VD-286

SP
45min
45min


NHK総合



プロジェクトX


(52) 「霞が関ビル・超高層への果てなき闘い」 〜地震列島日本の革命技術〜

地上36階、高さ147メートル。昭和43年に完成した「霞が関ビル」は、日本初の超高層ビルである。
それまでは、関東大震災後に作られた建築基準法により、ビルの高さは31メートルに制限されていた。
地震と台風の国・日本では、高いビルの建設は不可能とされていた。
建設のリーダーは、鹿島建設の二階 盛(50)。自ら関東大震災を経験し、多くの友人を亡くした二階は、日本初の難工事に果敢に挑んだ。
二階は、「初めての試みには、新たな発想が必要」と、35歳以下の技術者しか加えなかった。
後に“二階学校”と呼ばれる150名のプロジェクトの誕生だった。
地震に強い柔構造ビルのヒントは、関東大震災でもビクともしなかった寛永寺の五重塔にあった。
一本の柱で支えられている五重塔は揺れに強い。147メートルに達する柱をいかにまっすぐに立てるか。これが霞が関ビル建設の鍵だった。
しかし、肝心の鉄骨は、建設中に、すぐに微妙に曲がってしまった。計り直して修正しても、翌日にはまた曲がった。
一体なぜなのか?その原因が全く分からず、担当の角田勝馬(19)は、焦りを募らす。
早く解決しなければ、台風シーズンを迎え、工期に間に合わなない。
二階と若手技術者は、この危機をどう乗り越え、完成に導いていったのか・・・。
二階学校での技術者の奮闘を軸に、日本初の摩天楼が完成するまでの1000日の熱いドラマを描く。

2001-05-15 STEREO



(84) 「運命のZ計画」 〜世界一売れたスポーツカー伝説〜

昭和45年、一台の日本製スポーツカーが登場した。
フェアレディーZ。発売後たちまちアメリカ市場を席巻し、
スポーツカーとしては世界一、140万台の売り上げを記録した伝説の名車である。
開発の陰には、日の当たらない部署で仕事に打ち込んでいた自動車マンたちの執念があった。
昭和35年、一人の男がアメリカに渡った。片山豊、50歳。日産自動車で宣伝畑を歩いていたが、突然渡米を命じられた。
当時、日本車の輸出は始まったばかり。片山は売り込みに走るが「二流の車」と言われ、全く売れなかった。
ある時、片山はスポーツカーに目をつける。ポルシェやジャガーなど人気のスポーツカーは、庶民には高嶺の花。
「手頃な値段で高性能のスポーツカーを作れば、きっと売れる。二流のイメージも払拭できる。」
しかし、当時は大衆車が主流。スポーツカーなど売れないと猛反発にあう。
その時、立ち上がったのは、遊園地のゴーカートを作っていた若手デザイナー、
バキュームカーなど特殊車両専門の設計者、農機具修理からたたき上げた子会社の技術者たち。
皆、いつかは自分たちの手で花形の車を作りたいとの思いを秘めていた。
開発は、デザインとハードの激しいせめぎ合いとなった。デザイナーが思い描いたのは、斬新な低い流線型のシルエット。
しかし、新型6気筒エンジンを積み込むと、ボンネットに収まらず出っ張った。
特徴的な短い後部のため、ガソリンタンクとギアがぶつかり、故障した。メンバーは試行錯誤を重ね、
東名高速でテスト走行を繰り返す。全くの手探りで開発に挑んだ日本製スポーツカーが、
世界的評価を獲得するまでの知られざる自動車マンたちのドラマを描く。

2002-04-16 STEREO


video8-120MP


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