台美術、作詞、放送作家など、様々な仕事の依頼が舞い込み作詞を担当した「手のひらを太陽に」のヒットなどで注目された。そこで、やなせさんはプロでありながら、「百万円懸賞マンガ」への応募という“賭け”に出た。天才漫画家・手塚治虫さんとの仕事など、人気漫画家に至るまでの紆余曲折をたどる。

第4回 「僕は“オイドル”」--->C 0880 ノイズなし
「アンパンマン」でおなじみ、漫画家やなせたかしさんのモットーは、何事もまずは自分が楽しみ、まわりの人を楽しませること。77歳の喜寿のお祝いでは、つまらないパーティーにはしたくないと、自ら演出を担当し、なんと架空の結婚式を行い、お客さんを大喜びさせたこともある。60歳を過ぎて人気漫画家となったやなせさんにとって、90歳になろうとする今こそが青春。一日駅長を務めたり、作詞作曲した曲を自ら歌ったり、町おこしのためマスコットキャラクターをデザインしたり、お声がかかれば、何にでもチャレンジ。その活躍ぶりは、アイドルならぬ“オイドル”だ。
(text from NHK site)

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●知るを楽しむ 歴史に好奇心 「あ〜極楽の銭湯史」 町田忍

数百年の昔から、高温多湿なこの国では、毎日、湯煙に裸をさらして汗を流し、心と体のリフレッシュをはかることを、ささやかな生甲斐としてきた。そうした中育まれてきたのが、日本独特の銭湯文化だ。そこには、その時代時代の美意識や庶民の「極楽観」が集約されている。しかし今、この“世界庶民文化遺産”とでもいうべき銭湯文化が衰退しつつある。正史の影で脈々と受け継がれてきたその歴史を、“浮世の極楽”への思いをいつくしみながら、掘り起こしてゆく。
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1950年、東京都生まれ。庶民文化研究家。和光大学人文学部芸術学科卒業。学生時代ヒッピーに憧れてヨーロッパを旅する。帰国後、日本文化に興味を抱き博物館学芸員資格を取得。警視庁警察官を経て、庶民文化において見落とされがちな風俗意匠の研究のため「庶民文化研究所」を設立。特に銭湯研究に関しては第一人者。約30年をかけて全国の銭湯約3000軒を訪ねて取材。東京都公衆浴場対策審議会委員を務めた。主な著書に『写真集 銭湯遺産』(戎光祥出版)『銭湯の謎』(扶桑社)『銭湯へ行こう』(TOTO出版)『納豆大全!』(小学館)『蚊遣り豚の謎』(新潮社)『昭和レトロ博物館』(角川書店)『東京ディープ散歩』(アスペクト)などがある。


第1回 「銭湯前史 それは仏教から始まった」
銭湯の起源をたどると、京都にそのヒントがある。大原にほど近い八瀬には、平安の様式を模した浴室が復元されている。石釜に松の枝を燻した蒸気を充満させたサウナ風呂。伝承では、壬申の乱(672)の際に、天武天皇が背の矢の傷を癒したところ、「矢背」が転じて八瀬となったといわれている。そして、今日の銭湯の起源と目されるのが寺院による「施浴」。東大寺、法華寺などの寺院が、当初は仏教修行の装置として、転じて、信者の病気の治療と布教を目的として、風呂を提供したのだ。第1回は、銭湯の起源を探る。

第2回 「銭湯誕生 お江戸に咲いた浮世風呂」
江戸時代、全国から労働者が集まった江戸の街には、次々と銭湯が生まれ、最盛期には5百軒以上を数えるようになった。内湯に入れる武家や裕福な商家の家族以外は全て銭湯の世話になった。洗い場では湯男が桶で貴重な湯を配り、時に湯女が背中を流す。肝心の湯船は湯屋にそびえる豪奢な「ざくろ口」の奥の小部屋。暗闇の中に湯気が立ち込め、半身浴ができる程度の小さな浴槽は混浴だった。二階は庶民の社交場。武士が刀を預けて囲碁将棋をさし、庶民は歌舞伎役者の品定めから子供の教育問題まで、四方山話に花を咲かせた。第2回は、江戸時代に花開いた銭湯文化について見ていく。

第3回 「銭湯維新 文明開化のお湯が沸く」
江戸時代末期。黒船で来航したペリー総督は驚いた。「これだけ進んだ文化を持つ日本人が混浴をしている!」明治新政府は、早速、男女混浴の禁令をだし、まずは外国人居留地周辺、そして大都市から地方へと徐々におふれが広がった。それに伴い、ざくろ口も暗闇の湯船も改築指導となり、多くの銭湯がつぶれていった。そして登場したのが、ざくろ口が取り払われた明るい湯船に、なみなみと湯が満たされた「改良風呂」。全身浴がはじめて可能になり、今の銭湯の原型が完成した。第3回は、明治維新で西洋化の波が押し寄せる中、銭湯がどう変わっていったのかを見ていく。

第4回 「銭湯完成 極楽銭湯よ永遠(とわ)に」
お馴染みの富士山のペンキ絵や、まるで寺院のような豪華な建築様式の銭湯が生まれたのが関東大震災を前後とした時期。富士山のペンキ絵は、「子どもが喜んで風呂に入るように」という目的で、静岡のペンキ絵職人が描いたのが始まり。末広がりで縁起もよいと評判になり、あちこちで描かれるようになった。また、寺院のような豪華建築「宮造り」は、関東大震災復興期に人気を集めたのが発祥だ。立派な瓦葺の構えの門に高い天井、凝った欄間。東京都民のささやかな贅沢が、ここかしこにあしらわれて極楽空間は様式美を極めた。黄色いプラスチックの湯桶、体重計や衣装ザル、湯口の観音様に湯上りのコーヒー牛乳…。銭湯はここで本当の極楽様式を完成させた。第4回は、昭和になって完成した、現在の様式の銭湯の魅力を味わう。
(text from NHK site)

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◎きく姫と破局の花緑“追っかけ”女性と結婚へ

12月19日7時1分配信 スポニチアネックス 2009

 落語家の柳家花緑(かろく、38)=本名小林九(きゅう)=が年上のOL女性(42)と結婚を前提に真剣交際をしていることが18日分かった。母の喜美子さん(66)にも紹介済みで、近く同居を始めて来年夏にもゴールインの予定。花緑は5月に女性落語家の林家きく姫(39)との8年余りの同棲生活を解消しており、その後に運命の出会いとなった。

 花緑はスポニチ本紙の取材にきく姫との別れから切り出した。最終的な話し合いは人間国宝だった祖父・五代目柳家小さん師の命日(5月16日)の前夜だった。「“お互い仕事の道を優先させて頑張ろう”ということで話し合い、別離を決意しました」と明かした。翌日には五代目が眠る世田谷区の乗泉寺に一門で墓参。その際にきく姫との別れも報告してきたという。

 新恋人との交際がタートしたのは8月。一部で先に破局が報道されたことに困惑しており「混同され誤解されたら、きく姫さんにも女性にも申し訳ないし、自分の本意ではない」と複雑な胸中を語った。

 花緑によれば、新恋人は東京都出身。気配りの行き届いた優しい女性で、2年以上前から花緑の“追っかけ”をしていた熱烈なファン。7月に女性から100人規模の落語会への出演を懇願され、それに応えたことから親密になり、交際に発展した。「だから、僕の中ではいろいろなことが決着していてのことなんです。矛盾はないんですが、先に“別れ”が報道されてしまって誤解されるのが凄くイヤなんです」と重ねた。

 23日から26日まで新宿・紀伊国屋ホールで独演会を開催、新ネタ5席を連夜披露する花緑。そのため稽古の真っ最中でもあり、また相手の女性が普通のOLさんとあって「プライベートなことでもありますし、結婚が決まるまで一切取材は遠慮させていただきたい。温かく見守っていただけますように」と締めくくった。

 ◆柳家 花緑(やなぎや・かろく)1971年(昭46)8月2日、東京都生まれの38歳。87年に母方の祖父である五代目柳家小さんに入門。94年に真打ちに昇進。春風亭小朝らと「六人の会」でも活躍中。NHK教育テレビ「にほんごであそぼ」では子供たちの間に「寿限無」を広めた。





●知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 「阿久悠 時を刻んだ詞(ことば)」

「感動する話は長い、短い、ではない。3分の歌も2時間の映画も感動の密度は同じである。」作詞家・阿久悠(1937-2007)はこの言葉を胸に秘め、数々のヒット曲をこの世に送り出した希代のヒットメーカーだった。生前の阿久悠は作詞に当たるとき、常に自らが編んだ15条に渡る<作詞憲法>を創作の基盤にしたという。その第一条にはこうある。 「美空ひばりによって完成したと思える流行歌の本道と、違う道はないのだろうか―」 美空ひばりとは違った世界を追い求めた一人の作詞家・阿久悠。番組では阿久が遺した作品から浮かび上がる豊潤な日本語の群れを四人が読み解いていく。

◎秋元康 作詞家。高校時代から放送作家として頭角を現し、「ザ・ベストテン」など数々の番組構成を手がける。その後、作詞家として、美空ひばり『川の流れのように』をはじめ、中島美嘉『WILL』、EXILE『EXIT』、ジェロ『海雪』ほか、数多くのヒット曲を生む。1991年には、松坂慶子・緒形拳主演『グッバイ・ママ』で映画監督デビュー。企画・原作の映画に『着信アリ』シリーズ、『伝染歌』など。2005年4月、京都造形芸術大学教授就任。07年4月、同大学副学長就任。TV番組の企画構成、ラジオのパーソナリティー、新聞・雑誌の連載など、多岐にわたり活躍中。アイドルユニット“AKB48”、そして本年10月より活動を開始する“SKE48”の総合プロデューサーも務める。著書に『一生を託せる「価値ある男」の見極め方』(講談社+α文庫)、『「選ばれる女性」には理由がある』(青春出版社)、『おじさん通信簿』(角川書店)ほか多数。07年秋に映画化された著書の小説『象の背中』(扶桑社)は、アニメ版(ポニーキャニオン)と絵本版(光文社)も制作され、大きな反響を呼んでいる。

◎篠田正浩 1931年、岐阜県生まれ。映画監督。早稲田大学文学部を卒業後、松竹撮影所に入社。1960年、『恋の片道切符』で監督デビュー。大島渚、吉田喜重らと共に、松竹ヌーベル・バーグとして前衛的作品を続けて発表する。1967年、妻で女優の岩下志麻と独立プロ「表現社」を設立、自主製作を始める。『心中天網島』『瀬戸内少年野球団』『鑓の権三』『少年時代』『写楽』『梟の城』などで国内外の受賞多数。2003年『スパイ・ゾルゲ』を最後に監督を引退。現在、早稲田大学特命教授を務める。著書に『日本語の語法で撮りたい』(NHKブックス)、『私が生きたふたつの「日本」』(五月書房)などがある。

◎小西良太郎 1936年、東京都生まれ。音楽プロデューサー、音楽評論家。58年、スポーツニッポン新聞社に入社し、音楽担当記者を務めたほか、編集局長、常務取締役などを歴任、在任中から音楽プロデューサー、評論家としても活動し、2000年退社。主なプロデュース作品として、八代亜紀の『舟唄』『雨の慕情』、坂本冬美の『夜桜お七』、五木ひろしの『傘ん中』などがある。93年から99年まで日本レコード大賞審査委員長、現在は制定委員を務める。日本レコード協会レコード倫理審査会学識経験者委員。また俳優としても映画、舞台、テレビなどに出演している。主な著書に『女たちの流行歌』(扶桑社)、『美空ひばり「涙の河」を越えて』(光文社)などがある。

◎船村徹 1932年、栃木県生まれ。作曲家。東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)ピアノ科卒業。大学在学中の49年、作曲家として活動を開始し、55年には本格的デビュー作『別れの一本杉』(春日八郎)がヒット。以来、日本の演歌界の第一人者として活躍。これまで世に送り出した曲は約5000曲にのぼる。「演歌巡礼」と称して全国各地の公民館など訪問し、自作曲をギターの弾き語りで演奏する旅を今でも続けている。現在、日本音楽著作権協会(JASRAC)会長、横綱審議委員会委員。主な作品に『別れの一本杉』(春日八郎)、『王将』(村田英雄)、『風雪ながれ旅』(北島三郎)、『兄弟船』(鳥羽一郎)、『矢切の渡し』(細川たかし他)、『みだれ髪』(美空ひばり)など。


第1回 「3分間の夢」 語り手: 秋元康 --->C 0043 ノイズなし
阿久悠と同様に、テレビ構成作家を出発点にする秋元康は、阿久に作詞家とは別のプロデューサーとしての姿を見つける。阿久悠は「スター誕生」で数多くの才能を見いだし、秋元も「おにゃんこクラブ」ブームを生み出した。 秋元は語る。「阿久さんのヒット曲は、テレビを非常に意識されていて詞を読むと映像が浮かんでくる。歌番組で美術セットが組みやすい歌、それが流行歌の条件だという事を学んだ」 作詞を山登りに例える秋元は、「あなたが好きだ」という山の頂上を目指すときに、阿久の詞はその山登りのルートが、多彩かつ独特であると指摘する。 第一回は、秋元康が流行の発信地「アキバ(秋葉原)」の街で、移ろいやすい大衆と格闘し続けた阿久のクリエーター像に迫る。

第2回 「八月の人」 語り手: 篠田正浩 --->C 0434 ノイズなし
作詞家阿久悠のふるさと淡路島。この地に立つ阿久の遺した石碑に、こんな一文が刻まれている。―あの時、空は青かった― 「あの時」とは、昭和20年8月15日のことである。阿久悠の自伝的小説「瀬戸内少年野球団」では、終戦を8歳で迎えた少年の眼から見た戦後が描かれる。そこには、アメリカ・野球・音楽・映画といった戦後文化の申し子たちの生き生きとした姿を見出すことができる。「瀬戸内少年野球団」を映画化し、没した後も追悼本刊行の責任編集・発行人となった映画監督篠田正浩は、阿久の幼少期から青春期に吹いた「時代の風」が、作詞家阿久悠の多大な影響を与えたと指摘する。 軍国主義から民主主義へと転換する時代に淡路島で育った阿久。第二回は、篠田正浩が今年の終戦記念の日に淡路島を訪ね、稀代の作詞家の「青春」を辿る。

第3回 「まじめに殉ず」 語り手: 小西良太郎 --->C 0162 ノイズなし
元スポーツニッポン記者で、阿久悠の生涯の朋であった小西良太郎は、阿久の人生のさまざまな転機の場に立ち会っている。ヒット曲は出るもののなかなかレコード大賞という栄誉が取れずに悩む日々。初めて賞を取り二人赤坂のホテルのバーで祝杯をあげた時の表情。いつも締め切りを破ることなく、達筆な筆文字で書きあげる原稿。 仕事を離れた阿久悠との40余年の交流の中で、小西はこう語る。「作詞・文学・エッセイ、どれも阿久ちゃんはまじめすぎるくらいまじめに取り組んだ。あいつはいつも登り続ける登坂者、そして登った末に殉じていった」 第三回は自らのまじめさに殉じていった朋へのオマージュを小西が語り尽くす。

第4回 「競い合う詩と調べ」 語り手: 船村徹 --->C 0166 ノイズなし
美空ひばりの代表作品「みだれ髪」を作曲した船村徹は、常に演歌の世界で日本語そして日本人の心の調べを奏でてきた。自らが課した「作詞家憲法」の第1条にあるように阿久にとって船村は、常に大きな壁であり続け、また船村にとっても阿久は気になる作詞家として追いかけてくる存在だった。二人が初めて仕事をしたのは阿久の最晩年、時代は昭和から平成に移り、また音楽も演歌や歌謡曲からJポップへと主流が代わっていた時代。 すでに作詞家憲法第一条の「美空ひばり」は没していた。 船村はいう。「阿久ちゃんはお嬢にコンプレックスあったんだよなぁ。だからひばりにかかわる人すべてと知らぬ間に壁を作ってしまうんだ」 歌唄を通して昭和の日本人の心を見つめた二人、今回の取材の中で、阿久悠が美空ひばりのために書いた詩が発見され、その詩に新たに船村が作曲を試みる。 阿久が没し一年余、新たに甦る阿久悠の言葉の調べ。最終回は作曲家から見た作詞家論。
(text from NHK site)

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NHK教育 25min 2008-11-04〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->C





●知るを楽しむ 人生の歩き方 「横尾忠則 “少年”の心得」

常に時代の第一線で活躍してきた画家・横尾忠則さん(72)が少年時代、青年時代の大切な人達との出会いと別れ、アメリカでの衝撃、そして「隠居」宣言、半生を語る。
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1936年、兵庫県西脇生まれ。県立西脇高校卒。60年代初頭にデビューして以来、グラフィック・デザイナー、イラストレーターとして時代をリードしてきた。72年にニューヨーク近代美術館での個展開催以降、活動は世界に広がり、2006年パリのカルティエ現在美術財団での個展開催で絵画でも国際的に高い評価を得た。国内でも毎年のように大規模な個展を開催しており、古稀を迎え“隠居”を宣言したが、その精力的な活動は時代に大きな影響を与え続けている。近著にエッセイ『人工庭園』『隠居宣言』、小説『ぶるうらんど』では2008年10月第36回泉鏡花文学賞を受賞。

第1回 「他人まかせの巻」--->E 0962 ノイズなし
一人息子の横尾さんは溺愛されて育った。2歳で「帽子をかぶった父親」の絵を描き、周囲を驚かせ、5歳の時には、持っていた絵本を片っ端から模写した。「模写」が横尾さんの美術人生のスタートだった。一人っ子で甘やかされたのが災いしたのか、若い頃の横尾さんは何をやるにも他人まかせで優柔不断。高卒後の進路も、まわりの意見でころころ変わった。美術大学の受験も前日やめてしまう。

第2回 「死を考えるの巻」--->E 0796 ノイズなし
高校を卒業した横尾さんは、新聞社にデザイナーとして入社。入社後、横尾さんは将来、妻となる女性と出会う。他人まかせで優柔不断だったが、このときばかりは果敢にプロポーズし結婚した。この頃から横尾さんの生き方が徐々に変わっていく。その後、横尾さんは絵の仕事に本格的に取り組むため、東京に進出する。大ファンだった三島由紀夫に会うのもこの頃だ。二人は意気投合、交流は三島の死まで続いた。

第3回 「自由を求めての巻」--->E 0084 ノイズなし
1960年代、横尾さんは若者文化の象徴的存在として、グラフィックデザインだけでなく、エッセイの執筆、テレビ出演、雑誌の取材など、ジャンルを超えて活躍していた。「このままでは自分を見失ってしまう−」横尾さんは、アメリカ・ニューヨークへ脱出する。そこで出会ったのが、サイケデリック・ムーブメントやピカソの作品だった。それらは、横尾さんにとって生き方そのものが変わってしまうほどの衝撃だった。

第4回 「老いて少年への巻」--->E 0087 ノイズなし
2006年の誕生日に古稀を迎えた横尾さんは、「隠居」を宣言、今後は、グラフィックデザインの仕事からは足を洗い、好きな絵だけを描きながら過ごしていくつもりだと語る。現在、横尾さんが取り組むテーマのひとつが「Y字路」。今年の夏、その公開制作が、兵庫県立美術館で行われた。テーマは兵庫県内で見つけたY字路だ。150号の大きなキャンバスに向き合い、見に来た観客と会話を楽しみながら、作品を描き上げた。
(text from NHK site)

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NHK教育 25min 2009-01-13〜(2008-11-05〜の総合での再放送) --->E
Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)








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