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●知る楽 こだわり人物伝 「緒形拳 振り子を大きく」 映画評論家…垣井道弘

その訃報は唐突だった。まるで、深刻を飄々(ひょうひょう)と演じた彼の役者ぶりを彷彿させるかのように…。去年10月、俳優・緒方拳が肝がんで急逝した(享年71)。人間の業の深さと哀切を、骨太に、繊細に演じた稀代の名優は、スターの座に安住することをしなかった。「振り子を大きく振りたい」−緒形が好んで使った言葉だ。21歳で役者になり、最後まで演技を追究し続けた50年。その歩みからは、さすらう旅人のような役者人生が浮かび上がる。番組は、20年以上にわたって緒形に密着してきた映画評論家・垣井道弘さんが、俳優・緒形拳の実像と魅力を4回にわたって語り尽くす。
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1946年、広島県三原市生まれ。明治大学文学部卒業。週刊誌「女性自身」の特派記者を経て、映画評論家になる。邦画、洋画を問わず人間ドラマや社会派作品に興味を持ち、80年代前半から「キネマ旬報」「スクリーン」、週刊誌、新聞各紙に批評やルポ、インタビュー記事を執筆する。主な著書に日米合作映画の撮影現場を取材した『MISHIMA』(飛鳥新社)、今村昌平監督の海外ロケに同行した『今村昌平の製作現場』(講談社)、日系俳優とその歴史を詳細に辿った『ハリウッドの日本人/「映画」に現れた日米文化摩擦』(文藝春秋)、緒形拳を20年以上密着取材した『緒形拳を追いかけて』(ぴあ)などがある。


第1回 「“映像の顔”ドラマを拓(ひら)く」
緒形拳が、その俳優人生で最も多く活躍したのは、テレビドラマだった。出演作品は200本以上。緒形を全国区のスターに押し上げたのもまた、テレビだった。緒形の出演で次々とヒットするドラマ。ヒットするだけではない。なぜかその多くが、時代の先駆けとなる新しいドラマの誕生となった。数々の出演作品を通して、なぜ緒形はテレビドラマの先駆者たり得たのかを探る。

第2回 「鬼気 銀幕に炸裂(さくれつ)す」
1970年代から80年代にかけて、日本映画は緒形拳の独壇場の観すらあった。実際に起こった連続殺人事件を描いた「復讐するは我にあり」(1979年)。最も衝撃的だったのが緒形拳演じる犯人だった。詐欺師として飄々(ひょうひょう)と人をだましながら、突然凶悪な殺人犯になり変わる。その演技には凄まじいリアルさがあった。鬼気迫る緒形の演技の秘密と神髄に迫る。

第3回 「表現者の原点」
1983年、緒形拳出演の「楢山節考」は世界中の絶賛を浴びて、カンヌ国際映画祭のグランプリを受賞する。時に豪快に、時に繊細に。縦横無尽の演技の幅の広さ。演技とは思えないリアリティ。俳優・緒形拳という存在は、いかにしてもたらされたのか。その生い立ちをひも解きながら、表現者としての緒形拳の原点に迫る。

第4回 「しんどい方を選ぶ」
1980年代には2度もカンヌ国際映画祭に招かれるなど、緒形拳は名実ともに国民的俳優となった。だが、90年代に入り50歳を越えたころから、緒形は人知れず葛藤を抱えるようになる。出演したいと思える作品が少なくなっていた。しかし、緒形は晩年になっても安寧を求めなかった。そんな中、緒形が選んだのは舞台のひとり芝居。この時期、緒形は何を目指したのか。最後まで新境地を求め続けた緒形拳の役者魂を探る。
(text from NHK site)

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NHK教育 25min 2009-07-01〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->EL1200





●知る楽 仕事学のすすめ 「藤原和博 スピード突破力」 前・杉並区立和田中学校校長…藤原和博

7月の主人公はエリートサラリーマンから転身、中学校校長としてさまざまな改革を行い、注目を集めた藤原和博さん。藤原さんは18年間のサラリーマン生活で培ったビジネスの手法を、教育という一見無縁な現場で応用し成功を収めた。「異なる力」を結びつけて一つの新しい事業を創り上げること。巧みなプレゼンテーションでチームの方向性を一つにまとめること。危機を乗り越えるための交渉術など、その仕事人生の中から「組織」を生き抜くノウハウと哲学を徹底的に学ぶ。
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藤原和博 FUJIWARA Kazuhiro・・・1955年東京生まれ。東京大学卒業後、リクルートに入社。幾度も営業成績トップに輝き、東京営業統括部長、新規事業担当部長などを歴任。退職後、2003年から5年間、都内では義務教育初の民間校長として、杉並区立和田中学校校長を務めた。在任中には世界と教室をつなぐ[よのなか]科、学校と塾をつなぐ「夜スペ」など、次々と改革に乗りだし注目を集める。現在は、大阪府教育委員会特別顧問として、大阪府内の教育改革に力を注ぐ。著書に「リクルートという奇跡」「人生の教科書〔人間関係〕」「つなげる力」など多数。


第1回 「“異なる力”をつなげる」
都内では義務教育初の民間校長として2003年、杉並区立和田中学の校長となった藤原さんは、学校改革に乗り出す。そこで藤原さんが取った手法が「異なる力」をつなげる事。学校と地域住民、教員志望の学生などを連携させて「地域本部」を設置。図書館の改造・運営、校内の花と緑の維持・管理、そして基礎学力のアップを目指した「土曜寺子屋」など斬新な取り組みを立ち上げた。どの様に「異なる力」をつなげていったのかじっくりとうかがう。「藤原流プレゼンテーション術」も再現。

第2回 「会社はビジネススクール」
杉並区立和田中学校校長として前代未聞のプロジェクトを打ち出した藤原さん。その原点は、18年間勤めたリクルート時代にあった。藤原さんはそこで、企画の立て方やプレゼンテーションのノウハウ、失敗した時の対処法まで、ビジネスの基本を徹底的にたたきこまれた。藤原さんは言う「会社はビジネススクールだ」と。第二回はサラリーマン時代の藤原さんに学ぶ「体験的仕事論」。組織人だった藤原さんに学ぶ体験的仕事論。

第3回 「“組織内個人”を目指せ」
リクルート時代、藤原さんは2つの試練に見舞われる。「リクルート事件」と「ダイエーショック(ダイエーグループへの吸収)」である。リクルート事件で、会社の信用は地に墜ち、藤原さんは「リクルート」という社名を言うことすらためらわれた。しかし一方で藤原さんは「危機は企業を、そしてそこで働く人間を鍛える」と言う。危機だからこそ、自らの頭で考え、行動し、局面を打開すると考えているからだ。そして藤原さん達が中心となり社員が団結、危機を乗り切ることとなる。その過程で藤原さんは、組織の資源を生かしながら自立して働く「組織内個人」という概念に辿り着く。「組織」の中で「個人」はどの様に働けばいいのか。「組織内個人」を中心にうかがう。

第4回 「とにかく踏み出せ」
リクルート時代に藤原さんが考案した働き方「フェロー」。「客員社員」ともいわれるこの制度は、いったん会社を辞めて、改めて会社と個人が対等の関係で、共同事業をする契約を結ぶ働き方である。社内の設備、人などの資源を使いながら目指すミッションを遂行する。藤原さんはこの制度を生かし、5年間興味のある福祉、生活関連の事業に従事。その後の人生をかけるテーマにたどり着く。それが“学校を核に地域コミュニティを再生する”というものだった。40代からの仕事のテーマを見つけだすことが大切だという藤原さんはとにかくやりたいことがあれば「一歩踏み出せ」という。複雑化する世の中に正解はない。間違えばその場でその場で修正すればいい。必要なのは正解ではなく、その状況に最適な“解”なのだ。藤原流「突破力」の精髄を探る。
(text from NHK site)

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NHK教育 25min 2009-07-02〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->EL1200





●知る楽 歴史は眠らない 「日本くじら物語」 総合地球環境学研究所副所長・教授…秋道智彌

今年6月、ポルトガルでIWC(国際捕鯨委員会)の総会が開かれた。くじらを適正な資源管理のもとで捕りたいとする、日本をはじめとした捕鯨国と、貴重な野生動物であるくじらを殺すことは許されないとする反捕鯨国の間の溝は今年も埋められず、来年に結論を先送りすることになった。 そもそも日本人は、古来どのようにくじらと関わり、どのような文化を育んできたのか。そして、なぜ今もくじらを捕ることにこだわるのか。また、反捕鯨国はなぜ日本を非難するのか。クジラと日本人のつながりを、国の歴史、地域の歴史の中に探る。
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秋道智彌 AKIMICHI Tomoya・・・1946年京都府生まれ。京都大学理学部卒業、東京大学大学院理学系研究科人類学博士課程修了(理学博士)。国立民族学博物館教授を経て、2002年に着任。日本、東南アジア、オセアニア、中国において資源利用と管理などの調査研究に従事。03〜07年には、モンスーンアジア地域における地域生態史プロジェクトの代表として地球環境問題の生態史的研究を提唱。著書に、『クジラは誰のものか』(ちくま新書)、『クジラとヒトの民族誌』(東京大学出版会)、『くじらと日本人の暮らし』(ポプラ社)、『コモンズの人類学』(人文書院)、『なわばりの文化史』(小学館)など多数。旅先での酒と魚を愛す。


第1回 「大国に翻弄された町」
明治11(1878)年に起こり、100名以上の犠牲者を出した、和歌山県太地町の捕鯨船遭難事故。地元で300年近く続けられた捕鯨に壊滅的なダメージを与えたこの事故は、今も語り継がれている。この悲劇の背景には、19世紀、日本近海に押し寄せてきたアメリカの捕鯨船の脅威があった。当時のアメリカは、今と違って世界有数の捕鯨国。ろうそくや潤滑油の原料となる鯨油の獲得を主目的に、鯨の乱獲を繰り返していた。太地の遭難事故は、アメリカの乱獲で鯨の不漁が続く中、悪天候を押して出漁した側面があったのである。太地の悲劇から、鯨がもたらした日本近代の数奇な歴史に迫る。

第2回 「捕鯨の精神 今もなお」
古式捕鯨発祥の地、和歌山県太地町。江戸時代に大きなくじらを仕留めるために組織的に捕鯨が行われ、浜ではその道具や船を作る地場産業を育んだ。そうした共同体の精神は、危険な捕鯨で命を落とした人への社会保障制度までに及んだ。入り江や岬などの地形を巧みに利用してきた捕鯨。森林からの養分が、プランクトンを豊富にし、魚を呼び、それが鯨を呼ぶという考えから、岬などの森林は開発せずに残り、今に至っている。今でも小型沿岸捕鯨が行われるくじらの町に脈々と受け継がれる捕鯨文化の歴史をたどる。

第3回 「鯨食文化の灯は消えず」
江戸時代から五島や壱岐を中心に捕鯨が盛んに行われてきた九州。中でも長崎県は、鯨の消費量が全県1位。長崎市で半世紀以上鯨肉問屋を営む日野浩二さん(78)は、赤身は勿論、舌や内臓まで無駄なく、くじらを食べてきたという。 こうした豊かな食文化を示す資料が、幕末に長崎・生月島で編纂された「鯨肉調味方」である。いわば世界で初めての鯨の料理本で、70種類にも及ぶくじらの部位の調理法が書かれている。九州を中心に発達した鯨食の歴史を通して、日本人と鯨食の深いつながりを探る。

第4回 「くじらは誰のものか」
近代捕鯨発祥の地といわれる山口県下関市。ここで作られた多くの捕鯨船が、戦前から船団を組み遠洋の南氷洋に出漁するようになった。戦後は、食糧難の時代に再開し、昭和30年代最盛期を迎えた。しかし、乱獲が問題となり、IWC(国際捕鯨委員会)による規制が強まった。昭和62年、ついに日本は南氷洋の商業捕鯨から撤退せざるをえなかった。下関在住の元捕鯨船の船長の証言を基に、日本の近代捕鯨のたどった道を振り返り、今日まで続く捕鯨論争を検証する。
(text from NHK site)

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NHK教育 25min 2009-08-04〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->EL1200

> クジラの街・太地町住民の毛髪から高濃度水銀

環境省の国立水俣病総合研究センターは9日、クジラやイルカを食べる習慣がある和歌山県太地町の全住民の3割にあたる1137人を調査し、全国の他地域と比べて平均で4倍超の水銀濃度を毛髪から検出したと発表した。水銀中毒の可能性を疑わせる症状はみられなかったが、うち43人は世界保健機関(WHO)の基準値50ppmを超えていた。同町は古式捕鯨発祥の地で、沿岸では国際的な規制対象外の小型のゴンドウクジラなどの漁が行われている。反捕鯨団体がイルカ、クジラ類に高濃度の水銀が含まれていると主張し、一部研究者からも健康被害を心配する声があることから、町が2009年、同センターに調査を依頼していた。発表によると、調査は夏季(09年6〜8月)と、クジラ類をよく食べる冬季(10年2月)の2回実施。町民から魚介類の摂取状況を聞き、毛髪を検査した。夏季調査の毛髪水銀濃度は男性が平均11.0ppm、女性が6.63ppmで、同センターが国内14地域で調べた平均値(男性2.47ppm、女性1.64ppm)を大きく上回った。神経障害の症状が出る可能性があるとして、WHOが定めた基準値の50ppmを上回ったのは、夏季、冬季を合わせて43人だった。夏季調査対象者のうち、調査前の1か月間にクジラ、イルカを食べた人は36.8%で、国内14地域の調査で「クジラをよく食べる」とした人が1%未満だったことから、同センターは、同町のクジラ類の摂取状況と毛髪水銀濃度に相関関係があると結論づけた。岡本浩二・同センター所長は「平均を上回る水銀濃度は、イルカ、クジラを摂取した影響と推定される。特に健康被害は認められないが、濃度が非常に高い人がいるため、引き続き調査したい」と話している。 (2010年5月10日1時56分配信 読売新聞)





●知るを楽しむ こだわり人物伝 「グレン・グールド 鍵盤のエクスタシー」 青山学院大学准教授…宮澤淳一

カナダが生んだピアノの鬼才、グレン・グールド(1932-1982)。顔が鍵盤につくほどの猫背。夏でもコートとマフラーに身を固め、特製の折り畳み椅子をどこにでも持ち歩く…。“奇人”と思われがちだが、一度そのピアノに耳を傾けた者は、圧倒的なスリルと輝きを放つ演奏の虜となってしまう。そして、32歳。世界的な名声の絶頂の中で、一切のコンサート活動からの引退を宣言。前代未聞の行動で、物議をかもした。しかし、グールドは動じることなく精力的に録音を行い、80作を超えるアルバムを残した。独創的で挑発的なグールドの生涯を見つめ、その魅力の秘密に迫る。<2008年5月のアンコール放送です>
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宮澤淳一 Miyazawa Jyun-ichi・・・1963年生まれ。青山学院大学(国際政治学)、早稲田大学(露文)卒。早稲田大学大学院に学ぶ。2007年東京大学より博士(学術)。早稲田大学、慶應大学、武蔵野音楽大学各講師、トロント大学客員教授等を経て、2008年4月より青山学院大学総合文化政策学部准教授。国立音楽大学、法政大学にも出講。専門は文学・文化研究、音楽学、メディア論。主な著書に『グレン・グールド論』(春秋社、吉田秀和賞)、『チャイコフスキー』(東洋書店)、『マクルーハンの光景』(みすず書房)、『カナダを知るための60章』(共著、明石書店)、『文化の透視法』(共編著、南雲堂フェニックス)、訳書に『グレン・グールド書簡集』(みすず書房)、『リヒテルは語る』(音楽之友社)ほかがある。


第1回 「伝説の誕生」
1956年.グールドは、レコード会社の反対を押し切り、“チェンバロむけの曲”“長すぎる”と、ピアニストから敬遠されていたバッハの「ゴールドベルク変奏曲」でデビュー。アルバムは、発表されるや、一挙に全米のベストセラーとなり、「歴史的名盤」と今に至るまで高い評価を受けている。「時代遅れの退屈な行為」とされていたバッハのピアノ演奏を再び可能とした、その魅力とはなんだったのか?

第2回 「“コンサートは死んだ”」
1964年、グールドは世界的な名声のさなかに、わずか31歳にして、コンサート活動を中止。以後、レコード録音と放送のみを表現の場とした。また、「コンサートは死んだ」と発言し、物議をかもしだす。コンサートピアニスト時代の葛藤、軋轢とは、なんだったのか。グールド作曲のピアノ曲の、高橋悠治氏による演奏もまじえて、“自殺行為”とまで言われたコンサート活動中止にグールドがいたった理由にせまる。

第3回 「逆説のロマンティスト」
すべてのコンサート活動を停止したグールドは、以後、録音スタジオにこもり、独自の解釈の演奏を次々世に送り出す。優雅とは程遠いモーツァルト。ベートーヴェンの英雄主義を否定した、三大ソナタ。グールドは、偶像破壊が目的であるかのような演奏を繰り広げる一方、ブラームスの間奏曲や、スクリャービンなどで、ロマンティシズムあふれる演奏を発表する。「演奏家の唯一の正しい欲求はエクスタシー」とも語ったグールドの本質にせまる。

第4回 「最後のゴールドベルク」
最晩年、グールドがとりくんだのは、なんと、すでに世界的名盤とされていた「ゴールドベルク変奏曲」の再録音だった。グールドは、自ら「(かつての演奏には)苦しみに耐える尊厳がなかった」と語り、新たなゴールドベルクの創造に情熱を傾ける。録音の様子は、映像でも同時収録された。そして、アルバム発表の翌年。グールドは脳卒中で、突然の死を迎える。「崇高な、個人を超越した演奏」ともいわれる、二度目の「ゴールドベルク」が語りかけるものとは?そして、グールドが現代にのこした遺産とはなにか?グールドが、生涯をかけて、めざそうとしたものに迫る。
(text from NHK site)

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NHK教育 25min 2009-08-05〜(2008-05のアンコール放送)
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●知る楽 探究この世界 「なかにし礼 不滅の歌謡」 作家…なかにし礼

旧満州に生まれ、過酷な引き揚げを体験、その後、歌謡界を代表する作詞家として数々のヒット曲を生み出してきた作家・なかにし礼さん。歌に託して時代を描いてきた。今回のシリーズでは、日本人が耳にし、口ずさんできた歌謡曲を、なかにし礼さんが読み解き、庶民が生きた激動の日本近現代史に迫る。日本人のメンタリティと時代を映し出す鏡=歌謡曲に探る、なかにし版・日本人論である。
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なかにし礼 NAKANISHI Rei・・・1938年、中国黒龍江省牡丹江市生まれ。立教大学文学部仏文科卒。シャンソンの訳詩家として活躍後、64年「知りたくないの」のヒットを機に作詩家となる。「今日でお別れ」「石狩挽歌」「時には娼婦のように」「北酒場」などのヒット曲を続々と生み出し、日本レコード大賞、ゴールデンアロー賞、日本作詩大賞などを受賞。その後作家活動を開始し、98年『兄弟』を発表。2000年『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞受賞。ほかの主な著書に『翔べ! わが想いよ』『赤い月』『てるてる坊主の照子さん』『黄昏に歌え』など多数。また、オペラ、演劇など舞台作品の台本、演出も数多く手がけている。


第1回 「ヒット曲誕生の神秘」
「ヒット曲でないかぎり、歌は歌として存在しえない」という感覚を常に持ってきたというなかにし礼さん。ヒット曲はどうやって生まれるのか。そこには、言葉が生まれた瞬間、ある「ひらめき」が降りてくる感覚があるという。そのひらめきさえあれば、その歌は絶対にヒットする。そして、ヒット曲や名曲と呼ばれる歌が誕生するのは、作詞家、作曲家、アレンジャー、そして歌い手それぞれのひらめきが重なり合って一気に爆発するような奇跡の瞬間だという。ヒット曲が誕生する秘密に迫る。

第2回 「三拍子の魔力」
日本にはもともと三拍子というリズムはなかった。そもそも三拍子とは、ヨーロッパの啓蒙思想を源流とする、既存の権力への抵抗の詩であり、自由を渇望するリズム。日本には大正時代、自由を求める革新思想、自由主義思想とともに、三拍子のワルツがもたらされ、大正から昭和にかけて三拍子の歌が大流行した。既存の権威を否定し、自由を渇望する革新思想は、まさに大正デモクラシーの時代潮流を象徴するものであり、三拍子の歌は、その思想を大衆レベルにまで浸透させる原動力になったと、なかにしさんは読み解く。

第3回 「歴史に埋もれた心の歌−“長崎ぶらぶら節”」
庶民の間に生まれ、歌い継がれながらも、激しい時代のうねりに消えていく流行歌もある。長崎に伝わる民謡「長崎ぶらぶら節」もそんな歌の一つだった。それは、長崎の風俗や名物などを織り込んだ民謡で、幕末から明治の初めにかけて長崎で大流行した。その後、長らく忘れられた存在になっていたが、昭和のはじめに、市井の歴史学者・古賀十二郎と名妓・愛八が丹念な聞き取り調査を行い、発掘、レコードに残した。なかにしさんが直木賞を受賞した『長崎ぶらぶら節』は、この「発掘」の物語に取材し、描いたものだ。近代化と共に失われていった、知られざる地方の歴史や流行歌について考える。

第4回 「旅立つ女たち」
常に「時代の新しさ」を求めてきた歌謡曲にとって、「女性の生き方」は、格好のテーマだった。「いのち短し恋せよ乙女」と歌った「ゴンドラの唄」(大正15)。ここから女性の社会進出は始まった。戦時中の女性の美徳を歌った「愛国の花」(昭和12)。戦後、引き揚げ船で帰ってくる息子を待つ母を歌った「岸壁の母」(昭和29)。そして旅立つ女を歌った「ジョニィへの伝言」(昭和48)や「心のこり」(昭和50)。歌謡曲に女性像の変遷をたどる。

第5回 「楽譜の上の戦争」
昭和13年、旧満州に生まれたなかにし礼さん。耳にするのは大人たちが歌う軍歌だった。日本の歴史を振り返るとき、戦争から目を背けられないのと同様に、歌謡曲の歴史を振り返るならば、軍歌から目を背けることができない、と言うなかにしさん。自らの体験も交え、軍歌が歌われた時代を振り返る。

第6回 「“音楽出版”という革命」
なかにしさんが作詞家として歌謡曲の世界に足を踏み入れたのは昭和39年。その頃まで日本の歌謡曲は、そのほとんどがレコード会社の文芸部に所属する専属作家によって作られていた。しかし一方で、この時代、専属制の作家にはない斬新な歌を書くフリーの作家が多く現れた。レコード会社にはなかなか相手にされなかったフリー作家たちは、音楽出版社と組んでレコードを出し、ヒットを連発する。歌が専属作家から解き放たれ、誰もが自由に書ける時代がきたのだ。それはまさに「音楽出版」革命だった。

第7回 「ヒット・システムの明暗」
昭和40年代後半から50年代の前半にかけて、「アイドル歌手」が次々と生まれ、音楽シーンをにぎわせた。しかしなぜアイドルの時代が到来したのか。実はそこには、一般にはあまり知られていない「からくり」があった。それは、テレビ局の関連会社にあたる音楽出版社が音楽を作り、それを自前の電波を通して宣伝し、大きな利益を上げる、というものだった。テレビ各局は音楽番組を積極的に制作し、次々とスターが誕生した。

第8回 「昭和日本への恋文」
昭和64年1月7日、昭和天皇、崩御。年号は平成へと変わった−。 なかにしさんは言う。「思えば私は、昭和という時代に生まれ落ち、昭和という時代に翻弄され傷つけられながらも、その一方では昭和によって拾われて育まれ生かされてきた人間の一人だった。昭和日本にもっと愛されたいと心から願い、そのほとばしり出た想いを書き連ねてきたものが私のつくる歌だった。訳詞を含む、作詞した約四千曲のすべてが『昭和日本への恋文』だった。」なかにしさんは、「風の盆恋歌」を最後のけじめの作品として残し、作詞家の肩書きを捨てることにしたー。昭和への想いを語る。
(text from NHK site)

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●知る楽 仕事学のすすめ 「勝間和代 働く女性 課題克服仕事論」 経済評論家…勝間和代

8月の主人公は20代から40代のワーキングウーマンに絶大な人気を誇る経済評論家で、番組トランスレーターを務める勝間和代さん。今や働く女性のロールモデルとなっている勝間さん。しかし20代から仕事上で様々な逆境に直面、それを持ち前の「学習意欲」と「戦略」で乗り越えてきた。外資系企業に入社するものの「英語」と「プレゼン」が出来ない。マネージャーになるものの部下を上手に統率できない。うまく断れないため連日深夜まで働く日々、、、、。次々と襲う働く女性に共通する仕事上での課題を、勝間さんはどの様に克服してきたのか。4回シリーズでじっくりと掘り下げる。
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勝間和代 KATSUMA Kazuyo・・・1968年、東京都生まれ。慶應義塾大学商学部卒、早稲田大学ファイナンスMBA。大学2年で公認会計士2次試験突破。在学中から大手監査法人に勤務。外資系企業のトレーダー、戦略コンサルタント、証券アナリストなどを経て、経済評論家として独立。ワーキングマザー支援サイト「ムギ畑」主宰。2005年にはウォール・ストリート・ジャーナル紙の「世界の最も注目すべき女性50人」に選出。近著に『断る力』(文春新書)、『会社に人生を預けるな―リスク・リテラシーを磨く』(光文社新書)など多数。内閣府「男女共同参画会議」委員、「ゼロから考える少子化対策プロジェクトチーム」メンバー。3女の母。


第1回 「まず“一人前”になる」
21歳で長女を出産した勝間さんは、仕事と家庭が両立しやすいからと外資系企業に転職。しかし、まず勝間さんに立ちはだかったのが「英語力」。TOEIC420点しか無く、社内報も読めなかった勝間さんは英会話学校に通い、集中的に学習を行った。その結果、1年後には740点にアップした。次のハードルは「論理的思考力」。勝間さんは、周囲の意見を素直に受け止めて絶えざる自己改革を行っていった。第1回は勝間さんがどの様に試行錯誤しながら、自らのスキルアップをしていったのか。「一人前」になるまでの苦労と自己変革の過程を聞く。

第2回 「チームと調和する」
勝間さんは29歳で外資系コンサルティング会社に転職。次なる壁に直面する。それは、 「プレゼンテーション力」と対人関係。勝間さんは上司や同僚へのアンケートを実施。その声を率直に受け止め、話し方に気をつける様になる。さらに「マネージャー」という中間管理職に昇進した時、上司や部下との人間関係に悩んだ。しかし「断る力」「三毒追放」など自ら編み出した工夫で乗り越えて行く。第2回は勝間さんが経験から培ったチームと調和するための仕事術を学ぶ。

第3回 「“やらないこと”が大事だ」
「マネージャー」時代、勝間さんは連日深夜まで仕事を行い、ワインやタバコでストレスを解消させる日々を送っていた。体調は悪化、自殺願望まで生じる様になる。そこで勝間さんが考えたのが「NOT TO DO LIST」。「やらないこと」を決めたのだ。さらに仕事以外の時間も、スポーツや子供との時間など自分への「投資」に充てる事に決めた。さらにワーキングマザーのサイト「ムギ畑」を立ち上げ、同じ悩みを持つ女性の意見を参考に、仕事と家庭の両立しやすい環境を整えていった。自分の仕事を見つめ直し、効率的に改善していった30代前半を振り返る。

第4回 「人生のミッションを決める」
自分の仕事のやり方を確立した勝間さんの次の壁は34歳の時、「自分が本当は何をしたいのか分からない」仕事の目的を見失ったのだ。勝間さんは自分のミッションを確立させる事を考える。そして38歳で独立。組織のとらわれない仕事の実現に邁進し始める。最終回は、勝間さんがミッションを必要とした理由と、その一つ「少子化問題」への取り組みについてじっくりと伺う。
(text from NHK site)

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●知る楽 歴史は眠らない 「戦後日本 漢字事件簿」 漢和辞典編集者…円満字二郎

漢字本が売れ、漢字検定やクイズが人気を集める当節の漢字ブーム。そうした中、使用基準とされる「常用漢字表」(1981年内閣告示)が大きく変わろうとしている。今年1月、国の文化審議会国語分科会が発表した案では、「頃(ころ)」「鬱(うつ)」「岡」など191字が加わり、「匁(もんめ)」など5文字が姿を消す。総数は現行の1945字から2131字へ。来年秋に内閣告示を目指す漢字の規制緩和だ。なぜ常用漢字の大改訂なのか−。漢字制限政策の歴史は曲折し、論争が続いてきた。特に大きな議論を呼んだのが、現行の常用漢字表の前身にあたる「当用漢字表」(1946年内閣告示)だ。1850字に使用を制限した同表は、漢字を一部のインテリから万人へ解放するもの、「民主主義国家」建設に不可欠なものとして大歓迎された。しかし、やがて社会の現実との軋轢(あつれき)が生じる。誰もが使えるための制限か、個性を表現するための自由か。漢字をめぐって制限と自由が相克した事件・騒動の数々。背景には、戦後日本社会の変容が色濃く滲(にじ)む。番組では、今回の常用漢字表見直しの「なぜ」をきっかけに、漢字政策と、戦後という時代がどう絡み合ってきたのかを、当用漢字表の誕生から今日に至る“漢字事件”を通して探っていく。
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円満字二郎 ENMANJI Jiro・・・1967年、兵庫県生まれ。大学卒業後、出版社に就職、高校国語教科書や漢和辞典などの編集を担当する。2005年、『大人のための漢字力養成講座』(ベスト新書)を処女出版して、ライターとしても活動を開始。2008年、17年弱の会社員生活に終止符を打ち、フリーの編集者兼ライターとして活動中。漢字にまつわる「事件」を扱った著作に、『人名用漢字の戦後史』(岩波新書 2005)、『昭和を騒がせた漢字たち』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー 2007)、その他の著書に『心にしみる四字熟語』(光文社新書 2007)、『漢和辞典に訊け!』(ちくま新書 2008)、『太宰治の四字熟語辞典』(三省堂 2009)がある。


第1回 「禁じられた“八紘一宇”(はっこういちう)」
本格的な漢字制限政策が行われたのは、戦後まもなくの昭和21年11月のことだった。漢字の使用を1850字に制限した「当用漢字表」である。この背景には、戦時中のスローガンに漢字が多く用いられていたことがあげられる。「八紘一宇」などの難解な漢字表現が、国民を戦争に鼓舞する一因とされたのだ。戦後、作家・山本有三をはじめとする有識者の多くは、漢字を制限することが民主主義にとって不可欠と考え、当用漢字制定を実現させる。戦後初めて本格的に行われた漢字制限政策への道程から、戦後民主主義に対する日本人の意識のありかたを見つめる。

第2回 「“名前の漢字”をめぐる攻防」
民主主義にとって必要不可欠とされて始まった、戦後の漢字制限政策。しかし、ほどなく、漢字制限は「個人の自由を圧迫する」との声が高まってくる。それが最も顕著に現れたのは人名用漢字だった。1950年、ある父親が「当用漢字にないからといって、我が子に名付けたい漢字を使用できないのは憲法違反だ」と訴え、裁判をおこした。その裁判を巡り、大論争が巻き起こり、漢字制限の是非が問われることとなった。「名前の漢字」をめぐる論争の過程を振り返りながら、日本人にとって漢字を使う意味について考える。

第3回 「常用漢字への軌跡」
日本が高度経済成長をおう歌していた1970年。漢字の世界を揺るがす、ある象徴的な事件が起きる。水俣病患者や遺族が“怨(えん)”の一字が染め抜かれた黒いのぼりを掲げて、チッソの株主総会に乗り込んだのだ。“怨”は当時の当用漢字表に含まれておらず、使用が制限されていた漢字だった。しかし、新聞の見出しや記事に頻繁に使われ、強烈なインパクトとともに日本中に流布された。その背景には、もはや当用漢字にとらわれない自由な表現を求める人々の増大があった。「怨」に込められた人々の思いを通して、高度成長期を経た日本人の意識の転換期を見つめる。

第4回 「漢字制限の“遺産”」
1980年代以降、急速に発展したコンピューター技術は、漢字をとりまく状況を大きく変えた。漢字が「書く」ものから「打つ」ものになり、漢字を気軽に自由に表現できる時代になったのだ。そして今、こうした変化を受けて、およそ30年ぶりに常用漢字表の改訂が進められている。誰もが気軽に漢字で自己表現できる現代、そもそも漢字表は必要なのか? 最終回では、外国人労働者や裁判員制度における漢字使用の実態を取材しながら、漢字制限の意味を改めて問い直す。
(text from NHK site)

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●知る楽 仕事学のすすめ 「“ワーク・ライフ”超両立論」 東レ経営研究所社長…佐々木常夫

仕事学のすすめ。9月の主人公は「ワークライフバランス」の達人、東レ経営研究所社長の佐々木常夫さん。佐々木さんは病身の妻と障害がある息子を抱えながら、ハードな仕事と育児や家事、看病を両立させてきた。その秘けつは「ワークライフマネジメント」の徹底。通勤時間を早め、電車内で仕事をする。デッドラインをもうける。無駄な会議や電話はしない等、徹底した仕事管理を行い、同期トップで取締役に就任。現在は自らの会社で「仕事ダイエットプロジェクト」を行い、社員の仕事と家庭の両立も守っている。番組では佐々木さんが極度のハードワークと大きな問題を抱える家庭をどの様に両立したのか。仕事人生から紡ぎだされた「仕事術」とその哲学に迫る。
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佐々木常夫 SASAKI Tsuneo・・・1944年秋田県生まれ。東京大学経済学部卒業後、東レに入社。結婚して3児をもうけるが、長男は自閉症。続いて妻が肝臓病を患い入退院を繰り返すうちにうつ病を併発、何度かの自殺未遂を図る。その間、育児、家事、看病を一人でこなさなければならなかった。しかも東京、大阪の間を6回の転勤を経験したにも関わらず2001年、同期トップで取締役に就任。2003年から現職。 著書に「ビックツリー」「部下を定時に帰す「仕事術」」がある。


第1回 「“時間管理”に目覚めよ」
佐々木さんが提唱するのは「ワークライフバランス」ではなく「ワークライフマネジメント」。仕事に十分成果を上げて、家庭も大事にして両方を濃くするという考え方だ。そのために佐々木さんは独自の仕事術を編み出している。2か月分の卓上カレンダーを並べて常に長期的な視野に立ち、自分に与えられた時間、「時間予算」を図式化する。そして一日の仕事は徹底した「時間管理」。朝早くに出勤。通勤時間を仕事に充てる。会議間の移動は席に戻らず会議室で一仕事片付けてから次の会議に直行する。自分だけの仕事時間を確保して集中して業務を行う等、「ワークライフマネジメント」の仕事術を佐々木さんの仕事ぶりのVTRを交えながら徹底的に伝える。

第2回 「“他人の力”で仕事せよ」
第二回は、佐々木さんの仕事術を生み出したモーレツ会社員時代を振り返る。課長になった年、妻が急性肝炎で入院、以降3年間で5回の入退院を繰り返す。その前に息子は自閉症と診断されていた。家庭を支えていた妻の突然の病。しかし佐々木さんは仕事を休むわけにはいかなかった。そこで考えたのが「他人の力」を使う事。仕事の能率を図るため、 会社の書庫で過去の書類を見ながら視点や切り口をまね、自分なりにアレンジして精度の高い企画を作る。慣れない営業担当になった時には、その分野の「名人」と呼ばれる先輩にその方法をリサーチしまくった。次に取り組んだのは「部下の効率」。佐々木さんが考えたのは「ムダ洗い出しシート」。表を作り、そこに部下の仕事を項目分けしてどのくらい、時間を費やしたのかを洗い出したのだ。佐々木さんは部下と面接、一人一人の業務のムダを見直し、逆に不足しているものに時間を割く様に指示した。すると自分も効率的な管理が出来て、部下のワークライフも守れるという結果となった。「他人の力」を使ってどう自分の仕事を効率化するか。佐々木さんのノウハウと哲学を聞く。

第3回 「“家族の悩み”は分かち合え」
効率的な仕事術で業績を上げ、順調に出世した佐々木さんに大きな転機が訪れる。それは2001年同期トップで取締役に就任した直後に起きた妻の自殺未遂だった。自分の「完璧さ」が妻を追い詰めたと感じた佐々木さんは、仕事と家庭の在り方を見つめ直さなければならなくなった。そして決断したのは会社への公表。さらに2年後には東レ経営研究所の社長に就任。時間が出来た佐々木さんは、娘と一緒に崩れかけた家庭を修復。今では妻も回復傾向にある。家族がピンチの時、その問題をどの様に解決に導けばいいのか。そしてその時、孤立せず周囲にどの様に訴えかけて支えてもらうか。佐々木さんの体験から学ぶ。

第4回 「“ムダな残業”は追放せよ」
最終回は部下に残業をさせないための仕事学。佐々木さんは今年6月から夕方6時に社員を帰宅させるために新たな試みを始めた。名付けて「仕事ダイエットプロジェクト」。「ムダ洗い出しシート」の徹底。事前に資料を配布し、必要最小限の人数、短時間で行うスリムアップした会議など、改革が進んでいる。佐々木さんは部下の残業が減らないのは上司に責任があると指摘する。職場のリーダーである中間管理職が意識を変える事が改革に繋がると考えているからだ。佐々木流、ムダな残業の減らし方を徹底取材する。
(text from NHK site)

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> 視点・論点 「部下をどう育てるか」あり





●知る楽 歴史は眠らない 「ニッポン借金事情」 国立歴史民俗博物館教授…井原今朝男

現代社会には、「借金」があふれている。消費者ローンや住宅ローンなどの個人の借金から、社債、国債など大規模なものまで、借金なしには成り立たないと言われる。しかし実は、日本では古くからさまざまな借金があり、暮らしと切っても切れない生活の道具だった。中世には債務者を必要以上に追い込まないという慣習があった。法外な利子は返さなくてもよく、借金が返済できなくとも担保が「質流れ」になることもなかった。近世は、借金をテコに蓄財する商人が台頭、江戸後期にはその商人の力が武士をもしのぐ力となって大名に貸し付ける商売が大流行。質流れの土地が大商人に集中してゆく。そして明治以降は、土地の私有化や社会の大衆化と共にさまざまな借金が登場する。その歴史を見ると、貸し手と借り手のルールは一定ではなく、時代の「常識や習慣」によって変わってきた。借金はまさに、支配者から庶民まで日本の世相を映す鏡なのだ。日本人の「借金」の変遷を歴史的にたどり、人々や社会の有様の変化を描きながら、借金が日本の歴史に与えてきた意味を探っていく。
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井原今朝男 IHARA Kesao・・・1949年長野県生まれ。静岡大学人文学部卒業。高等学校教諭、東京大学史料編纂所内地研究員、長野県立歴史館などを経て現職。総合研究大学院大学教授を兼任する。史学博士(中央大学。荘園史や農村生活史など中世の社会経済史研究、地方寺院史研究に長く携わり、近年は債務史研究という未開拓の分野に乗り出している。著書に『中世の借金事情』(吉川弘文館)、『中世寺院と民衆』(臨川書店)、『中世のいくさ・祭り・外国との交わり――農村生活史の断面』『日本中世の国政と家政』(以上、校倉書房)などがある。


第1回 「借金は社会の潤滑油」
中世の日本では生活の中で借金をすることが当たり前だった。金を借りて米を返す「出挙(すいこ)」、一座の者がくじ引きで借り手を決める「無尽銭」、寺社の「勧進」など、その種類は約50種。借金はその支払い額が総額で倍以上になることはなく、借りた銭を物や労働で返してもよかった。また、本人の承諾なく土地を追い出し財産を取り上げることも禁じられていた。これは中世に頻発した飢きんが背景になり、お金より大切なもの(=共同体の維持)を守ったことが原因の一つ。「吾妻鏡」には、伊豆国仁科荘では飢きんの時に領主が北条康時に訴えて種もみ30石をださせ更に「返済を無理強いしない」と通達している。借り手優位の社会では、借金はむしろ社会的紐帯(ちゅうたい)を維持する装置でもあった。中世の借り手貸し手の関係から、借金の意外な機能を見つめる。

第2回 「借金も財産のうち」
戦国時代、借金を上手に利用したのが堺の商人衆である。16世紀の記録では海外貿易で潤う堺の商人12人が共同で170貫文をきわめて低金利で借金した記録がある。堺の僧である龍首座(りゅうしゅそ)は、勘合貿易の資金を借金で工面し、1000貫文以上の利益をあげた。利益は金を貸した武家や商人にも還元された。これはある意味で、株式会社に通じる資金調達を、借金の形で行っていたと言える。さらに、室町時代の天皇家の財政帳簿である「船橋清原家旧蔵史料」は、天皇家のばく大な費用の一部がこの堺商人からの借金で賄われていたことを伺わせる。「借金」が商人を台頭させ、近世経済を形作った歴史を掘り起こす。

第3回 「借り手保護から貸し手保護の時代へ」
江戸時代から昭和の終戦まで、日本一の地主と言われた山形県酒田の本間家。こうした大地主が登場するのは、江戸時代のある事件が関係している。八代将軍吉宗の時代におきた「質地騒動」だ。享保8(1723)年、山形の長瀞村の小作人が借金の証文を貸し主から暴力で取り戻す一揆が発生。この騒動が原因で、借金の担保である土地を返済できなくても取り上げてはいけないという「借りて保護」の法令を幕府が撤回した。以後の日本では「貸し手の優位」「借金の担保としての土地」が経済基盤となり、明治維新から昭和を通じて続くこととなる。そんな中、低利子で貸し金を行った本間家は人望を得、その所有地を広げていく。借り手の保護から貸し手の保護へと至る日本の借金の歴史の転換点を見つめる。

第4回 「貸し手優位の時代」
住宅は経済成長の原動力であり、それを実現させたのが住宅ローンだ。日本初の住宅ローンは、明治29年の東京建物という不動産会社のローン。明治維新で土地私有が可能となり、土地が借金の担保として売買の対象となったからだ。こうして「土地を担保のローン」というシステムができあがり、地価は上昇の一途をたどる。しかしその図式は日本でバブル崩壊、米国ではサブプライム問題の発生とともに崩壊を始めた。住宅ローン破たん者の救済をオバマ大統領が掲げたように、社会はふたたび「借りて保護」の思想に立ち戻ることができるのか。これからの庶民の借金事情の行方を探る。
(text from NHK site)

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●知る楽 仕事学のすすめ 「現場流 スーパー人事力」 JR東日本代表取締役副社長…新井良亮

仕事学のすすめ。11月の主人公はJR東日本代表取締役副社長の新井良亮さん。新井さんは栃木県の地元の高校を卒業後、国鉄に入り、蒸気機関車の石炭運びや電車運転士など鉄道の現場を経験した。その間大学の夜間部に通う程の頑張り屋で、そこで学んだ組織論を生かし、その後、人事部でさまざまな制度改革を行った。更にその後「エキナカビジネス」という新規プロジェクトを立ち上げ、女性を抜てき、さまざまな障壁を乗り越えて実現させてきた。常に現場の目線で考え、努力した人を正しく評価したいとしてきた、人事の極意を新井さんに語ってもらう。
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新井良亮 ARAI Yoshiaki・・・1946年、栃木県生まれ。足尾高校卒業後、日本国有鉄道入社。足尾線通洞駅、桐生機関区を経て、68年八王子機関区電気機関助士、71年4月中央大学法学部入学、同年12月中野電車区運転士、75年3月大学卒業。その後渋谷駅、新宿駅勤務を経て、77年6月東京西鉄道管理局総務部人事課。87年4月東日本旅客鉄道(JR東日本)入社、東京圏運行本部総務部人事課。97年東京地域本社事業部長。2000年6月取締役に就任。02年常務取締役。03年JR東日本ステーションリテイリング社長(05年6月まで)、エキュート立ち上げなどを経て、09年6月JR東日本代表取締役副社長事業創造本部長就任。


第1回 「エキナカをつくった“熱い”人材たち」
新井さんがエキナカビジネスに取り組んだのは、鉄道事業が今後大きな成長を見込めない中、駅という空間を最大の経営資源と考え、お客を乗客としてだけでなく、消費者や、顧客としてとらえ直す可能性に気づいたからだった。その事業のリーダーとして当時としては異例の女性を抜てき、その理由をこれまでの経験から「マーケットは男性でなく女性がつくるものだ」と考えていたからだ。新規事業を始める中で、どんな障壁があり、それをどう乗り越えていったのか。またどのように部下をやる気にさせたのか、新井さんにそのコツを語ってもらう。

第2回 「“頑張れば報われる”組織に」
高校卒業後、国鉄に就職したものの景気悪化の中で家庭待機をさせられた新井さん。縁故採用のものが春から業務に就いていたことを知った新井さんは、組織に疑問を感じ始める。その時に「頑張れば報われる組織に」と思うようになり、一念発起して働きながら大学に進学、組織論を学ぶことになった。その後、念願の人事課に配属されたが、マージャンや飲み会などつきあいが多く、仕事する時間を下さいと先輩たちに食ってかかることもあったという。その後パソコンを導入したり、本人の異動先の希望を聞くなどの人事制度改革に乗り出した。新井さんの苦労した人生を語ってもらいながら、どのように人事制度を変え、頑張れば報われる組織にしようとしたかを語ってもらう。

第3回 「不可能を可能にする説得術」
新井さんがエキナカビジネスを始めるに当たって一番気を使ったのが地元の商店街との折衝だった。「駅に商業施設ができることでお客をとられるのでは」と反対意見が噴出したのだ。その時新井さんは「どっちが得するか損するではなく、お客にとって何が一番喜ばしいのか一緒に考えていきましょう」といって説得に当たった。また地元にもメリットがあるように駅の間口を大きくとり、駅から街が見渡せるようにも工夫した。また「車両のラッピング広告」を提案したときも車両の美観景観を損ねると社内から反対があったが、新井さんは新しいことに取り組んでいかないと組織は停滞すると説得を重ねた。 ビジネスマンに必要な相手への説得術を新井さんから学ぶ。

第4回 「トップが語る人事のツボ」
いままで人事部で多くの人間に面接してきた新井さん。15分で相手がどのような人物かわかると豪語する。左遷されたと嘆く社員にも「長い人生の中では地味な仕事をすることもある。しばらく休養をもらったと考えて力を蓄えて次のステージを目指せばいい」と励ますと同時にグループ企業に40代の若い社長を次々と抜てきしている。そこには社員のモチベーションを上げることが結果的に組織にプラスに働くという彼の考えがある。どんな若手の人材が求められ、どんな中間管理職が望まれるのか、人事のプロがその極意を語る。
(text from NHK site)

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●知る楽 こだわり人物伝 「松本清張 孤高の国民作家」

今年、生誕100年(1909(明治42)年12月21日生)を迎える作家・松本清張。「点と線」、「ゼロの焦点」、「砂の器」、数え切れないほどのベストセラーを生み出し、没後17年が過ぎた今なお、著作の多くが売れ続けている希有(けう)な作家である。日本人にこよなく愛された「昭和の巨人」、松本清張。しかし、作品の膨大さ、また手がけたジャンルの広さゆえに、その実像は容易に理解されず、批判やちょう笑を受けることも多く、孤高の作家でもあった。清張が描きたかった世界とは何だったのか。4人の語り手が、今、改めて巨人の実像と魅力に迫る。
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語り手(第1回)|阿刀田高 ATOUDA Takashi
1935年、東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、国立国会図書館に勤務。69年『ブラックユーモア入門』でデビュー。79年『来訪者』で日本推理作家協会賞受賞、同年、短編集『ナポレオン狂』で直木賞受賞。95年『新トロイア物語』で吉川英治文学賞受賞。その他の主な著書『冷蔵庫より愛をこめて』(講談社)、『ギリシア神話を知っていますか』(新潮社)、『プルタークの物語』(潮出版社)、『松本清張あらかると』(中央公論社)、『松本清張を推理する』(朝日新書)など。奇妙な味わいとブラックユーモアを併せ持った短編で知られる。現在、日本ペンクラブ会長。

語り手(第2回)|みうらじゅん MIURA Jun
1958年、京都府生まれ。武蔵野美術大学卒業。1980年に漫画誌『ガロ』でデビューという。漫画にとどまらず、エッセイ、小説、音楽、テレビ出演などで幅広く活躍。サブカルチャー的なシーンで独特の人気を保ちつづけている。著書『アイデン&ティティ』(角川文庫)、『とんまつりJAPAN』(集英社)、『色即ぜねれいしょん』(光文社)、『正しい保険体育』(理論社)、『青春ノイローゼ』(双葉社)、『ゆるキャラ大図鑑』(扶桑社)、『アウトドア般若心経』(幻冬舎)、『十五歳』(TBSサービス)など多数。

語り手(第3回)|小森陽一 KOMORI Youichi
1953年、東京都生まれ。国文学者。専門は近代日本文学。小中学校時代の数年間を、日本共産党員だった父親の仕事の関係で、チェコスロバキアのプラハで過ごした経験を持つ。北海道大学文学部卒業、同大学院修了。夏目漱石研究、ポストコロニアル研究、また、憲法9条の改正に反対する「九条の会」の事務局長としての活動も知られている。主な著書『文体としての物語』(筑摩書房)、『夏目漱石をよむ』(岩波書店)、『最新宮沢賢治講義』(朝日新聞社)、『世紀末の予言者・夏目漱石』(講談社)、『ポストコロニアル』(岩波書店)、『レイシズム』(岩波書店)、『ことばの力 平和の力――近代日本文学と日本国憲法』(かもがわ出版)、『理不尽社会に言葉の力を』(新日本出版社)など。

語り手(第4回)|辻井喬 TSUJII Takashi
1927年、東京生まれ。本名・堤清二。元セゾングループ代表。東京大学経済学部卒業後、54年に西武百貨店に入社、55年に同百貨店の取締役店長。そのかたわら執筆活動にいそしみ、55年に詩集『不確かな朝』(書肆ユリイカ)で詩人デビュー。以後、文筆家と経済人の二つの顔を持って活躍しつづけた。主な詩集に『異邦人』(書肆ユリイカ、室生屑星詩人賞受賞)、『群青、わが黙示』(思潮社、高見順賞受賞)、『自伝詩のためのエスキース』(思潮社、第27回現代詩人賞受賞)、主な小説に『いつもと同じ春』(河出書房新社、平林たい子文学賞受賞)、『虹の岬』(中央公論社、谷崎潤一郎賞受賞)、『父の肖像』(新潮社、野間文芸賞受賞)など。近著に『遠い花火』(岩波書店)、『叙情と闘争』(中央公論社)、『古寺巡礼』(角川春樹事務所)など。


第1回 「『点と線』−ミステリーの新たな潮流」 語り手: 阿刀田高
清張の名を一躍世に知らしめることになったのは、1958(昭和33)年に出版された「点と線」であった。荒唐無稽(こうとうむけい)なトリックが中心だった従来の探偵小説に比べ、人間の 犯罪にいたるまでの心の内面や動機を描いた清張ミステリーは「社会派推理小説」と呼ばれ、史上空前のブームを巻き起こし、その後のミステリーの在り方を大きく変えた。つねに大衆と向き合う、優しき目線を持ちながら、人間を、そして社会を描くことにこだわり続けた清張の原点と作品世界の魅力に迫る。

第2回 「『ゼロの焦点』−因果応報の世界」 語り手: みうらじゅん
「清張作品の魅力が本当に分かるのは、結婚してから」と語るみうらさん。人間にとって、一番怖いのは守るものがあることであり、清張作品では、自分の持っているものを守ろうとする「煩悩」や後ろめたさが仇(あだ)となって、事件が起き、最後に必ず地獄が待っているー。毎年一回は、映画「ゼロの焦点」を観て、自分を戒めるというみうらさんが、清張の小説世界に通底する仏教観、「因果応報」の世界について語る。

第3回 「『日本の黒い霧』−歴史観の革命」 語り手:小森陽一
清張は、ミステリーや時代小説だけではあきたらず、『日本の黒い霧』『昭和史発掘』などで果敢にノンフィクションの世界にも挑んでいった。ことに、占領期に起こったさまざまな怪事件の背後にGHQの謀略が潜んでいると指摘した『日本の黒い霧』は、流行語になるほど話題を呼んだが、一方で低俗な謀略史観だと強い批判を受けた。しかし、小森さんは、混とんとした社会となった現代にこそ、改めて清張の歴史観を見直す必要があると語る。清張が切り開いた新たな歴史観と、今に生きる私たちが清張から学ぶべきものについて考える。

第4回 「『砂の器』−タブーへの挑戦」 語り手: 辻井喬
1963(昭和38)年、文壇を揺るがすちょっとした事件が起きた。中央公論社が『日本の文学』全80巻の刊行に当たり、編集委員だった三島由紀夫が清張を入れることに強硬に反対したのだ。「清張はしょせん大衆小説。文学ではない」。辻井さんは、その理由を「清張の文学は文壇の常識的な分類のどこにも収まりきれない性質のものだったから」と語る。しかし、文壇から拒否され、どこにも属さなかったからこそ、清張は、日本人の“集合的無意識”から自由であり、社会のさまざまなタブーを鋭く描くことができたのではないかと、辻井さんは考えている。国家や国境といった既成の概念が崩れつつある現代における「新種の国民作家」、松本清張の再評価について考える。
(text from NHK site)

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●知る楽 探究この世界 「松井今朝子 極付歌舞伎謎解(きわめつきかぶきのなぞとき)」 作家…松井今朝子

日本の伝統文化、歌舞伎―「昔からあるものだから、ありがたいんだろうな」というふうに「ひとごと感覚」で歌舞伎を見ていませんか?歌舞伎の脚本や演出も数多く手がけ、歌舞伎界を舞台にした小説も描いてきた直木賞作家の松井今朝子さんが“目から鱗”の歌舞伎の楽しみ方を教えてくれます。松井さんは、いま私たちが見ている歌舞伎とはいろいろな時代の演劇、さまざまな舞台芸能が積み重なった「地層の断面図」のようなもの、と言います。そこに見えるのは、時代の波に洗われながら私たちの祖先が無意識のうちに選んできたものだと。このシリーズでは松井さんが8本の演目をセレクト。演目の成り立ちや当時の観客の受け取り方を掘り返してみることで、日本人が作り上げてきたものの面白さを確認し、私たち日本人とはいったい何なのか、探っていきます。
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松井今朝子 MATSUI Kesako・・・1953年京都生まれ。早稲田大学大学院文学研究科演劇学修士課程修了。松竹株式会社に入社し歌舞伎の企画・制作に携わる。退社後フリーとなり、故・武智鉄二に師事して歌舞伎の脚色・演出・評論などを手がける。その一方で、『マンガ歌舞伎入門』『ぴあ歌舞伎ワンダーランド』、CD-ROM『デジタル歌舞伎エンサイクロペディア』など、歌舞伎啓蒙媒体の監修に取り組む。97 年『東洲しゃらくさし』で小説家としてデビュー。同年『仲蔵狂乱』で第8回時代小説大賞を受賞。2007年『吉原手引草』で第137回直木賞受賞。ほかの主な著書に『幕末あどれさん』『一の富 並木拍子郎種取帳』『非道、行ずべからず』『似せ者』『そろそろ旅に』など多数。


第1回 「お約束のヒーロー登場−“暫”」■OK
今回取り上げる演目は「暫(しばらく)」。「歌舞伎の地層断面図」の中でも最古層に属するもののひとつで、若さあふれるヒーローが「しばらく〜」というセリフとともに登場し、悪人をこらしめ、颯爽と退場する、いたって単純な舞台です。江戸時代、初代市川團十郎によって初演されて以来、いろんなバリエーションで演じられてきました。人々はこの芝居のどこに興奮し、喝采をおくったのでしょうか。その人気のヒミツに迫ります。

第2回 「光源氏の末裔−“廓文章”」■OK
江戸の「暫」に対し、上方の歌舞伎で、もっとも古い「歌舞伎の地層」につながっているものの一つが「廓文章(くるわぶんしょう)」という作品。主人公は、大金持ちの息子だったのに、女に入れあげたあげくおカネを全部使い切って落ちぶれ、女のところに来てはぐじゃぐじゃ言うという情けない男。松井さんはこの手の主人公を「困り者ヒーロー」と呼びます。日本には確かに存在する「困り者ヒーロー」の系譜。こんなヒーローがなぜ好まれるのか探ります。

第3回 「身替わり劇のメカニズム−“菅原伝授手習鑑〈寺子屋〉”」■OK
「寺子屋」は「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」という長い芝居の中の一部分。主君のために子どもを身替わりにする「身替わり劇」です。この「寺子屋」に限らず、歌舞伎には子どもを身替わりにする話がたくさんあります。なぜ、それが日本人にうけたのでしょうか。いつの時代の日本人にも共通するある感情に、そのヒミツを探ります。

第4回 「人間を省みる動物ファンタジー−“義経千本桜〈四ノ切〉”」■OK
歌舞伎には実にたくさんの動物が登場します。獅子、虎、牛、馬、猿、鼠などなど。今回取り上げる「義経千本桜〈四ノ切(しのきり)〉」では狐が活躍します。ポイントは、狐の親子の情に人間が逆に教えられるというお話になっていること。動物や自然に学ぶという姿勢や感性こそが、豊かな自然というものに対する日本人の向き合い方だったのかもしれません。

第5回 「任侠の原点−“夏祭浪花鑑”」■ザラ
今回取り上げる演目は「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」。主人公が、我慢に我慢を重ねたあげくに最後はプツンとキレるという展開のストーリーです。1740年代の日本では「客物(きょうかくもの)」が大流行しました。数世紀を経てスクリーンに登場した高倉健さん主演のヤクザ映画の原点がここにあったのです。日本人が大好きな「我慢の美学」に迫ります。
(text from NHK site)

NHK教育 25min 2009-11-30〜(2009年4-5月のアンコール)
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6〜8回は地デジ録画 --->BDR-0001





●知る楽 こだわり人物伝 「岡部伊都子 弱き者へのまなざし」

戦後、女性ライターの先駆けとして活躍した随筆家、岡部伊都子(おかべ・いつこ)。花や寺など、日常に宿る美しさをみずみずしい感性でつづる一方、戦争や差別などさまざまな社会問題に対し鋭い批判を繰り広げた。岡部は、去年85歳で亡くなるまでに134冊の作品を発表。亡くなって1年以上が過ぎた今も、その作品は鮮烈な輝きを放ち続けている。岡部を表現するキーワードは「加害の女」。太平洋戦争中、婚約者を戦地に送り出した自分をこう呼び、その“原罪”を死ぬまで問い続けた。岡部は自らの生き方を通して反戦や反差別を訴え、国家や権力と対じしたのである。岡部の強くしなやかな精神力を支えたものは何だったのか、その人生に迫りながら、岡部の心の奥を探る。
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語り手(第1回・第4回<対談>)|佐高信 SATAKA Makoto
1945年、山形県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、山形県で高校教員となり、その後上京。雑誌『現代ビジョン』編集長などを経て、評論家活動に入る。歯に衣着せぬ政治評論、企業批判などで知られる。著書『逆命利君』『官僚国家=日本を斬る』『日本の権力人脈(パワーライン)』『佐高信の政経外科』『佐高信の筆刀両断』『わたしを変えた百冊の本』『タレント文化人筆刀両断!』『司馬遼太郎と藤沢周平――「歴史と人間」をどう読むか』『福沢諭吉伝説』『城山三郎と久野収の「平和論」』など多数。

語り手(第2回・第4回<対談>)|落合恵子 OCHIAI Keiko
1945年、栃木県生まれ。明治大学文学部卒業後、文化放送にアナウンサーとして入社。「セイ!ヤング」などのパーソナリティーとして人気を博す。70年代半ばごろから作家活動。子どもの本の専門店「クレヨンハウス」、女性の本の専門店「ミズ・クレヨンハウス」の経営でも知られる。児童虐待や女性問題、心の問題などに対しても積極的な提言を行っている。著書『夏草の女たち』『ザ・レイプ』『絵本屋の日曜日』『午後の居場所で』『母に歌う子守唄』『小さな手、折れた翼――子どもの性的搾取・虐待をなくすために』『崖っぷちに立つあなたへ』など多数。

語り手(第3回)|窪島誠一郎 KUBOSHIMA Seiichirou
1941年、東京都生まれ。飲食店、小劇場、画廊経営など多彩な経歴を持つ。76年、戦争で生き別れになっていた実父・水上勉氏との劇的な再会で話題となった。79年、長野県上田市に夭折画家のデッサンを集めた「信濃デッサン館」、97年に戦没画学生の作品の美術館「無言館」を開館。講演、執筆など、幅広く活動している。著書『父への手紙』『信濃デッサン館日記』『わが愛する夭折画家たち』『無言館ものがたり』『「明大前」物語』『京の祈り絵・祈りびと』『「無言館」の青春』『絵を見るヒント』など多数。


第1回 「私は“加害の女”」 語り手: 佐高信
太平洋戦争真っただ中の1943年(昭和18)。19歳だった岡部伊都子はあこがれの男性と婚約。しかし、まもなくその婚約者は出征。戦地に赴く日、彼は岡部にだけ「こんな戦争は間違っている。天皇のために死ぬのは嫌だ」と本心を打ち明けたが、岡部は「私なら喜んで死ぬ」と言って送り出してしまう。
結局、婚約者は沖縄戦で戦死。戦後、随筆家として歩み始めた岡部は、終戦から23年たって漸く、婚約者が戦死した地を訪れる。そこで、岡部は、自分は婚約者を失った被害者ではなく、婚約者を死に追いやった加害者であると痛感。自分自身を「加害の女」と呼ぶようになり、亡くなるまで、その罪悪感を随筆に刻み続けた。過去の誤った「自己」を捨てることなく、その「自己」にこだわり続けた岡部伊都子の心に迫る。

第2回 「美を慈しんだ強き人」 語り手: 落合恵子
随筆家、岡部伊都子の名が広く知られるようになったのは高度経済成長期の1962年(昭和37)。39歳で著した『観光バスの行かない…埋もれた古寺』がヒットし、女性の間でこの本を片手に寺を訪ね歩くというブームが巻き起こった。人が気にも留めないような何気ない美しさや見落としがちな命を慈しみ、格調高い文章で読者を魅了した岡部。その一方で、かけがえのない美しさや小さな命を踏みにじる権力に対しては、作家生命をかけて、抗い、対じした。病弱で死を見つめざるをえなかった少女時代や、離婚を経験し、生活の糧を得るために無名の作家としてデビューしたエピソードなどをまじえながら、 志を貫いた岡部の強じんな精神に迫る。

第3回 「戦地 沖縄に立つ」 語り手:窪島誠一郎
終戦から23年後の1968年(昭和43)、岡部伊都子は初めて沖縄の地を踏む。それは沖縄戦で戦死した婚約者を追悼する旅だった。婚約者が戦死した場所に立った岡部は、自分こそが彼を死に追いやった「加害の女」であることを痛感。更に、当時、アメリカの統治下にあった沖縄が、泥沼化するベトナム戦争の後方基地と化していることを目の当たりにする。そこに「日本なるものの正体」を見いだした岡部は、基地を含む全面返還を求めるデモ行進に参加。本土の人たちに、犠牲を強いられている沖縄の現実を強く訴えるようになっていった。岡部が刻んだ言葉は、いまだに基地問題に揺れる沖縄の苦しみを投影し、現在も色あせることがない。随筆家、岡部伊都子が半生をかけて取り組んだテーマ「沖縄」に焦点を当て、岡部にとって償いと癒しの地であった「沖縄」に迫る。

第4回 「 孤独を友に刻々と」 語り手: 佐高信・落合恵子<対談>
随筆家、岡部伊都子の強じんな精神を培ったのは何だったのか。病弱で病床に伏して過ごす日々を送った幼少期。最愛の兄と婚約者を太平洋戦争で失った青年期。7年で破たんした結婚生活。岡部は「孤独」の中から自分の人生を見つめ直し、1953年(昭和28)、ペン一本で、誰にも甘えずに生きていく覚悟を決めたのである。岡部が「孤独」と向き合うことによって深めていったテーマが「差別」、そして「人間の尊厳」であった。差別のない社会の実現を子供たちに訴えた童話『シカの白ちゃん』。激しい差別と偏見にさらされてきたハンセン病問題について、デビュー以来50年にわたって取り組んだ『ハンセン病とともに』。岡部のゆるぎない思いが刻まれた作品を紹介しながら、岡部が人生の友として歩んだ「孤独」、そして「孤独」と向き合うことの大切さについて考える。
(text from NHK site)

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NHK教育 25min 2009-12-02〜 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->EL1200





●知る楽 歴史は眠らない 「裁判員制度への道」 一橋大学大学院教授…青木人志

今年5月に裁判員制度が施行され、国民一人ひとりが有罪・無罪の判決に加わる時代が来た。「民主主義の実現」、「司法の信頼を高める」、「司法と国民の距離が近くなる」など社会的な意味が叫ばれる一方で、国民の間には消極的な意見が未だ根強い。人を裁くことに対する責任の重さや、自信の無さが主な理由だ。その裏には、司法を遠ざけてしまう国民性が垣間見える。それはいつどのように生まれたものなのか。そして、国民は裁判とどのように向き合ってきたのか。日本における裁判の歴史を辿りながら、裁きに対する日本人の意識がどのように醸成されてきたのかを探り、裁判員制度が実現したことの意味を改めて考える。
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青木人志 AOKI Hitoshi・・・1961年山梨県生まれ。一橋大学法学部卒業。同大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学。一橋大学博士(法学)。法律学の世界でも新しい研究領域である比較法文化研究に着目し、西洋中心主義的な世界観を相対化した新しい比較法文化研究に取り組む。著書に『「大岡裁き」の法意識――西洋法と日本人』(光文社新書)、『動物の比較法文化――動物保護法の日欧比較』(有斐閣)、『法と動物――ひとつの法学講義』(明石書店)、共編著書に『日本法への招待』(有斐閣)などがある。

第1回 「“大岡裁き”の深層」
「裁きはお上がするもの」という日本人の法意識。その源泉を探ると、あの名奉行・大岡越前守に辿り着く…。大岡越前といえば人情味あふれる名裁きで有名だが、実は今に伝わる物語のほとんどが作り話だ。実際の越前は、不義密通の男女に死刑の判決を下すような厳しい裁判官だった。その大岡越前をなぜ私たちはヒーローと受け止めてきたのか。その裏には、江戸幕府が庶民の心を掌握していった、絶妙な統治の仕方があった。大岡越前の虚像と実像に、日本人の法意識の原点を探る。

第2回 「国家か権利か 明治の相克」
国民の司法参加は、ひとつの「権利」の実現とされる。実は、100年以上前に、日本でこの権利を実現しようと格闘したフランス人法学者がいる。明治維新後、裁判の近代化を目指す政府が、フランスから迎えたボアソナードだ。彼は国民が参加する裁判を当然のこととして、陪審制の導入を提唱した。しかし、日本政府の強い反発により、それはかなわなかった。フランス人法学者ボアソナードと陪審制反対派の中心人物・井上毅のやりとりを軸に、西洋と日本の法意識の激突を見つめる。

第3回 「陪審制15年の挫折」
国民の司法参加は、実は日本で戦前、一時的に実現していた。昭和3年から18年まで行われていた陪審制である。それが15年の短期間で終わったのはなぜか。その謎を探ると見えてくるのは、裁判に対する日本人の価値観だ。この陪審制は国民の権利を実現したものではなく、国家の権威を維持するためのものだった。国民の司法参加の一形態とされる陪審制の導入と停止の経緯を読み解く。

第4回 「苦闘のバトン」
明治初期の陪審論争、戦前の陪審制、そして戦後GHQの司法制度改革。国民の司法参加は何度も議論に上がりながら、定着することなく現在を迎えた。こうした日本人の経験の少なさから、裁判員制度に疑問を唱える声は少なくない。ではなぜ、先送りにされ続けてきた国民の司法参加が、いま実現したのか。戦後の裁判制度の歩みを検証し、私たちが裁判に参加することの意味を改めて考える。
(text from NHK site)

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NHK教育 25min 2009-12-01〜(2009年7月のアンコール)
Air check by Sony Giga Video Recorder v4 解説副音声 (MPEG-1) --->EL1200

> BDR-0030に、ETV特集・選 「裁判員へ」 〜元死刑囚・免田栄の旅〜 あり。








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