VD-225

SP
50min
53min


NHK総合/テレビ東京



●NHK SPECIAL 「海のけもの道を探せ」 〜巨大定置網に見る日本の知恵〜

奥深い森の中を、シカやキツネなどの動物が行き交う「けもの道」。
海の中にも同じように、魚たちが必ず通る「海のけもの道」がある。
そこで、待ち伏せする漁師たちの巨大なワナ、それが定置網漁である。
箱型になった網の大きさは、横450メートル、縦90メートル、深さ80メートル、およそ霞ヶ関ビルの6倍の容積にもなる。
その構造は実に複雑で、魚の習性を知り尽くした漁師たちの巧妙な仕掛けが、幾重にも施されている。
最近の鮮魚ブームの中では、定置網で獲れる魚が特に注目をあびている。
他の漁法と違って魚の体を傷つけず、活かして市場に運ぶこともできるからである。
定置網の起源は古く、今から400年ほど前、関ヶ原の合戦の頃である。
そのいわれは、戦に敗れた武将が漁師になった時、敵兵を狭い場所に追い込む軍略を活用したとも言われている。
その後、富山県氷見市灘浦などで次々と改良が加えられ、全国津々浦々に広がっていったのである。
日本の漁師が経験を元に、長い歴史のなかで作り上げた実に巧みなワナ「定置網」。
その技術の粋を見ることで、魚たちの謎に満ちた行動を解き明かしていく。
(text from NHK site)

2002-03-10 AFM Stereo



●芸術に恋して! 「銀座と夢二とデザイン王国」

名車の呼び声高いオートバイヤマハYA-1、新幹線「こまち」、キッコーマンの卓上しょうゆ瓶・・・
いったい何の共通点があるのだろうか?
実はこの三つは、日本の商業デザインの第一人者でもあるデザイナー栄久庵憲司氏の作品である。
そんな栄久庵氏が最も尊敬するデザイナー、それが竹久夢二なのである。

「デザイナー?」と首をかしげる人も多いはず。大正期に“夢二式”と代名詞になるほどの
美人画を描いた大家だからである。その彼がどうしてデザイナーなのか?

それは今から3年前の大発見で証明された。 江戸時代から版画を守る「うんそう堂」の蔵から出てきたのは、
大正中期に描かれた夢二のデザイン原画であった。当時はこれを便箋やハガキ、千代紙にして販売していたのだ。
つまりこのデザイン画は商品に刷る直前の状態のものなのである。80年ほど経った今でも全く古さを感じさせない洗練されたデザイン。
それはそれまで“画家”としてのみ捉えられていた夢二を覆さなければならないほどの大発見だったのだ。
さらに、夢二がデザイナーであったことを裏付ける様々な事実がある。
夢二デザインのお店「港屋」、秘められていたバランス感覚、元祖CMソング…。

美人画の大家そしてデザイナーとしての夢二。一体、彼のもとめるものは何だったのか?
常に女性たちのあこがれの聖地として栄えてきた街が銀座である。
今から100年前は、おしゃれに長けた人たちを「モダンボーイ」、「モダンガール」、略して「モボモガ」と呼んでいた時代だった。
彼らのあこがれの聖地、それは、資生堂だった。 そんな大正時代のある時、モボ・モガたちの話題の店が登場する。
場所は銀座から1キロほど離れた日本橋・呉服町。その名の通り呉服店が軒をならべる職人街。
だが、そこに夢二の店「港屋絵草紙店」があったのだ。店前には目印となる涼しげな大提灯、
そして店主は自らの絵のモデルともなった妻の“たまき”。すべてが夢二によって創られた店。
今でいうと、まさしくブランドショップなのである。また当時の人気を近代画家の一人、渋谷修は当時の「港屋」は、
東京名物の一つで、特に若い女性の人気はすごかったと回想している。商品は絵葉書、手拭い、団扇、半襟、浴衣、本・・・
商品のそれぞれに夢二のデザインが施されているものの、その品物のほとんどが日用品の部類で、
宝石や洋服といった高級品の類は一切置かれていない。夢二がデザインしたもの、それは生活品に限られていたのだ。
時は大正デモクラシー。ようやく一般女性たちにも権利や娯楽が芽生え始めてきた頃である。
その真ん中に夢二はいたのだ。当時の夢二は「宿帳によく日本画の大家なんか、美術家とか画伯とかいっておるが、
これを自分で書いたのかと思うと少しおかしい。“絵描き”も変だし、“アーティスト”、“ペインター”もいけない。
このごろでは、絵を描くことと余儀なくかいておく」と自らを語っている。
当時自分の手元を離れ、芸術として崇高にもてはやされた絵画作品。
そういった扱いに対して背をむけていた夢二。常に夢二は庶民の立場にいた芸術家だったのだ。
その彼が大衆に芸術を楽しんでもらうために考え出した方法こそが、「デザイン」だったのではないだろうか。

「港屋」に置かれた日用品にちりばめられた夢二のデザイン。それはまさに生活と芸術が溶け込んだ、日本のデザイン史の先駆けだった。
竹久夢二の数々の作品を残す伊香保記念館の研究者、館長の小暮さんは「夢二の作品は黄金分割でなりたっている…」と語る。
「黄金分割」とは、古代ギリシャ時代から最も美しい比率と考えられ彫刻、建築物などに多いに利用されたものである。
その比率は1:1.618・・・。「ミロのビーナス」を見てみてみよう。「ミロのビーナス」は、
へそから上を1とするとへそから下は、なんと「黄金分割」になっている。頭から肩にかけてを1とするとへそから下も「黄金分割」。
下半身においてもひざを基点にすると同様の比率でつくられていることがわかる。まさに黄金分割の代表作である。
試しにその値を1:1にかえてみると、なんともあわれなビーナスとなってしまうのだ。

現代においても、財布の中に入っているカードの長方形も黄金分割で成り立っている。
こんな美しい比率の原則ともいえる黄金分割が夢二の作品にも見られるという。
夢二が水汲みをする粋な女性を描いた掛け軸、「朝水」。これに多くの黄金比率が隠されている。
まずは、掛け軸全体と人物116センチに対し70センチ。比率にすると1:1.657。
つづいて顔をみてみると目を基点に比率を出してみると上と下で黄金分割が成り立っている。
また、長さと幅においても、また背景の木々の比率もまた黄金分割。これらの比率は夢二の様々な作品に見られる。
当時、日本ではほとんど知られていなかった黄金分割。
夢二は描きながらその美しさの基本となる黄金の比率を自然と習得していたのではないかと思われる。
また、そのバランス感覚に加え夢二のデッサン力にも注目していただきたい。
どこに行くにも夢二が持ち歩いていたものがスケッチブック。中には様々な人間の動き、情景、生き物といった被写体が、
彼の頭にだけ残る残像のごとく描きとられている。バランスと描写、それは、まさにデザインの分野ではなくてならない感性である。
それをより抽象化し、ひとの心を動かす。彼は、その素質を天性から持ち合わせていた人間だったのかもしれない。

「港屋」を通し、庶民にデザインを広めた夢二。しかし、恋多き男としても有名である。
「港屋」に訪れていた“ひこの”と逃避行により、品物の納品が途絶え、あえなく「港屋」は二年という歳月で暖簾を下ろすこととなった。
しかし、夢二のデザインへの挑戦が、終わったわけではなく、デザイン専門の研究所「どんたく図案社」を立 ち上げた。
キャラメル箱のデザインからキャラクター人形まで多岐に渡ったその作品の数々。そして、大正のヒット商品“へちまコロン”。
毎回常に新たなデザイン広告で売り出したこの商品も当然、人気絶頂の夢二を放っておくわけがない。
できあがった新聞広告を見てみると、独特の夢二のデザイン画のほかに実は詩まで付け加えてある。
曲の存在は分からないにせよ、まさに今で言う“CMソング”であることに間違いない。

商業デザインを革新的に進めていた夢二だったが、突然起こった関東大震災により「どんたく図案社」は廃業を余儀なくされた。
その後、彼は東京を離れ、榛名山の「榛名山美術研究所」を本拠とした。
そこで彼は装飾的なデザインだけではない機能が結びついた3次元のデザインを考え始めていた。
それは、まさに今につながるデザインの石杖。例えば、手提げ籠の設計図。
微に入り細に渡り、夢二がそのひとつひとつを研究しつづけていたことがわかる。
入れるものを具体的に考え、持ちやすさにこだわり、美しさを追求。
夢二は晩年にいたるまで、日本のデザインを押し上げ続けていたのである。
だからこそ、彼はデザイナーの先駆者といわれるのである。さらに作詞家でもあり、また装丁家でもあった。
次はまた違う夢二をご覧いただくかも知れない。
(text from TV-tokyo site)

2002-03-15 STEREO Dub < S-VHS


video8-120MP


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