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●知るを楽しむ 人生の歩き方 「三國連太郎 虚と実を生きる」

自分の手足を使い、自分で汗を流してものごとを考える、という俳優・三國連太郎さん。
その原点はどこにあるのかを語っていただく。
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1923年生まれ。43年に徴兵され、中国で敗戦を迎える。50年、東京でスカウトされ、木下惠介監督『善魔』(51年)の主役に大抜擢。その後、数々の映画作品、さらにはテレビドラマに出演し、映画の黄金時代、ヌーベルバーグの時代、衰退期、テレビの時代を見てきた。86年には自ら監督して『親鸞・白い道』を製作。趣味は読書で、空き時間ができると黙々と本を読み、宗教・民俗学にも造詣が深い。俳優の佐藤浩市さんの父。


第1回 「彷徨(ほうこう)の日々」--->C 0675 ノイズなし
三國の父は、自分が無学だったこともあり、息子に学校に行き勉強することを勧めた。特に貧しいわけではなく、それができる環境もあった。しかし、旧制中学時代、三國さんはそれをすべて捨て、密航して大陸を放浪。その場限りの仕事をして食いつないだ。帰国後も家には戻らず何の縁もない大阪に住んだ。嘘とごまかし…ある意味でたらめな人生を送ってきた。戦後、スカウトされ映画の世界に入る。役者の世界とはほとんど縁のない青年が、そこから日本を代表する俳優になっていく。一人で考え、一人で行動するという俳優・三國連太郎の原点はこの時代にあった。

第2回 「“光”と“影”」--->C 0691 ノイズなし
1950〜60年代半ばは、日本映画の黄金時代。人々は映画に憩いと刺激を求めた。三國さんが映画の世界に足を踏み入れたのは、まさにこの時代。木下恵介、内田吐夢、山本薩夫などの大監督たちに才を見出され、今村昌平、小林正樹といった次世代の監督たちとの仕事を通して濃密な時間を過ごした。満足できるまで幾度も撮り直しを要求し、現場で揉めた。スカウトされた当時の「俳優でもやるか」という意識は、次第に別のものへと変わっていった。そして、三國さんは、自ら資金を調達し、映画を製作することになる。

第3回 「永遠の未完成」--->C 0841 ノイズなし
これまで多くの映画やテレビドラマに出演したが、それでもまだ、役者が“天職”だと思えたことがないと三國さんは言う。なぜ自分が役者をやっているのか、いつも考え、すべてを投げ出したくなることもあると言う。 なぜ自分がそうなのかを知るために、本を読み漁り、あちこち旅した。稼いだお金を残らずつぎ込んだ自作自演のドキュメンタリー映画も未完成なままだ。 こんな未完成な男の半生が、どれほどの役に立つのか、と思いながら、できるだけ正直にお話ししたいと三國さんはいう。三國さんに完成という言葉はない 。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK教育 25min 2009-01-14〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->C





●知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 「松下幸之助 哲学した経営者」 北康利

松下幸之助の幼年は苦悩に満ちている。父親の事業の失敗、貧困生活、兄弟姉妹の相次ぐ死。苦境を乗り越え、小さな町工場を立ち上げるまでの道のりを作家・北康利が語る。
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1960年、名古屋生まれ。作家。東京大学法学部卒。富士銀行入行後、資産証券化の専門家として富士証券投資戦略部長、みずほ証券業務企画部長等を歴任。2008年6月、みずほ証券退職。PHP総合研究所「次代を考える東京座会」メンバー、中央大学専門職大学院国際会計研究科客員教授。主著に『白洲次郎 占領を背負った男』(第14回山本七平賞受賞)、『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』(以上、講談社)、『匠の国日本 職人は国の宝、国の礎』『子どものための偉人伝 福沢諭吉』『同行二人 松下幸之助と歩む旅』『蘭学者川本幸民 近代の扉を開いた万能科学者の生涯』『九鬼と天心 明治のドン・ジュアンたち』(以上、PHP研究所)。


第1回 「悲しい目をした少年」--->E 0174 ノイズなし
経営者の“神様”−松下幸之助。五坪ばかりの小さな町工場を、グローバル企業に育て上げた。彼が「神様」と呼ばれる背景には、現代に通じる「経営理念」を持っていたことがあげられる。それは、彼の人生から生み出されてきた思想である。父親の事業の失敗、貧困生活、兄弟姉妹の相次ぐ死。写真で見る幼い頃の松下幸之助は、いつも「悲しい目をしている」。「悲しい目をした少年」が、苦境を乗り越え、小さな町工場を立ち上げるまでの道のりを追う。

第2回 「巨耳の人」--->E 0370 ノイズなし
松下幸之助の特徴の一つがレーダーのような巨大な耳。人々の話を聞き、情報を集め続けたからそうなったとささやかれている。幸之助は自分が「無学」なことを理解していたため、経営者は勿論、販売店の店主、従業員、消費者…様々な人々の発言を素直な心で受け止め、自ら考え、吸収した。誰にでも素直な心で耳を傾け、人を尊重し、人を生かす天才でもある松下幸之助の経営哲学を作家の北康利さんが紐解く。

第3回 「日に新た」--->E 0467 ノイズなし
松下幸之助の理念の真髄は「日に新た」。企業を大きくする過程で、製造手法、企業組織、従業員制度などを常に見直し、改革を進めた。直面する危機を、逆に契機として、企業革新を成し遂げてきた。「日に新た」は、幸之助自らにも当てはまる。晩年に至るまで深く思索を続け、幸之助自身が人間的に常に変革を行っていたのだ。作家・北康利さんが「日に新た」をテーマに松下幸之助の思想行動を紐解き、現代へのメッセージを探る。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK教育 25min 2009-01-13〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->E


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パナソニック、1万5千人の削減発表

パナソニックは4日、デジタル家電の世界的な販売不振などを受けて、2010年3月末までに国内13か所、海外14か所の製造拠点を閉鎖し、正社員を含む1万5000人を削減すると発表した。これによって、配置転換や人件費削減を含めた電機大手9社の人員削減規模は、6万6000人を超えた。パナソニックの計画によると、人員削減は国内と海外がほぼ半分ずつとなる。正社員の削減数や具体的な閉鎖拠点は明らかにしていない。同社の生産拠点は国内外で230か所、正社員は30万人。建設中の工場の稼働時期も延期する。兵庫県尼崎市のプラズマディスプレーパネル工場は当初予定の09年5月から10年1月へ、同県姫路市の液晶パネル工場は10年1月から7月へ、それぞれ先送りする。パナソニックは同日、09年3月期連結決算の業績予想も下方修正し、税引き後利益が昨年11月時点の300億円の黒字から、3800億円の赤字に転落すると発表した。売上高は7500億円少ない7兆7500億円、本業のもうけを示す営業利益は、2800億円減の600億円となった。電機大手9社の09年3月期決算は、パナソニックを含む7社が税引き後赤字に転落する見通しだ。(2009-02-04 読売新聞)





●知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 「星野道夫 生命(いのち)へのまなざし」

アラスカの自然を愛し、そこに生きる動物や人々の姿を記録した写真家・星野道夫。1996年に急逝するまでの18年間にわたって写真と文章で星野が見せてくれた世界は、未知のものでありながら、遥か遠い記憶を呼び覚ましてくれる不思議な魅力に満ちている。 自然と人の関わりを考え、命の意味を問い続けた星野。彼が遺してくれたものと作品の魅力を友人・遺族・編集者らの言葉を借りて、多角的に迫る。
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◎今森光彦 1954年、滋賀県大津市生まれ。写真家。写真を独学で学び、80年からフリーランスとして活躍。世界各国を訪ね、熱帯雨林から砂漠まで自然を広く取材。国内では琵琶湖近くのアトリエを拠点に、自然と人との関わりを「里山」という空間概念で追う。第20回木村伊兵衛写真賞、第48回毎日出版文化賞、第42回産経児童出版文化賞大賞などを受賞。写真集に『里山物語』(新潮社)、『湖辺(みずべ)』(世界文化社)、『世界昆虫記』、『今森光彦フィールドノート 里山』(ともに福音館書店)、写真文集に『里山のことば』(世界文化社)、『里山を歩こう』(岩波ジュニア新書)など著書多数。星野とは同世代の自然写真家として友人でありライバルでもあった。

◎湯川豊 1938年、新潟市生まれ。エッセイスト。64年慶應義塾大学文学部卒業、同年文藝春秋に入社。雑誌、出版局など一貫して編集分野を担当。「文學界」編集長、出版局長などを経て、取締役・編集総局長。95年星野道夫のエッセイ『旅をする木』を手がける。2003年文藝春秋を退社、東海大学文学部教授を経て、現在、京都造形芸術大学教授。著書に、星野とのインタビューをまとめた『終わりのない旅 星野道夫インタビュー 原野に生命の川が流れる』(スイッチパブリッシング)のほか、『イワナの夏』(ちくま文庫)、『夜明けの森、夕暮れの谷』(マガジンハウス)がある。

◎星野直子 1969年東京都生まれ。星野道夫夫人。短大卒業後、書店に勤務。91年星野道夫と知り合い、93年結婚、アラスカのフェアバンクスに住む。94年長男出産。夫の死後、長男と共に日本とアラスカを行き来しながら、星野道夫事務所にて作品の管理を務める。星野道夫との共著に『星野道夫と見た風景』(新潮社とんぼの本)がある。

◎池澤夏樹 1945年、北海道帯広市生まれ。作家。埼玉大学理工学部物理学科中退。87年『スティル・ライフ』(中央公論社)で中央公論新人賞受賞。翌年同作で第98回芥川賞、『マシアス・ギリの失脚』(新潮社)で谷崎潤一郎賞受賞。2004年著作活動全般について第7回司馬遼太郎賞受賞、05年『パレオマニア』で桑原武夫学芸賞を受賞。小説、詩、随筆、翻訳、書評と活動は多岐にわたる。現在はフランス・フォンテーヌブローに居住。星野とはお互いに共鳴し合う世界観をもつ存在として交流があった。


第1回 「生きていることの不思議」 語り手: 今森光彦 --->D 0895
90年代「風のような物語」などの一連の作品で社会にセンセーショナルを巻き起こした星野の写真。人々に受け入れられたのは、現代人が忘れてしまった荒ぶる自然の肌触りだけでなく、「被写体との独特の距離」がある不可思議な構図だった。クジラとエスキモー、見つめ合うクマとサケ、雄大な原野の中のカリブー・・・ そこにはひとつの生きものをつぶさに据えるのではなく、様々な生命の関わり合いを探る表現者の視線があった。写真作品の奥に潜む星野の精神とその魅力を、写真家・今森光彦さんが伝えていく。

第2回 「循環する生命」 語り手: 湯川豊 --->D 0212
「生きる者と死す者。有機物と無機物。その境とは一体どこにあるのだろう。」星野道夫は写真家ばかりではなく、優れたエッセイストとしても知られている。彼が文章で表現しようとしたテーマのひとつが「狩猟民の思想」だった。編集者として長年著作のパートナーを務めた湯川豊さんは、星野が文章にこだわった理由を自然の中に人が生きる、その意味を問うとき、写真よりも文章でしか表現できないと感じたのではないかという。「星野の言葉」に宿る、現代社会では見えにくくなった自然と人、その関係の原点を掘り下げる。

第3回 「もうひとつの時間」 語り手: 星野直子 --->D 0118
「僕が大都会の東京で電車に揺られている時、北海道ではヒグマが悠々と川を渡っている。そのことがどうにも不思議でならなかった」。“もうひとつの時間”への想像力は、星野を語る上で外せないキーワードだ。アラスカ・フェアバンクスで共に暮らした妻・直子が、長期の撮影旅行ではなく、日常の星野道夫の思索と行動を振り返り、人間・星野道夫の素顔に迫る。

第4回 「長い旅の途上」 語り手: 池澤夏樹 --->D 0260
「自然の終わりはいつも何かの始まりである」。 星野と親交のあった作家・池澤夏樹さん。池澤さんが最も共鳴した星野の思想が、「自然の中での死の正しい姿」だという。星野の写真・文章からは自然全体の中での死が、他の生命に役立つ原理が読み取れる。生きることが死を回避することになっている現代、星野がアラスカの自然の中に入っていくことでつかんだ思想の重みは、増している。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK教育 25min 2009-03-03〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->全D







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●知る楽 歴史は眠らない 「県境の謎を行く」 地域経済アナリスト・日本政策投資銀行参事役…藻谷浩介

現在、47の都道府県から成る日本。私たちはふだん、県境を当たり前のように受け止めているが、実は県境が完全に画定しているのは、全都道府県の半分に過ぎない。その一方で、去年、137年ぶりに画定した湖上の県境もあれば、村が丸ごと隣の県の中にある“完全飛び地”もある。県境とは一体いかなる経緯で今日に至っているのか。そのほとんどは、廃藩置県の際に明治政府が数回にわたる強引な線引きをして出来上がった。境界線一つ一つの背景には、その土地に暮らす人々の営みや、為政者の思惑が透けて見えてくる。番組では、語り手が不思議な県境の現場を訪ね、そこに織りなされてきた歴史の物語を探り出していく。
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◎藻谷浩介 MOTANI Kosuke・・・1964年山口県生まれ。東京大学法学部卒業、米国コロンビア大学ビジネススクール修了(MBA〈経営学修士〉)。日本全国の市町村の99.9%を巡歴し、全国各地の地形・交通・産業・人口動態・通勤通学動態・郷土史などを詳細に把握している。中心市街地、産業振興、市町村合併、地域金融、観光振興、地域再生などをテーマに、講演・シンポジウムなどで全国各地を飛び回り、政府関係委員も多数務めている。著書に、『IT革命とモバイルの経済学』(共著、東洋経済新報社)、『中心市街地活性化のポイント』(共著、ぎょうせい)、『実測!ニッポンの地域力』(日本経済新聞出版社)などがある。


第1回 「“多国”県の陰に国策あり」
播磨・淡路・但馬など旧7国もの地域から構成される兵庫県。地域ごとに住民の気質や風土は実に多様だ。それがほぼ現在の形に近い兵庫県になったのは明治9年。明治政府主導の下、全国でも例のない強引な合併が断行された結果だった。政府はなぜ大きな兵庫県にこだわったのか。そこには、近代化を急ぐためのある国策が潜んでいた。兵庫県の成り立ちから、県境を取り払った大合併の光と影を見つめる。

第2回 「不合理なる分断線」
山や川などを利用して引かれることが多い県境。しかし、平野の真ん中に引かれた県境がある。栃木・群馬の両県にまたがる両毛地域を隔てる境界線だ。地形的には同一ともみなせる地域だが、生活圏を分断するかのように県境が引かれている。一方で、同地域には住民の意思によって県境が引き直された所もある。そこにはどのような地域の歴史があるのか。両毛地域を中心に、県境にまつわる不思議の背景を探る。

第3回 「137年目 湖上の決着」
東北を代表する景勝地・十和田湖。青森県と秋田県にまたがるこの湖をめぐって、去年、一つの“事件”が起きた。それまで決まっていなかった湖の上の県境が、ようやく決まったのである。明治4(1871)年の廃藩置県以来、実に137年目のことだった。境界はなぜ決まらないできたのか。それが決着を見たのはどうしてなのか。背景には、十和田湖を取り巻く社会や環境の変遷があった。県境を決められない事情と、決めることの意義を検証する。

第4回 「“完全飛び地”の誇り」
和歌山県北山村は丸ごと県の外側にある。全国唯一の“県を越えた完全な飛び地”だ。なぜそうなったのか。この一帯は江戸時代から日本有数の杉の名産地。北山村は、川を利用して木材を筏(いかだ)で流す中継点であり、その集散地である河口の新宮市(和歌山県)と密接につながっていたのだ。昭和30年代以降の木材不況やダム建設を経て、筏でのつながりは途絶えた。しかし、北山村は隣接する三重県への合併を拒み、飛び地のまま孤塁を守っている。村の数奇な歩みと誇りを見つめる。
(text from NHK site)

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NHK教育 25min 2009-04-07〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1)





●知る楽 探究この世界 「鉄道から見える日本」 明治学院大学教授…原武史

日本の鉄道は、明治維新から四年後の1872年(明治5)、新橋―横浜間が正式に開業したことから始まった。それからおよそ140年。その歴史はまさに日本の近現代の歩みを反映している。鉄道を通して、時代や社会、都市や郊外を見ることで、知られざる日本の姿に迫る。
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原武史 Hara Takeshi・・・1962年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、日本経済新聞社に入社し、東京社会部記者として昭和天皇の最晩年を取材。現在は明治学院大学教授、同大学付属研究所長。専攻は日本政治思想史。主な著書に『「民都」大阪対「帝都」東京』(サントリー学芸賞受賞)『大正天皇』(毎日出版文化賞受賞)『鉄道ひとつばなし』『鉄道ひとつばなし2』『滝山コミューン』(講談社ノンフィクション賞受賞)『昭和天皇』(司馬遼太郎賞受賞)など多数。


第1回 「鉄道紀行文学の巨人たち」
「鉄道紀行文学」とは、「鉄道に乗ること」に重きをおき、それまで「手段」にすぎなかった鉄道を「目的」に変えてしまった紀行文学。それをすぐれた文学にまで高めたのが、鉄道をこよなく愛した三人の作家だ。昭和25年に連載が始まった『阿房列車』シリーズで国内を旅した内田百閨B世界の鉄道を旅し、昭和50年から7年に渡って『南蛮阿房列車』シリーズを書き継いだ阿川弘之。そして、『時刻表2万キロ』でデビューし、平成15年に没するまで、質の高い鉄道紀行を書き続けた宮脇俊三。三者三様の個性や年齢差、論じる鉄道の違いから、戦後の日本の姿が浮かび上がってくる。

第2回 「沿線が生んだ思想」
特定の鉄道沿線に住むということは、その沿線文化あるいは地域の個性といったものに、実は深く規定されることなのではないか。本人は意識しないままに、そこからものを発想することがあるのではないか―。作家・永井荷風は、戦後、京成電鉄沿線に住んだ。彼がかつて愛し、戦争で焼け野原になってしまった墨東・向島の風景をそこに見出したからだった。同じ頃、高見順は、横須賀線の鎌倉に住んでいた。沿線には占領軍が接収した横須賀港や引き揚げ港となった浦賀港があった。そのため、車内では米兵や引き揚げの軍人や民間人と乗り合わせ、敗戦の現実を目の当たりにした。作家が住んだ鉄道沿線とそれが作品に与えた影響を読み解く。

第3回 「鉄道に乗る天皇」
明治・大正・昭和の時代を通して、最もあちこちの鉄道に乗ったのは誰かといえば、それは天皇である。明治天皇も、大正天皇も、昭和天皇も御召列車に乗り、じつによく全国を回った。大正天皇と昭和天皇はすでに皇太子の時代に、本州・四国・九州・北海道のすべてにおいて鉄道に乗っている。そしてそれは、大きな国家戦略に基づくものであった。近代日本においては、支配の主体である天皇・皇太子が「行幸啓」を全国レベルで繰り返し、人々の前に身体をさらし、視覚的に意識させることで、人々に自らが「臣民」であることを実感させたのだ。鉄道と天皇の知られざる関係に迫る。

第4回 「西の阪急、東の東急」
「東急」と「阪急」という東京と大阪を代表する二つの私鉄の比較を通して、東と西の鉄道のあり方の違い、そこに現れている文化の違いについて考える。「阪急(阪急電鉄)」を創業したのは小林一三。「乗客は電車が創造する」と沿線に宝塚歌劇団や百貨店を作り、一大文化圏を作り出した。小林は生涯、反官独立の姿勢を貫き、その徹底ぶりは、今でも駅の乗り換えに表れている。阪急からJRに乗り換えるには、いったん外に出て、切符を買い直さなければならない。一方、「東急(東京急行電鉄)」を創業した五島慶太は、小林の指導をあおぎながらも、徹底して「官」の力を借り、事業を広げていった。阪急・小林、東急・五島の違いを探りながら、東西の文化の違いに迫る。

第5回 「私鉄沿線に現れた住宅」
戦後、首都圏の住宅事情に転機をもたらしたのは、「団地」の出現だ。関東では1959年(昭和34)、総戸数2700戸をこえる「ひばりが丘団地」が完成。皇太子(現天皇)夫妻も視察に訪れ、その名は全国に知られるようになる。その後、住宅は大規模団地の時代に突入。西武、東武、新京成の私鉄各線の沿線に、総戸数2000戸以上の巨大団地が建設されていく。団地は、火事や地震に強い鉄筋コンクリート製で、ステンレスの流し台や水洗トイレなど、最新式の設備を完備。人々の憧れのまととなった。私鉄沿線に突如現れた「団地」と鉄道の関係を考える。

第6回 「都電が消えた日」
かつて最大で41系統もの路線が網の目のようにはりめぐらされた東京の市電・都電。戦前、戦後に渡って、その便利さと手軽さで長く都民の足だった。しかし、60年代後半になると急速に姿を消し、72年には荒川線だけが残った。その理由は、モータリゼーションにあったが、地下鉄が発達したことも大きかった。鉄道教授こと、原武史さんは、都電の廃止と地下鉄の発達は、単に交通手段が変わったということだけにはとどまらないと指摘する。都電によって戦前から受け継がれてきた、東京に対する人々の認識そのものが変わってしまった、というのだ。市電・都電が人々に与えた影響について考える。

第7回 「新宿駅一九六八・一九七四」
東京・新宿駅は、JR、私鉄、地下鉄の計11路線が乗り入れる巨大ターミナル駅だ。この新宿駅、60年代後半から70年代初頭の「政治の季節」、その重要な舞台の一つだった。1967年(昭和42)8月8日、新宿駅構内で貨物車同士が衝突、爆発炎上した。時はヴェトナム戦争の真っ最中。この事故によって、ヴェトナム戦争に向かう米軍機の燃料が、新宿を通って米軍立川基地に運ばれている、という事実が明らかになった。翌年10月には「米タン阻止」闘争が新宿駅で行われ、以後、過激なデモが繰り返された。熱い「政治の季節」に、新宿駅が果たした役割を考える。

第8回 「乗客たちの反乱」
1973年(昭和48)3月13日朝、国鉄高崎線上尾駅で、サラリーマンたちの「暴動」が起きた。人々は駅舎になだれ込み、ガラスを割り、列車に向かって投石した。なぜ、暴動は起きたのか。当時は、日本の労働運動が高揚し、争議が頻発した時代。しかし、国鉄など国の公共企業体の職員は法により、最も強力な争議行為であるストライキは認められていなかった。そこで、労組が用いた戦術が「順法闘争」だった。通常であれば速度などを柔軟に調整してダイヤを守るところを、逆に法や規程を厳格に守ることにより、結果としてダイヤを混乱させる、という皮肉な戦術で、間引き運転やノロノロ運転で大幅な遅れと混雑を引き起こした。普通のサラリーマンたちを暴動へ駆り立てた「時代」について考える。
(text from NHK site)

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●知る楽 歴史は眠らない 「智慧の結晶 お経巡礼」 宗教評論家…ひろさちや

「♪観自在菩薩・・・」テレビの画面に映し出されるお経の文字。今、DVD化されたお経が人気を集めている。クラブでは若者がお経のラップに体を揺らし、お経を文庫化したシリーズは版を重ね・・・。先の見えない混迷の時代にあって、人々はお経に何かを求めている。お経は、インドで悟りを開いた釈迦の教えを弟子達が数百年にわたってまとめたもので、8万4千の法門といわれる種類を持つ。そこには、「宇宙」「生と死」「愛」「悟り」「戒め」「救済」等々、人が生きていく上での大テーマが網羅され、膨大な智慧のデータバンクとなっている。番組では、語り手が京都、奈良の古寺を訪ね、歴史上のエポックとなるお経をひも解きながら、そこに秘められた壮大な智慧の世界にいざなう。
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ひろさちや HIRO Sachiya・・・1936年大阪府生まれ。東京大学文学部印度哲学科卒業、同大学院博士課程修了。気象大学校教授として長年にわたり哲学を講じる。現在、大正大学客員教授。旺盛な執筆・講演活動で仏教哲学の啓蒙家として知られる。著書に『仏教と儒教』『釈迦とイエス』『やまと教』(共に新潮社)、『「狂い」のすすめ』(集英社)、『悩まない』(小学館)、『「いいかげん」のすすめ』(PHP研究所)、『けちのすすめ――仏教が教える少欲知足』(朝日新聞出版)、『ひろさちやのあきらめ力』『「無関心」のすすめ』(共に青春出版社)、『サラリーマン劇薬人生相談』(ベストセラーズ)、『禅を楽しむ本』(主婦と生活社)など多数ある。


第1回 「 華厳経 壮大なる宇宙論」
奈良時代。聖武天皇は疫病の蔓延や戦乱を鎮め、国をまとめるため、大仏の建立を発願。その壮大な国家プロジェクトの柱となったのが華厳経だ。東大寺の大仏は、実は、無限の時間と空間を持つ宇宙を象徴するものとして作られた。「1つ1つの存在は、無限に反映する鏡であり、1つでありながら無限に展開する。」華厳経に秘められた壮大な宇宙論から、現代につながるメッセージを読み解く。

第2回 「法華経 悟りへ導くファンタジー」
平安時代。遷都したばかりの平安京では新たな心のよりどころが求められた。そのころ、比叡山に創建された延暦寺で根本経典となったのが法華経だ。「白蓮華は、泥の中で育ちながら最後には地上に美しい花を咲かせる。現実の乱れた社会の中でこそ悟りの境地を極めよ。」分かりやすいたとえ話で、人々を悟りへと導いた法華経の魅力あふれるファンタジーを味わう。

第3回 「阿弥陀経 極楽へのいざない」
平安時代末期。源平の争乱が激しくなり、戦乱の中で生きる庶民にとってはいわば地獄のような時代だった。極楽浄土に往生を願う阿弥陀経が広がったのはこのころだ。「『南無阿弥陀仏』と念仏を唱えた人は、みな極楽世界に往生できる。」修行や財力による寄進をできなくても念仏を唱えれば救われる、と庶民に広がり「民衆仏教」となった阿弥陀経の世界へといざなう。

第4回 「般若心経 心を癒やす処方箋」
ストレスの多い現代社会。こうしたなか、ふと心を癒やしてくれるお経が、般若心経だ。わずか300文字足らずの最も短いこのお経に魅せられて、多くの解説書が登場している。「色即是空・空即是色」のフレーズで知られる般若心経。そのエッセンスが「空」だ。何ものにもこだわらない境地こそが苦しみから放たれる道だと説く。現代人の心を癒やす処方箋、般若心経の教えにじっくりと耳を傾ける。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK教育 25min 2009-06-02〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->EL1200





●知る楽 こだわり人物伝 「花菱アチャコ “笑いの神様”はお人好し」 落語家…桂三枝

芸人・花菱アチャコ(本名 藤木徳郎)。「しゃべくり漫才」を横山エンタツと作り上げた伝説の漫才師にして、多くの映画に出演した名役者。主演を務めるラジオドラマは10年以上続く大ヒット、アチャコは国民的大スターでした。「アチャコさんは心の父だった」と語る落語家・桂三枝さん。幼くして父を亡くした三枝さんはラジオドラマ「お父さんはお人好し」をいつも聞いていました。優しいお父さんを演じるアチャコの声に、三枝さんは父を見出していました。戦前から高度経済成長期まで、笑いで大衆の心を温めてきた花菱アチャコ。かつてアチャコに強い影響を受け、今は同じ笑いの道で活躍する桂三枝さんが、花菱アチャコの魅力を4回にわたって紹介します。

第1回 「笑いの革命 しゃべくり漫才」
花菱アチャコの最大の功績は横山エンタツとコンビを組んで「しゃべくり漫才」という新たな笑いのスタイルを築いたこと。服装を和服から洋服に、呼び方を「僕」「君」に変えた二人の漫才は時代の変化を的確に捉えました。昭和9年、当時の大人気スポーツをネタにした「早慶戦」はラジオでも放送され、全国的な人気を得ます。二人のしゃべりは人々の日常を笑いに変えました。「しゃべくり漫才」は笑いにどんな革命を起こしたのか?桂三枝が二人の「漫才」を分析します。

第2回 「漫才師 スクリーンを席巻す」
花菱アチャコは映画役者としても活躍しました。生涯で出演した映画の数は100本以上と言われています。デビューのきっかけは横山エンタツとのコンビ解散でした。人々から二人の姿が見たいと、スクリーンのなかだけでコンビが復活したのです。当初は漫才を中心にした映画が作られていましたが、アチャコは役者としても頭角を現します。社長、学生、兵士、時には異国の原住民などアチャコはどんな役でも演じました。漫才師としてだけでなく、役者としても認められていた多才なアチャコに迫ります。

第3回 「ラジオの中の“お父さん”」
花菱アチャコを国民的スターに押し上げたのが昭和29年から始まったラジオドラマ「お父さんはお人好し」です。子だくさんの家庭で巻き起こる日常を描いたこのドラマは昭和40年まで続きました。お人好しで優しいお父さんを演じたアチャコ、その性格は普段のままでした。スタッフ、共演者、ファンなどアチャコは常に優しく振る舞っていました。その裏には芸人としての誇りがありました。誰からも愛されたアチャコの素顔に迫ります。

第4回 「貫いた芸人人生」
アチャコが初めて漫才の舞台に上がったのは大正3年、その後50年以上にわたって笑いの第一線で活躍しました。息の長い芸人だったアチャコ、舞台・映画・ラジオ・テレビなどさまざまな媒体で老若男女を笑わせ続けました。そのアチャコが大事にしていたことがあります。「常に時代と向き合うこと」。新聞・雑誌には目を通し、アチャコは時代に合わせた笑いを考え続けていました。「アチャコさんが理想の芸人」と語る桂三枝さんが、50年以上に及ぶアチャコの芸人人生を見つめます。
(text from NHK site)

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NHK教育 25min 2009-06-03〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->EL1200










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