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●プロジェクトX アンコール 「ロータリー47士の闘い」 〜夢のエンジン・廃墟からの誕生〜


ロータリーエンジン。従来のピストン式のものと違い、小型で高出力。しかも静かなエンジンである。
200年前から研究が進められ、夢のエンジンと言われてきた。このエンジンの量産化に世界で初めて成功したのは広島のマツダである。マツダは原爆の被害を奇跡的に免れた、三輪自動車メーカーだった。

開発の中心となったのが、設計部長の山本健一だった。山本は広島生まれ。妹を原爆で失った。その悲しみを乗り越え、広島の復興に尽くそうと、エンジンの開発にすべてをかけた。その山本の元に47人の部下が集まり、困難な開発に挑む。「ロータリー四十七士」と名づけられた彼らは、いずれも山本と同じ思いを抱いた若者たちだった。
摩擦によってできる「悪魔の傷跡」、低速で走ると起こる振動「電気アンマ」を始め、克服が不可能とされた技術的課題を、山本たちは意地と執念で次々と解決していく。
原爆で家族を失った男たちが、故郷の復興を願い成し遂げたロータリーエンジン開発のドラマを描く。

なお、今回は広島のマツダ工場を国井、膳場キャスターが訪ね、プロジェクトリーダー山本健一氏にじっくり話を聞く。
(text from NHK site)

NHK総合 45min 2004-05-25 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)

>初回放送のDVD版 DR-398あり





●プロジェクトX(148) 「新羽田空港 底なし沼に建設せよ」


 日本の空の要「東京・羽田空港」。離発着する飛行機は、一日およそ800便。世界屈指の巨大空港である。しかし、空港が建つその土地は、20年前、まさに“底なし沼”といわれたヘドロの海だった。
 高度成長のただ中にあった昭和40年代前半。日本の空は、大きな変革期にあった。プロペラ機に代わり、ジェットが登場。地方都市は、こぞって新空港の建設に乗り出した。その日本の空港建設を一身に背負う男がいた。運輸省港湾技術研究所の佐藤勝久。日本で唯一、空港の要・広大で強固な舗装を研究する技術者。佐藤は、数々のアイディアを放ち、各地の建設を推し進める原動力となった。
 しかし、昭和52年、日本の空に致命的な問題が浮上した。要となる東京・羽田空港が手狭。増え続ける航空需要を裁ききれなくなったのである。運輸省は、羽田沖の埋め立て地を新空港建設予定地と決めるが、そこは、長年、東京湾のヘドロを捨て続けたゴミ捨て場だった。含まれる水分、なんと200%。悪臭を放ち、とても建設出来る土地ではない。
 立ち向かったのは、日本全国の土木技術者たち。19世紀のスウェーデンで開発された「ペーパードレーン」という水抜き作戦に打って出た。さらに、研究所の佐藤も、強固な舗装を実現する新しいコンクリートを採用。プロジェクトは、日本の土木技術、総力を挙げた闘いとなった。
 だが、間もなくの調査で、とんでもない事態が明らかになる。「建設後も凄まじい沈下が止まらず、空港は使い物にならなくなる」。旧羽田空港の状況は、刻一刻と悪化するばかり。果たして新空港は開港できるのか。そのとき、研究所の佐藤が、前代未聞の大作戦に出る。
 番組は、日本の空の時代を築くため、総力を挙げて戦い抜いた技術者達の壮絶な物語である。
(text from NHK site)

NHK総合 45min 2004-06-30(2004-06-29の再放送) Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)






●プロジェクトX(151) 「ラスト ファイト」 〜名車よ 永遠なれ〜

日本最高峰のカーレース・日本グランプリ。昭和41年、世界の強豪を初めて破り頂点に立った技術者たちがいた。小さな後発メーカー・プリンス自動車工業の男たちである。
会社の生産規模はトヨタのわずか9分の1。しかし、技術は驚くほど高かった。メンバーの多くは戦前の飛行機技術者。リーダーはあのゼロ戦のエンジンの主任設計者・中川良一だった。
当時、会社は窮地に追い込まれていた。外国車の輸入自由化が決定。欧米巨大メーカーの車が押し寄せ、小さな社は倒産すると言われていた。技術の高さをアピールできるグランプリの制覇に、会社の生き残りがかっていた。
昭和39年、プロジェクトは名車・スカイラインでレースに挑む。しかし、最強の敵が現れた。ポルシェ904。ドイツの驚異のレーシングカーにスカイラインは敗れてしまう。さらに衝撃の知らせが届いた。輸入自由化に危機感を抱く政府の主導で、会社は日産へ吸収合併されることが決まったのである。
メンバーは、合併前最後のレースとなる次のグランプリで意地を見せると誓った。
会社の総力を挙げた究極のレーシングカー・R380を完成させた。そこに待ち受けていたのは、さらに進化を遂げたポルシェの新型車。レースは、激しいデッドヒートとなった。
番組は、国際競争の荒波と合併の危機を、その技術力で乗り越えた男たちの伝説のラストファイトを描く。
(text from NHK site)

<受信障害により映像全体に軽いノイズあり> [ GP-895 ] >HDD-Gにビデオカプセルあり 0329
NHK総合 45min 2004-09-07 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)

ノイズなし
NHK総合 45min 2005-11-22(特選として2004-09-07の再放送)
Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)

> DR-1965にレンタルDVD版あり








●プロジェクトX(152) 「革命ビデオカメラ 至難の小型化総力戦」


結婚式や我が子の誕生。かけがえのない一瞬は、かつて、写真で残すしかなかった。そこに、昭和60年、革命が起きた。世界初のホームビデオカメラ(カメラ・ビデオ一体型)の誕生である。それまで、撮像管が使われ巨大でプロ用に限定されていたビデオカメラが一気に小型化。女性でも扱える軽さになった。鍵は、「CCD」と呼ばれる新しい半導体の開発。わずか1センチ四方の大きさに、25万個もの電子の目を持つ部品だった。開発に挑んだ会社はソニー。リーダーは、それまでテレビや電卓といった主力製品の開発からはずれた目立たない技術者だった。昭和37年、ソニーに入社した越智成之、半導体の研究開発で高性能の製品を作りたいと大きな夢を持っていた。だが、担当はスピーカーなど部品の検査。テレビや電卓といった主力商品には行かせてもらえず、もんもんとした日々を過ごしていた。しかし8年後、越智はアメリカで出されたばかりの論文で、夢の技術に出会う。半導体の材料・シリコンが、光に当たると電子を生む性質に目を付け、映像をとらえるCCD(電荷結合素子)だった。「これを成功させれば一発逆転できるかもしれない」。独自の研究を始めた越智。間もなく、ある会社幹部の目にとまった。会社の創業メンバーで、副社長の岩間和夫。ソニーのトランジスターを開発し、会社の礎を築いた男だった。実はこの時、ソニーは創業以来の危機にあった。シャープが超小型電卓を発売。会社の主力商品・電卓が小型化競争で敗れ、生産中止となったのである。「CCDで会社の半導体をよみがえらせる」。岩間は、越智の開発を、直轄の正式プロジェクトとした。しかし、開発は困難を極めた。CCDに求められるのは、1000分の1ミリ単位の加工技術。試作品を作り画像を出すと、無数の傷やボケが出た。さらに、生産現場に飛び散る無数のちりが入り込み、工場は不良品の山を築いた。瞬く間に巨額の赤字となったプロジェクト。社内からは、撤退勧告の声が上がった。その時、工場の製造ラインに立つ女性たちが問題解決に立ち上がった。番組は、ホームビデオカメラ開発の陰に繰り広げられた物語を取材。日本の半導体産業の根幹を築き上げた人々の熱き思いを伝える。
(text from NHK site)

<受信障害により映像全体に軽いノイズあり>
NHK総合 45min 2004-09-14 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->G 0609

> DR-1899に、レンタルDVD版あり





●プロジェクトX(153) 「中尊寺金色堂大修理」 〜平安の謎に挑む〜

みちのく岩手・平泉。そこに奥州の最高芸術がある。建物全体が光り輝く「中尊寺金色堂」である。800年前、栄華を誇った藤原清衡が、奥州の平和を願い極楽浄土の世界を作り出した。その中には、藤原三代の遺体が眠っている。 しかし、今から半世紀前、金色堂はボロボロだった。極楽浄土の鍵、漆やらでんの装飾ははげ落ち、金ぱくはほとんどが薄れていた。 戦後間もなく、金色堂の哀れな姿を最も憂う男がいた。代々、寺を守る家の僧侶の佐々木実高。奥州の人々が藤原三代に懸ける気持ちをよくわかっていた。中尊寺は、藤原氏滅亡後も、寺の20人の僧侶と寺が持つ田畑60haを耕す小作農家によって守られてきた。その中心に佐々木がいたのである。だが、戦後、中尊寺を取り巻く状況は一変した。農地改革により、寺を守る村落共同体は崩壊。寺は極貧となり、僧侶は次々に山を下り、アルバイトでの生活を余儀なくされた。「このままでは、奥州の宝は駄目になる」。佐々木はとんでもない手に出た。金色堂に眠る藤原三代の遺体の公開調査を決行。ミイラとなっていた遺体を披露し世の注目を集めた。まもなく、文部省は学者や寺の佐々木、全国の凄腕職人たち50人のプロジェクト作った。しかし、昭和38年に始まった解体修理。そこに、800年前、平安時代の職人たちが使った漆と金ぱくの技の謎が立ちはだかった。漆の色は、現代のモノと違い光を吸い込むような真っ黒。しかも、塗り方も途方もなく分厚い。金ぱくも青みがかり渋く重たい色だった。「技法の謎がわからなければ修理を諦めるしかない」。メンバーが諦めかけたその時、プロジェクトは途方も無い作戦に出る。何と、損傷が激しい部材をあえて切り刻み、その分析で謎を解明。800年前と同じ金色堂の復元に挑んだのである。文化財にメスを入れる事など、通常は許されない行為。だがプロジェクトは、奥州にとっての魂の源、藤原三代が眠る金色堂の完全復活を掲げたのだった。番組は、中尊寺金色堂の修理に挑んだ人々を取材。東北の誇りをよみがえらせるため人生を懸けて闘った人々の厚き思いを伝える。
(text from NHK site)

<受信障害により映像全体に軽いノイズあり>
NHK総合 45min 2004-09-21 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->G 0214







●プロジェクトX アンコール 「革命トイレ・市場を制す」

 今や日本のトイレのほぼ2軒に1軒の割合で設置されている「温水洗浄便座」。心地よいお湯でお尻を洗い温風で乾かす。古来「ご不浄」と呼ばれ、不潔の代名詞だったトイレのイメージを、「快適」で「清潔」な空間へと変えた革命的な製品である。清潔志向の高まりから、不況の中でも売り上げを伸ばすヒット商品でもある。その開発の影には、ひたむきにトイレと向き合い続けた技術者たちの姿があった。
昭和36年、北九州の街に降り立った男がいた。本村久。早稲田大学理工学部を卒業、就職したのは東洋陶器(現TOTO)。戦前から続く国内最大手のトイレメーカーだった。
 折からの建築ブームの波に乗る住宅産業界。しかし、当時、まだ下水道整備が行き届いていない日本のトイレは「不浄なもの」の代名詞。日陰の商品だった。「こんなものは技術とはいえない」。水洗トイレの金具を設計する部署に配属された本村も、その技術を甘く見ていた。
しかしある日、本村は上司から一喝される。金具工場長の杉原周一。戦前、戦闘機開発に携わり世界にその名をとどろかせた伝説の技術者。
 戦後は「平和産業に」と金具の設計に没頭していた。「トイレは人々の暮らしを豊かにする商品だ。ひとつひとつの商品に魂を打ち込め」。
 金具の鬼と言われた杉原との出会いによって、本村は技術者の誇りに目覚める。
その矢先だった。二度のオイルショックの波が会社に襲いかかる。
 住宅着工戸数は激減。会社には在庫となった便器の山ができた。「新しい柱となる商品を開発せよ」。本村たち若手技術者に社運を賭けた指令が下る。任されたのは、痔(じ)の患者などの医療用に細々と売られていた「洗浄便座」。クレームだらけの欠陥商品。これを一般向けに全て設計し直し、新しい需要を掘り起こす。
その開発は困難を極めた。人にとって心地よいお湯の温度は何度か。汚れを完全に落とすには水は何リットル必要なのか。男達は自ら実験台となり試作を繰り返す。さらに、微妙な温度を制御するには最新式の電子回路技術が必要だった。しかし、感電の可能性のある電子回路の使用は危険な賭けだった。
そして運命の発売日。「トイレ」「おしり」の文字は当時のメディアでは「タブー」。
 宣伝もままならないなか、営業マンたちは全国を走り回った。
さらに、追い打ちをかけるように殺到したクレームの嵐。会社の廊下には返品された便座があふれた。プロジェクトは夜を徹して商品の改良に当たる。そして温水洗浄便座「ウォシュレット」が完成。男達は一人の天才コピーライターとともに誇りをかけた、一か八かの大勝負に打って出た。
数々の困難を克服し、「不潔なトイレ」のイメージを覆した「トイレ革命」を成し遂げた男たちの逆転のドラマを描く。
(text from NHK site)

<受信障害により映像全体に軽いノイズあり>
NHK総合 45min 2004-09-28 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)





●プロジェクトX(154) 「地上最強のマシーン F1への激闘」

「地上の戦闘機」と呼ばれるマシーンがある。「フォーミュラーワン・F1」である。
 極限まで車高を落としたフォルム。最高速350キロ。急ブレーキに急加速の連続。F1は、まさに自動車を超えたモンスターだ。
 今から40年前、日本から初めてこのレースに挑み、前代未聞、わずか2年目で見事優勝したメーカーがあった。本田技研工業。
 だがこの時、会社はまだ四輪市販車を発売すらしていない単なるバイクメーカーだった。
 昭和38年、会社は大きなピンチにあった。通産省が打ち出した「特振法」で、自動車の生産が制限。「いつかは四輪を」という社長・宗一郎の夢は、風前の灯火だった。その時、宗一郎は大きな決断をした。「F1に出るぞ。俺たちはいつもレースで大きくなってきた」。
 しかし、挑戦は困難を極めた。鍵となるエンジンは、会社を世界へ飛躍させたあのマン島レースのバイクの改良型。馬力は出たが、大きく重く、車体に乗らなかった。さらに、カーブに差し掛かると、謎のパワーダウン。加えて、スピードも出ていないのに、謎のオーバーヒートが起きた。「問題はエンジンにある」と訴える現場のメカニックたち。だが、東京の設計陣は、「馬力は出ている。勝てないのは調整の問題だ」と聞き入れない。チームは、大きな確執を生み崩壊寸前。F1ためにつぎ込んだ費用は、何とバイクの主力車種、1年分の利益額に匹敵。会社の根幹をも揺るがす事態となった。
 その時、プロジェクトは、起死回生の奥の手に打って出る。
 今では、世界の自動車メーカーとなったホンダ。番組は、その草創期、奇跡のF1挑戦の物語を取材。バイクメーカーが自動車メーカーに成長していく、その瞬間の葛藤のドラマを伝える。
(text from NHK site)

<受信障害により映像全体に軽いノイズあり> [ GP-779 ]
NHK総合 45min 2004-10-05 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)







●プロジェクトX(155) 「列島踏破30万人 執念の住宅地図」

世界中の国々で、日本にしかない一つの地図がある。一軒一軒、住人の名が記される「住宅地図」である。北海道から沖縄まで、全国4700万世帯のほぼ全てを網羅。データは警察や消防に配備され、災害に事件に大きな力となっている。この世界でも例の無い地図を作り上げたのは、戦後仕事が無く、食べることもままならなかった男たちだった。
 敗戦直後、満州から引揚げ、大分・別府にたどり着いた大迫正富。「人生の再出発だ」と、漬け物売りに雑貨商、パンの木箱作りと、金になると思えば何でもやった。その時、大迫の目に、一つの光景が飛び込んできた。8つの湯巡りを楽しむ観光客の姿。間もなく、発刊した観光雑誌の中の「温泉案内地図」は大評判となった。直後、大迫は、大分別府全域の住民の名を記した住宅地図作りに乗り出した。
 調査は、白紙に道路を目見当で書き入れ、一軒一軒くまなく歩き表札を見る。地域の住人に警察に通報される事もしばしばだったが、出来た地図は配達やご用聞きに飛ぶように売れた。間もなく、会社を北九州・小倉に移した大迫。日本全国の住宅地図を作ることを目標に掲げた。
 しかし、そこで大きな問題に直面した。「住宅地図は絵地図だ。工事などには使えない…」。その時、長男の大迫忍が勝負に出た。従来の見取り図を止め、航空写真で作られた白地図を使おう。だが、それは困難の連続だった。名古屋では、駅前の巨大地下街が立ちはだかった。さらに、北海道の郡部は、行けども行けども家にたどり着かず。例え着いても、そこは廃屋だらけだった。そして、最後の牙城・超巨大都市東京。地方都市とは違い雑居ビルがひしめく町並み。加えて、ビルの中には、間口2メートルの小さな店舗が所狭しと軒を連ねていた。「何年掛けても、とても正確な住宅地図など作れない」。プロジェクトは追い込まれた。
 今では、官公庁などにも配備され欠かせない「住宅地図」。番組は、日本独自に発達したこの地図の草創期に格闘した人々の壮絶な物語を伝える。
(text from NHK site)

<受信障害により映像全体に軽いノイズあり>
NHK総合 45min 2004-10-12 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)






●プロジェクトX(156) 「瞬間冷凍 時間よ止まれ」 〜冷凍食品誕生〜

終戦後まもなく、食糧難を克服するために政府は一つの配給品を出した。「冷凍魚」。
栄養失調がまん延しタンパク質の摂取が叫ばれる中、遠い北海道から都市に供給することを考えた。
しかし、最悪の代物だった。解凍すると、腐りかけたアンモニアの臭い、食感はねばねばとガムのようだった。「冷凍はまずい。腹もこわす」。イメージが定着していった。
そのころ、一人の戦争帰りの男が一旗揚げる夢に燃えていた。木村鑛二郎44歳。
採用されたのは氷を扱う冷蔵庫会社「日本冷蔵」(現ニチレイ)。
木村は、「冷凍食品」を売り出せないかと考えていた。
「冷凍食品はいつかうける。日本の食卓に革命が起きる」。
昭和28年、木村の熱意は会社を挙げてのプロジェクトになった。
当初、売り出したのは容易に開発できた魚や野菜の冷凍食品。
しかし、全く売れなかった。 あの配給「冷凍魚」の忌まわしいイメージがあまりに根強かった。  
ある時木村は、妻がコロッケを作っているのを見た。普段は肉屋で買ってくるのを、ジャガイモをひき、小麦粉で皮を作り、パン粉をまぶし、時間をかけて作っていた。
その時、木村はひらめいた。「手間のかかるコロッケなどのメニューを冷凍にし、簡単に食べるようにすればきっと売れる。いつでも家庭で熱々のコロッケが食べられる」  
しかし、売り出したコロッケは、謎の爆発が続いた。
プロジェクトの格闘が始まった。冷凍コロッケにふさわしいジャガイモの品種、衣にふさわしい小麦粉。あらゆる種類を試した。さらに、冷凍食品のイメージアップの営業作戦に出た。
「時間を止める奇跡の技術。いつまでも新鮮さを保てます」
主婦達は、その手軽なおいしさに心奪われた。
間もなく、家電メーカーも冷凍食品も保存可能な冷蔵庫を次々発売。
冷凍食品のメニューも急速に増え始めた。
今や日本の冷凍食品は1兆円産業。その種類は3000にも及ぶ。苦難の末に築いた冷凍技術は、世界を圧倒。 日本は世界一の冷凍大国になった。番組は、冷凍食品の普及にかけた人々の熱き思いと奮闘の物語を伝える。
(text from NHK site)

<受信障害により映像全体に軽いノイズあり>
NHK総合 45min 2004-10-19 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)






●プロジェクトX(157) 「アジアハイウェー ジャングルの死闘」

タイ北部、ミャンマーとの国境。そこに、東南アジア最大のジャングルが広がっている。うっそうと茂る巨木、摂氏50度を超えるしゃく熱世界。ここに、「密林の殺し屋」と呼ばれる魔物がいる。象をも倒す毒蛇・キングコブラ。この密林は、世界有数のコブラ地帯である。
 昭和40年、この密林に分け入った日本の土木技術者たちがいた。挑むのは「アジアハイウェー」建設。この地で長らく続いた植民地支配。飢餓や貧困、紛争にあえぐアジアの人々を物流の道で豊かにしよう。国連が決めた戦後最大の道路建設計画に、日本から初の挑戦だった。
 技術者たちは皆、それまで日本復興のため山奥の巨大ダムを造って来た男たち。極寒の北アルプス・富山有峰ダムなど、多数の死傷者を出した過酷な現場も乗り切ってきた。その先頭に立っていたのは、戦後間もなく、18歳の時にこの道に入った吉川博巳。現場たたき上げの吉川、武器は『コンクリートの神様』と呼ばれた究極の技。「俺たちの腕を見せてやる」と挑戦を決めた。
 しかし、ジャングルは想像を絶していた。とても重機が入らない。ならば、手作業で伐採しようと分け入ると、巨大コブラが次々襲って来た。さらに、密林の川に橋を架けようと、吉川がコンクリートを流し込むと、たちまち、日本では見たこともないいびつな姿となった。
  「このまま続けられるのか」。その時、大混乱となった現場に、衝撃の過去を持つ一人の日本人・藤田松吉が現れる。
(text from NHK site)

<受信障害により映像全体に軽いノイズあり>
NHK総合 45min 2004-10-26 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)





●プロジェクトX アンコール 「勝負の警備システム 作動せよ」

安全神話が崩壊しつつある日本で、なくてはならない警備産業。
市場規模は年間2兆4千億円。約1万社が参入し、40万人の雇用を生んでいる。初めて警備会社が産声を上げたのは、今から40年前。「水と安全はタダ」といわれる中で新たな市場を築くには、若者たちの知られざる格闘があった。
 昭和36年。酒屋の倉庫で在庫整理に追われる若者がいた。飯田亮、28歳。東京・日本橋の酒屋の五男坊。大学卒業後、しにせを手伝っていたが、仕事はすべて兄たちに指図された。大学時代の親友の戸田寿一と酒をくすねては我が身を憂いていた。当時、商店や企業を狙った窃盗が横行。「プロの警備員を養成すればビジネスになる」飯田は、戸田と2人で日本初の警備会社「日本警備保障(現セコム)」を立ち上げる。
 しかし、拳銃も逮捕権も無い。許されたのは警棒だけ。「お前たちに何ができる」仕事は取れなかった。転機が訪れたのは、昭和39年の東京オリンピック。選手村の建設現場の警備を依頼された。会社がモデルとなった「ザ・ガードマン」というドラマが大人気。
仕事の依頼が殺到し、会社は急成長した。その時、とんでもない事件が起きた。なんとガードマンがデパートを巡回中、600万円の宝石を盗んだ。
 会社の信用は地に落ちた。飯田と戸田はガードマンの行動マニュアルを作り、徹底的に研修を実施。さらに警備の信頼度を上げようと、社運をかけ日本初の機械警備システムを作り上げた。契約先のドアや窓に取りつけたセンサーが異常を感知すると、管制センターに通報。ガードマンが急行する仕組みだった。しかし、誤報が相次ぎ、ほとんど普及しなかった。
 昭和43年10月、衝撃的なニュースが伝わった。東京のホテルで、他社のガードマンがピストルで射殺された。さらに、京都でも警備中のガードマンが殺された。そして翌年4月深夜、機械警備システムを導入していた新宿の専門学校からの警報が発せられた。駆けつけたのは新人ガードマンの中谷利美。そこに、あの連続殺人犯がいた・・・
 新しいビジネスを切り開き、命がけで犯罪に立ち向かった男たちの熱きドラマ。
 今回は、番組冒頭部分に最新の警備ロボットの様子を新しく撮影。再構成バージョンとしてお送りします。
(text from NHK site)

<受信障害により映像全体に軽いノイズあり>
NHK総合 45min 2004-11-02 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->おそらくA(HDD廃棄)2010-05-21調査

> 2019-05〜2020-07の全メディア再調査では発見できず
> 2020-10のダビング依頼時に再度CD-R等を調べたが在庫確認できず





●プロジェクトX(158) 「日本技術陣 1億の地雷に挑む」

世界各地に頻発する戦争や紛争。その復興に大きな足かせとなっている「悪魔」がある。「残留地雷」である。 現在、地球上に埋まる地雷の数、実に1億個。毎月2000人が命を亡くす。
 しかし、地雷は進化を続け、従来の金属探知器では発見出来ないものが増加している。
地雷除去を担当する国連関係者や世界のNGOが熱い期待を寄せる日本製の地雷探知機がある。
「マイン・アイ」。土を掘り起こさなくとも、レーダーで地雷の形状や位置を正確に割り出す。より早く安全に、除去が可能になった。
開発にあたったのは大田区・蒲田にある小さなベンチャー企業。開発は数々の挫折を味わった一人の技術者の疑問から始まった。「会社は何のために社会に存在するのか」。
昭和52年、世界の油田を渡り歩いていた冨田洋。石油採掘機械メーカー・三井海洋開発の技術者だった。
冨田は特命を受けていた。「新規事業を開拓せよ」。会社は危機に立っていた。
オイルショックの反動から石油がダブつき、中東の産油国は減産を続けていた。
冨田は「不況でも建造物の保守点検の仕事は需要を伸ばしている」ことを発見。最先端のレーダー技術を組み合わせ、コンクリート内部の穴を発見する検査機器を設計。日本国内の電力ダムの水路トンネルを点検する新規事業を立ち上げた。しかし、会社は解散。平成元年、新たな会社をおこした。
 連日、深夜まで社員たちを叱咤(しった)し続けた。 順調に業績を伸ばす会社。しかし、「収益最優先」の冨田の経営方針は、社内に深刻な亀裂を生んだ。創業以来、苦楽を共にしてきた部下たちが次々に会社を去っていった。
その時、米国から一人の男が会社を訪ねてきた。国連の地雷除去担当部門の責任者。 「レーダー技術を地雷探査に生かせないか」。その申し出に冨田は奮い立った。
「自分たちの技術で社会に貢献したい」。もうけの出ないボランティア。社員の多くが反対した。しかし、冨田は「本業に迷惑はかけない」と皆を説得。自ら工場にこもり研究を始めた。
資金にも技術力にも限界がある町工場。冨田は研究のかたわら、自ら大企業の門をたたき続けた。
冨田のねばり強い説得はやがて大企業を巻き込む大きなうねりを生んだ。
試作機を手に、最悪の地雷埋没地帯「タイ=カンボジア」の国境に乗り込んでいく。
番組では数々の困難を乗り越え、企業の社会貢献の在り方を模索した一人の技術者とそれを支えた人々のドラマ を描く。
(text from NHK site)

<受信障害により映像全体に軽いノイズあり>
NHK総合 45min 2004-11-09 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)





●プロジェクトX(159) 「横浜ベイブリッジ 港町の復活に懸ける」

異国情緒溢れる日本屈指の港町・横浜。平成元年、その玄関口に、シンボルが誕生した。「横浜ベイブリッジ」である。世界一美しいと言われる斜張橋。そびえ立つ柱は175m、ビル60階に匹敵。斜めに張り巡らせた無数のワイヤーで、橋げたをつる。
 実は、この橋の目的、港を支える本牧ふ頭と大黒ふ頭、その間を6車線の道路で結ぶ物流の道だった。
 昭和20年代後半、日本各地の戦災復興はめどが付く中、横浜だけは全く手が付けられぬまま放置されていた。敗戦直後から、町のあちこちが米軍第8師団3万人によって接収。至る所で寸断された町は、道路計画など立たない。また、長期間の接収で地元企業は東京へ移転。税収が激減し、町作りの予算に事欠いていた。
 その最前線で一人踏ん張る若き技官がいた。横浜市役所道路課の池澤利明。予算がないならと、自ら道路造りの資材を調達。地元業者とともに、現場で汗を流し続けていた。
 昭和31年、米軍は撤退。念願の接収は解除されたが、直後、大問題が起きた。返還された港に荷物が押し寄せ、それを運ぶ大型トラックが道路整備ままならない横浜に集結。大渋滞となり、港の物流が完全にまひしたのである。「横浜は使い勝手が悪い港だ」と、よその港へくら替えする船も相次いだ。
 「このままでは、港町・横浜の息の根が止まる」。その時、池澤は、ある幻に終わっていたある計画に目を付けた。横浜市港湾局の「ベイブリッジ構想」。港の玄関口、本牧と大黒ふ頭に橋を架け、トラックが市内を通らずに物流を確保しようという前代未聞の作戦だった。
 しかし、動き出したプロジェクトにさまざまな壁が立ちはだかった。建設省が事業費の予算をなかなか付けてくれない。さらに、調べると、横浜港の海底は超軟弱地盤。橋柱の土台・が容易に埋め込めない事も判った。加えて、建設作業は、港を往来する一日千隻の障害になってはいけない…。
 番組は、港町・横浜の復活を懸け、日本最大の橋・ベイブリッジに挑んだ人々の、24年に渡る苦闘のドラマである。
(text from NHK site)

<受信障害により映像全体に軽いノイズあり>
NHK総合 45min 2004-11-23 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)





●プロジェクトXアンコール 「王が眠る 神秘の遺跡」 〜父と息子・執念の吉野ヶ里〜

 平成元年2月。佐賀県の小さな丘から発見された弥生時代の遺跡が、日本中の注目を集めた。吉野ヶ里、九州での高い文化の存在を示す巨大遺跡である。わずか2か月で100万人もの観光客を集め、古代史ブームを巻き起こした。その影には地元に住むある親子のドラマがあった。
  昭和35年、高校で歴史の教師をしていた七田忠志(47歳)は、土器片が見つかる町はずれの「吉野ヶ里の丘」に興味を示し、息子・忠昭を連れて通 い始めた。「わが故郷には、すごい古代文明があった」。そう確信した忠志は、数多くの論文を発表。しかし、「そんな田舎にあるはずがない」と誰にも相手にされず、失意のうちに亡くなった。
  そして、昭和61年、吉野ヶ里に工業団地の建設計画が持ち上がる。それに先立つ発掘調査の指揮を執ったのが、県の文化課に勤めていた息子の忠昭だった。父の夢をつなごうと、5人の若手職員を率いて、発掘を続けた。するとまもなく、巨大な集落跡が出現、日本有数の弥生遺跡であることが明らかになる。しかし、工業団地を造成するブルドーザーがの乗り込み、遺跡の運命は風前の灯火となった。忠昭はわずかな望みをかけ最後の発掘に挑む。そこには日本の歴史を書きかえる世紀の発見が待っていた。
  故郷の誇りを取り戻そうと、必死に大地と格闘した親子の30年に渡る情熱の物語を描く。

2002年1月15日放送の番組に、新撮影を加え再構成でお送りします。

(text from NHK site)

<受信障害により映像全体に、ごく軽いノイズあり>
NHK総合 45min 2004-12-07(2002-01-15のアンコール放送)
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●プロジェクトX(161) 「鉄道分断 突貫作戦 奇跡の74日間」 〜阪神・淡路大震災〜

1995年の阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を受けた神戸の鉄道網。高架や橋が落ち、本格復旧に2年はかかると言われた。道路は大渋滞でまひし、神戸は他都市と隔絶され、陸の孤島となった。
 しかし、わずか2か月半後の4月1日、驚異的な早さで全線開通した路線があった。神戸と大阪を結ぶ大動脈・JR東海道本線。
 最大の難所となった六甲道駅一帯(神戸市灘区)。高架化されていたこの区間は、瓦れきの撤去、新たな高架橋の建設など大規模な工事が必要だった。
 「鉄道の復旧なくして、神戸の街はよみがえらない」とJR西日本と共に果敢に挑んだのは、関西の建設会社・奥村組の技術者たち。変わり果てた故郷神戸の姿を目の当たりし、今こそ土木屋の力を出すと誓った。
 新たな高架橋の建設には、2年の歳月が必要だった。しかし、復興実現のために猶予はなかった。工期短縮のため驚きの工法が考え出された。
 なんと落ちた高架橋をジャッキアップし、再利用。
 工事は難航を極めた。1200トンもある巨大な高架橋は大きく傾き、わずかでもバランスを崩すと滑り落ち、二次災害を起こす恐れがあった。さらに度々、強い余震が襲い、工事中断を余儀なくされた。真冬の現場で24時間体制で闘ってきた技術者たちは疲労の限界に達しようとしていた。
 そのとき建設マンを励ましたのは地元の被災者たちだった。
 思いもかけぬ行動で技術者たちを励ました。
 神戸復興の第一歩を踏み出すために闘った技術者たちと地元住民の74日間の壮絶なドラマを描く。
(text from NHK site)

<受信障害により映像全体に軽いノイズあり>
NHK総合 45min 2005-01-11 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)





●プロジェクトX(162) 「魔法の糸に懸ける」 〜瀬戸際からのファッション革命〜

「ナイロン以来の発明」と言われる夢の化学繊維がある。「極細繊維」。髪の毛の1600分の一の細さ。生地にすると、鹿皮スウェードの同様の光沢、さらに、シルクの様な肌触りを生む。いま、極細繊維は、服地はもとより、椅子や靴などの人工皮革として、さらには、医療用の血液フィルターとして広く使用。日本繊維業界の利益を支える基幹技術だ。この極細繊維。開発したのは、昭和40年代、斜陽となり、じり貧の中にあった日本の繊維業界。しかも、それ以前に新繊維の開発に失敗し「敗残兵」と烙印を押された技術者たちだった。
 昭和30年代、栄華を極めた合繊業界。そのトップを行く「東洋レーヨン」はナイロンの製造に沸いていた。その中、不思議な糸を発明した男がいた。岡本三宜・当時28歳。独自の実験で、シルクの百分の一という極細の糸を作り出したのである。
 だが、岡本は会社の研究発表会に出品するも、「糸の用途が考えられていない」と酷評。研究は否定されると同時に、それまで聞いたこともない部署への異動が決まった。その名は「第二事業部」。そこは、かつて靴用の人工皮革の開発に失敗。10億円の赤字を出し、「敗残兵」の烙印を押された技術・営業部員100人が集められていた。それでも岡本は、この部署に一つの望みを賭けた。会社から「重罪だ」と断罪されながらも「執行猶予は2年。新市場を開拓せよ」と言われていた第二事業部。かつて否定された極細繊維の実用化に乗り出したのだ。
 しかし、初めて作った布地でパリコレに挑戦しようとするも、生地作りに使う機械の針は折れ続けた。さらに、染色が上手くいかず、布地はまだら模様。注文は一件も入らず、惨敗…。そこに、最大の売り込み先・アメリカが日本の安い繊維を目の敵に、締め出しを図った。日本繊維産業、全国90万人の危機となった。
 その時、プロジェクトに強力な助っ人が現れる。戦後、日本の繊維を支え続けてきた全国の町工場だった。
 番組は、日本が世界に誇る化学繊維「極細繊維」の開発物語を取材。繊維王国・日本の復活に挑んだ人たちの華麗なる逆転のドラマを描く。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK総合 45min 2005-01-19(2005-01-18の再放送)
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●プロジェクトX(163) 「町工場 復活のヘリコプター」

 農薬散布や空中撮影、さらに、災害現場や危険地帯の監視。そこで活躍するモノがある。「無人小型ヘリコプター」。かつて、ホビー用の小型ヘリは、今、さまざまな分野での利用が進められる。その「ホビー用小型ヘリ」世界一のシェアを誇る企業が日本にある。広島県・府中市、従業員300人の中小企業「ヒロボー」である。
 35年前、ヒロボーは倒産寸前だった。ヒロボーは、「広島紡績」の略語。ユニチカの下請けだった会社は、繊維産業の構造不況の荒波の中にあったのである。あっという間に赤字は膨らみ、売上げの1年半分の借金を抱えるまでに至る。「あの会社はもう倒産」とうわさされ、約300人の社員たちが路頭に迷おうとした。
 立ち上がった男がいた。松坂敬太郎、当時27才。病気で倒れた父に代わり、突然社長代行となった。松坂は、「社員は絶対に一人もやめさせない」と宣言。業種転換を図って会社再建に挑み始めた。電機部品のブレーカーやプラスチック容器の下請け製造。だが、巨額の借金返済はとてもできない。
 その時、松坂は、ドイツで開かれていた「世界ホビーショー」で見た無線操縦ヘリに魅せられ開発を進める。10年に渡る格闘の末、松坂の会社は、ホビー用無線操縦小型ヘリのトップメーカーとなるが、その直後、松坂は友人から衝撃の言葉を投げかけられた。
「ところで、お前たちのヘリコプターは、社会にどんな貢献ができるのか」。
 直後、プロジェクトの前に現れたのは、静岡のオートバイメーカー「ヤマハ発動機」の技術者たち。共同で、「農薬散布用小型ヘリ」の開発に着手。さらに、千葉大工学部教授の野波健蔵とともに、コンピューターにデータを打ち込むだけで自動飛行する「自律制御ヘリ」の開発にも打って出る。
 「世の中の役に立てば、小さな町工場でも生き残れる」。
 番組は、倒産の危機を乗り越え、世界のトップメーカーに成長した中小企業の星「ヒロボー」の、今も続く熱い闘いのドラマを描く。
(text from NHK site)

<受信障害により映像全体に軽いノイズあり>
NHK総合 45min 2005-02-01 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->G 0431





●プロジェクトXアンコール 「魔の山大遭難 決死の救出劇」

 昭和30年代、日本は登山ブームを迎え、山での遭難事故が増え始めた。昭和38年、後にサンパチ豪雪と呼ばれるドカ雪で、北アルプス薬師岳を登山中の愛知大学山岳部13人が全員死亡。前代未聞の大量遭難となった。
 この事故で、救助チームの隊長を務めたのは富山県警上市署の鑑識係、伊藤忠夫40歳。伊藤はかつて最愛の弟を山で亡くしていた。昭和40年、伊藤を指揮官とする山岳警備隊が発足。しかし県内の警察署から集められた隊員達は、山歩きの経験が無い素人集団。伊藤は助っ人を頼もうと、北アルプス麓の集落、あしくらじ芦峅寺を訪ねた。黒部ダム建設の際、資材を運搬。第一次南極観測隊にも選ばれた山のエキスパート達が住んでいた。隊員は、あしくらじ芦峅寺の男達に山登りの技術を学んだ。
 昭和44年正月、剣岳を記録的なドカ雪が襲った。15パーティー81人、史上空前の大量遭難が発生。山岳警備隊はあしくらじ芦峅寺の男達に応援を頼み、山頂付近にいた金沢大学山岳部17人の救助に向かった。しかし猛吹雪の中、先頭を切っていたベテランガイドが谷に転落。あしくらじ芦峅寺の男達は仲間を救出、山を降りた。後には、3人の若き警備隊員が残された。「今こそ厳しい訓練の成果を見せる」遭難者が待つ山頂に、足を踏み出した。
 生死をかけ、山岳救助に挑んだ若者達の熱きドラマを描く。
(text from NHK site)

<受信障害により映像全体に軽いノイズあり>
NHK総合 45min 2005-01-25(2002-11-19のアンコール放送)
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●プロジェクトX(165) 「そして街中に音楽が飛び出した」 〜逆転のカセットテープ〜

昭和44年、人類初の月面着陸に挑んだアポロ11号。その中に搭載された日本製品があった。ずば抜けた録音性能をもつ「日本製カセットテープ」だった。いつでも、どこでも、誰でも音楽が自由に楽しめる。音楽シーンを劇的に変え、全世界で年間20億本が売れた。根幹となる磁石の性質をもつ磁性素材の技術は、今も、IT社会を支えるフロッピーディスクやMO、ハードディスクドライブの磁気ヘッドに発展した。
 この高性能カセットテープを開発。市場を制したのは、日本でも無名の電子部品メーカーだった。
 敗戦後、製品の国産化に挑む日本の家電メーカー。それを一手に下支える部品会社があった。「東京電気化学工業(現・TDK)」。昭和10年、東京工業大学の研究者たちが、その研究成果を日本の産業に役立てて欲しいと技術を無償提供。会社は、受け継いだ磁性素材の技術で、テレビやラジオの根幹部分に使う電子部品を製造。日本家電業界隆盛の原動力となった。その会社の中、「お荷物部署」とやゆされる部門があった。テープ事業部。放送用オープンリールテープの国産化を果たすも、プロ用は数が出ず大きな利益にならない。一般市場は、あのソニーがレコーダーに加えテープまでも自社開発。セット販売していたため、付け入るすきが無かった。テープ事業部は在庫の山を抱え、巨額の赤字を抱えていた。
 昭和37年、そこに転機が訪れる。テープ開発技術者の伊藤福蔵が、ヨーロッパのフィリップス社が考案した「カセットテープレコーダー」の試作品を入手。事業部は、赤字打破のため、いち早くそのテープの量産化に動き出した。間もなく、世界各国の家電メーカーがカセットテープレコーダーの販売を開始。プロジェクトのテープは、世界に先駆け量産化されたカセットテープとして販売された。
 しかし、一年後。自体は一変する。アメリカの企業が後を追って大量生産を開始。一方、日本市場は破竹の勢いで伸びていたメーカー・ソニーが、自社開発のレコーダーとテープをセットで売り瞬く間に市場を席巻した。
 その時、テープ事業部の総責任者・大歳寛、若き日、ちょ突猛進の営業マンと渾名された男がとんでもないことを言った。「俺たちの技術で世界をあっと言わせる新たなカセットテープが出来ないか。テープはレコーダーの付属品ではない」。部品メーカーが持つ下請け意識の脱却だった。その言葉に、伊藤等メンバーは、世界初高性能音楽用カセットテープ開発に打って出る。
 番組は、部品メーカー・TDKが、技術力の総てを懸け世界初の音楽カセットテープを開発。巨大市場を自ら切り開き、誰もが知るトップメーカーにまでのし上がっていった苦闘のドラマを描く。
<副音声は言葉がより聞き取りやすい音声>
(text from NHK site)

<受信障害により映像全体に軽いノイズあり>
NHK総合 45min 2005-02-16(2005-02-15の再放送)
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●特選プロジェクトX 「青函トンネル 友の死を越えて」 〜24年の大工事〜

(2000年4月11日・2002年3月12日放送)
 24年におよぶ歴史的難工事の末、完成した「青函トンネル」。最初のパイロット坑である「先進導坑」を堀り抜いたのは、鉄建公団の若き技術者と、トンネル工事のプロ職人74人を中心としたプロジェクトだった。
 複雑な地層を掘り進む海底掘削工事は、出水との戦いであった。プロジェクトは、試行錯誤の末、岩盤に細かな注入穴を空け、高圧で特殊なセメントを流し込み地層を固めて掘り進むという新技術を開発する。
 しかし難工事のなかで死亡事故が続発。昭和44年には大規模な出水事故に見舞われもした。この事故を全員で乗りきったことが、その後の出水対策を飛躍的に進歩させる原動力となる。
 昭和58年、仲間の遺影が見守るなか、先進導坑貫通の瞬間を迎えた。青函トンネルに人生を賭けたトンネルマン達の苦闘と情熱を描く。
(text from NHK site)

<受信障害により映像全体に、ごく軽いノイズあり>
NHK総合 45min 2005-03-02(2005-03-01の再放送)
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●プロジェクトX(168) 「首都高速 東京五輪への空中作戦」

 1100万人が暮らす世界一の過密都市・東京。立ち並ぶビルの中を縫うように走る道がある。「首都高速」。自動車専用二車線道路。高架橋にトンネル、曲がりくねった数々のジャンクションを一気に抜ける。実はこの道、あの東京オリンピックの成否を懸けた道路だった。
 敗戦から14年が経った昭和34年。日本は、ある一大イベントの開催に沸いていた。
 「東京オリンピック」。敗戦国日本の復活を全世界にアピールする。だが、そこに大問題が持ち上がった。首都を大混乱に陥れていた交通渋滞である。一極集中にモータリゼーション。都心部の信号は朝から晩まで2度待ちしても渡れない始末。羽田から大会会場となる代々木まで、なんと2時間も掛かった。
 その時、立ち上がったのは、焼け野原となった東京の復興に懸けてきた東京都庁の技官たち。オリンピックまで、わずか5年。すごい手に打って出た。「用地買収がいらない川の上や道路の上を通る高架橋の空中道路を造ろう」。
 しかし、技術者達の前に、すぐ大きな壁が立ちはだかった。4本の高速が合流する江戸橋ジャンクション。上下3層の構造となるが、それを支える橋脚は実に100本。ビル地帯の現場には橋脚を立てられる場所が少なく、建設不可能だった。さらに、皇居すぐ脇の三宅坂。警備の都合から、高架橋案が却下。急きょ、トンネルへの変更を余儀なくされた。そこに、致命的な問題も噴出。なんと、羽田空港付近の工事に乗り出そうとした時、地元の漁師たちが「工事をすれば、海苔(のり)の養殖に影響が出る」と、工事差し止めを要求しだしたのである。
 絶体絶命のその時。日本各地から加勢の声が上がった。戦後、軽く丈夫な鋼材造りに懸けてきた室蘭・日本製鋼所。世界最強、トンネル用支柱造りを買って出た大阪の水道管メーカー・久保田鉄工。そして、漁場を荒らすことなく工事ができる魔法のトンネル「沈埋函」建造には、日本造船界から石川島播磨重工。プロジェクトは、戦後日本の復活を担ってきた総勢130社・10万人の闘いとなった。
 番組は、世界の道路技術者をうならせた奇跡の道路「首都高速道路」誕生の物語を詳細に取材。わずか5年間ながら、その後の都市道路の基盤となった技術のすごさと、そこに懸けた技術者たちの熱い思いを伝える。
(text from NHK site)

<受信障害により映像・音声全体に軽いノイズあり>
NHK総合 45min 2005-04-05 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->G 0897

> DR-1900に、レンタルDVD版あり





●プロジェクトX(169) 「ブランドミシン誕生 流転の技術者立つ」

昭和46年、一台の日本製ミシンが世界を驚かせた。「自動糸切りミシン」。世界中のメーカーがその開発にしのぎを削っていたが、どこも完成品を作ることができなかった夢のミシン。当時の縫製作業、特に時間がかかったのは「糸切り」。一枚のシャツを縫い上げるのに、100か所以上、ミシンを止め、糸を切らなくてはならなかった。その際、生地を痛め製品を台無しにすることもしばしばだった。自動糸切りミシンの完成は、生産の効率を上げ、品質の向上にもつながった。開発したのは、ジューキミシン。戦争中は銃を作り、戦後はパンを焼いてしのいでいた会社だった。会社発展を期して始めたミシン開発。しかし、技術力はなく海外メーカーのコピーミシンを作るのが精一杯だった。業績も上がらず苦しんでいた。そんな中、中途採用で入社した一人の男がいた。それまでに8つのもの会社を渡り歩いた流転の技術者だった。会社の命運をかけた「自動糸切りミシン」開発を任された。想像を超えた実験に打って出た。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK総合 45min 2005-04-13(2005-04-12の再放送)
Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->G 0501





●プロジェクトX(170) 「焼け跡の家族工場 世界へ」 〜ハイテク印刷機に挑む〜

日本全国にある小・中・高等学校、実に4万校。1千4百万人の子供たちが、日々学ぶ。その現場を支えるハイテク機器がある。日本生まれの「自動孔版印刷機」。見た目は通常のコピー機とそっくりだが、中身は全く別物。紙に書いた原稿を載せると、瞬時にインクを染み通す謄写版の原版を作成。内蔵された輪転機で一気に大量の印刷物を刷り上げる。かつてのガリ版印刷の仕組みを全自動化したこの製品。一枚当たりの印刷コストは、コピー機より安い。テストや学級通信等を配る学校、そして大量の会議資料を要する官公庁。さらには、全世界の教育現場にも尽く普及する大ヒット製品である。この「自動孔版印刷機」。開発したのは、敗戦直後、焼け野原の中、無一文から立ち上がった一人の男だった。
昭和21年、日本大学法文学部。戦後の新しい人生を歩もうと必死に勉学に励む若者がいた。羽山昇、21歳。戦中、陸軍士官学校を卒業し、本土決戦に備え任務に就いたが、戦わずして敗戦。仲間の多くを玉砕で失っていた羽山。一度は、自らの命を絶とうと考えたが、必死に止める母親の説得で、教師転身の道を図っていた。
   だが、現実は厳しかった。間もなくGHQから「公職追放令」が発表。わずか15日間だけだが、職業軍人として部隊を指揮した羽山は、教師の道を完全に閉ざされたのである。
   その時、悩む羽山の目に飛び込んできたのは、ちまたの学生たちが必死に読むガリ版印刷の参考書だった。「この仕事なら、教師は駄目でも、世の中の役に立てる」。すぐガリ版屋に弟子入り、朝から晩まで、インクまみれの過酷な修行を続けた。そして、間もなく、自宅で小さな印刷所を開業。一つの看板を掲げた。「理想社」。社会の役に立つことを忘れぬためだった。まもなく、羽山は国産初のインクや独自の印刷原版の開発にも成功。会社は、昭和40年代に入ると従業員300人。茨城に巨大な新設工場を建てるほどに成長した。
   しかし、直後。羽山はどん底に突き落とされる。日本が豊かになるにつれ、ガリ版は古い技術だと斜陽化する中、あのアメリカのゼロックス社が開発した世界初のコピー機が日本上陸。印刷機の市場を牛耳り始め、インクまみれとなる宿命の孔版印刷機の駆逐が始まったのである。
だが、それでも羽山はあきらめなかった。自ら社長の座を格下げし「営業本部長」となり営業にまい進。一方で、「コピー機に勝つハイテク孔版印刷機」の開発に乗り出した。開発には、巨額の費用が必要だったが、羽山は、ある大胆な秘策でそれを乗り越える。
   番組は、昭和55年、世に送られた「世界初の自動孔版印刷機」開発ドラマを取材。「社会に役立つはずだ」と、孔版印刷に人生のすべてを懸けた技術者の「初志貫徹」の物語を描く。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK総合 45min 2005-04-20(2005-04-19の再放送)
Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->G 0332





●プロジェクトX(171) 「ファイト!町工場に捧げる日本一の歌」

 大阪府・守口の町工場街。この町に日本一の歌声と呼ばれる合唱部がある。大阪府立淀川工業高校合唱部。合唱の全国コンクールで10回の優勝を誇る名門校。そして、全国で唯一の工業高校にある合唱部である。昭和54年、淀川工業のある守口は不況のただ中にいた。淀川工業もその影響を受け、卒業生の求人が激減していた。生徒たちは、将来への不安からやる気を失っていた。授業をさぼりゲームセンターに入り浸り、バイクで暴走した。問題を起こす生徒が続出、年に80人もの退学者が出た。そこに一人の新人教師が飛び込んだ。国語教師・高嶋昌二、当時23歳。理想に燃えていた。しかし授業中、生徒たちはマンガを読んだり、弁当を食べたりと見向きもしなかった。高嶋は思った。「歌を通して、生徒たちを変えられないか」。高校、大学と合唱部に所属してきた高嶋。歌うことの楽しさ、上達することの喜びを知っていた。高嶋は勧誘を始め、強引に生徒たちを集めた。菓子を与えたり、餃子をごちそうしたりと、あの手この手で生徒たちにやる気を持たせた。3年後、淀川工業高校に合唱部が生まれた。そして、臨んだ関西合唱コンクール。しかし、周囲は眉をしかめた。「淀工のやつらに歌など歌えるのか」。会場がどよめくなか、淀川工業の合唱が始まった。番組は、一人の教師の情熱が生徒たちを成長させ、合唱日本一獲得に至るまでの日々を描く。
(text from NHK site)

ノイズなし??
NHK総合 45min 2005-05-11(2005-05-10の再放送)
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<プロジェクトX>「番組内容違う」とNHKに申し入れ

 NHKのテレビ番組「プロジェクトX」で取り上げられた大阪府立淀川工業高校(大阪市旭区、長谷川耕三校長)が、「番組内容の一部が事実と異なる」として、NHKに謝罪や再放送の取りやめなどを申し入れていたことが分かった。NHKは番組内容を紹介するホームページからこの回の分を削除した。
 問題の番組は今月10日放送の「ファイト!町工場に捧(ささ)げる日本一の歌」。79年に赴任した新人教師が同高に合唱部をつくり、全国コンクールで金賞を受賞するまでの日々を追った。
 番組は、「当時の同高は荒れに荒れていた」「毎年80人の退学者が出た」「(最初に出場した合唱コンクールで)会場にパトカーがやってきた」などと放送。これに対し、卒業生から「そこまでの事実はない」などの指摘が同高へ寄せられた。長谷川校長は「本校は当時、そういう状況ではなかったと聞いている。当時の関係者が心を痛めており、残念」と話している。NHK広報局は「複数の同高関係者から取材して確認を取っているが、表現に一部行き過ぎた点があったと考えられる。ホームページについては学校側から内容を書き換えるよう要望があり、掲載をいったん外し、学校側と話し合っている」と話している。【油井雅和】
(毎日新聞) 2005- 5月23日20時15分更新


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NHK「プロジェクトX」に“やらせ” 主役教師もNHKに反論

 NHKの看板ドキュメンタリー番組「プロジェクトX 挑戦者たち」(火曜・後9時15分)の放送内容が事実と異なるとして、取材を受けた大阪府立淀川工業高校(大阪市旭区)が、NHKに再放送をしないよう申し入れを行っていたことが23日、分かった。

 問題が起こったのは5月10日放送の「ファイト! 町工場に捧げる日本一の歌」。淀川工業を舞台に、新人教師が合唱部を作って荒れた生徒たちを成長させ、コンクールで日本一を獲得するまでを描いたストーリー。視聴率は10・1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)だった。

 NHKには放送直後から電話やメールで「感動した」などという反響がある一方、同校OBなどからは「事実と違う」などと批判が複数寄せられているという。

 ストーリーの主役として描かれた同校合唱部顧問は、大阪・朝日放送がこの日放送したインタビューで「(パトカーの話は)冗談で話したら、(NHKの)ディレクターが(番組に)入れたというから『うそやから、入れんといて』と言った」「合唱部は学校側から作ってほしいと言われた」などと反論。NHKには削除を申し入れたが「編集が間に合わない」と断られたという。

 番組内では触れられなかったが、淀工には当時から全国レベルの吹奏楽部があり、当時を知る関係者は「ワルの生徒たちの集まりのような“問題校”ではなかった」と指摘している。

◆番組で放送されたのは次のようなストーリー。

 《1979年、淀工の生徒たちは授業をさぼり、ゲームセンターに入り浸りバイクで暴走など問題を起こす生徒が続出し、年に80人の退学者が出た。そこに赴任した合唱経験のある23歳の新人教師が「歌を通して、生徒たちを変えられないか」と、やる気のない生徒たちを集めて3年後に合唱部を作った。関西合唱コンクールに初出場した時には、主催者がパトカーを呼ぶなどしたが銀賞。のちに全国大会に出場し、金賞を獲得した》

◆NHK「表現に行きすぎ」

 NHKでは「番組終了後、学校側から当時学校が荒れていたことの表現や退学者の数などが事実と異なるという指摘がありました。表現に一部行きすぎがあった」ことは認めたうえで、「誠意を持って、学校側と話し合っているところです」とコメント。同局によれば、一部で報じられた番組の制作過程で教師側から「番組をやめてほしい」との申し入れはなかったという。番組については昭和50年代の淀川工業高校の合唱部生徒と教師の奮闘と心の交流を、教育現場の応援歌として作ったものと説明。
(スポーツ報知) 2005- 5月24日8時1分更新


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「事実確認が不十分」と高校に謝罪=「プロジェクトX」でNHK

 NHKが10日に放送した「プロジェクトX」で取り上げた大阪府立淀川工業高校から、「内容が事実と違う」と抗議を受けていた問題で、NHKは25日、「事実確認が不十分だった」として、表現に行き過ぎや誤りがあったことを認め、同校に謝罪した。
 番組は「荒廃した高校を1人の教師が合唱で立て直した」との内容。当時、同校が荒れていた事実はあったが、番組内で表現したほど「荒れに荒れていた」ということはなかった。「退学者が毎年80人」とした点についても裏付けはなく、担当者の思い込みだったという。 
(時事通信) 2005- 5月25日19時2分更新


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NHK番組内でキャスターが謝罪 「プロジェクトX」

 NHKのドキュメンタリー番組「プロジェクトX」が、取材先の大阪府立淀川工業高校(大阪市旭区)から番組内容について抗議を受け、「行きすぎた表現や事実確認が不十分だった」と謝罪した問題で、NHKは31日、同番組内であらためて視聴者に謝罪した。番組の最後に、キャスターの国井雅比古アナウンサーが「誤解を招く結果となったことを深くおわびします」などと述べた。
(共同通信) 2005- 5月31日23時14分更新







●プロジェクトX(172) 「東洋一の巨大ホテル 不夜城作戦に挑む」

約2千棟もの超高層ビルが乱立する日本。40階建ての建物をわずか2年半余りで完成させる驚異の技術力を誇る。昭和38年、その原点となる巨大工事が始まった。「ホテルニューオータニ」。地上17階・1000室、東洋一を誇るホテル建設。実は、東京五輪成功のため、何と、わずか17か月間で設計・施工をすべて終えた空前の突貫工事だった。
 昭和35年、東京。敗戦後続いた一面の焼け野原は、大きく姿を変えつつあった。経済活動の基盤となるオフィスビルが次々建設。その現場に、名うての現場監督がいた。大成建設の技術者・竹波正洪、当時40歳。鋭い頭の切れで「カミソリ」とあだなされた竹波、だがこの時、大きな悩みがあった。工事は、建設用地の条件や天候に大きく左右され、期限通りに進まない。建物の出来は職人の腕一つに頼り切り。施工ミスを見逃せば、完成後も工事が続く状態に陥っていた。「人力頼みの現場では都市は築けない」。天を仰ぐばかりだった。
  昭和38年3月、そんな竹波に、どでかい仕事が舞い込んだ。「1000室の巨大ホテルを17か月で建ててくれ」。当時、東京は戦後最大のイベント・オリンピック開催に沸いていたが、1日3万人と予想された海外からの来訪者が宿泊できる施設は圧倒的に不足。都知事らの依頼に、東京・紀尾井町に広大な土地を持つ実業家・大谷米太郎(当時「大谷重工業」社長)が、畑違いのホテル建設に乗り出したのである。
 現場工事の総責任者となった竹波は、チャンスだと思った。「この工事は、建築界の革命になる」。全国から社内の精鋭技術者200人を集め、工場生産で造った部材を現場で組む前代未聞の工法に打って出た。設計図もない中、土台の基礎工事が始まった現場。竹波は、そこに、コンクリートを流し込まず建物の骨格を造る「柔構造」を採用。更に、壁もアルミ板をカーテンの様に吊り下げる「カーテンウオール方式」を採用した。加えて、長時間の現場工事を要する風呂場の水回りには、世界初の「ユニットバス」を考案。プロジェクトは一気かせいに進んだ。
 しかし、工事が従来の高さ10階を越えたころから現場に異変が起きた。前代未聞の高さに高所作業は遅れるばかり。更に、施主の大谷米太郎が竹波たちに、世界一の大きさ、直径45mの巨大回転ラウンジ建設を要請。絶体絶命のピンチとなった。
  その時、カミソリと呼ばれたリーダー・竹波の破天荒な作戦がさく裂。更に、回転ラウンジには、伝説の巨艦建造に関わったメーカーの男たちが立ち上がった。
  「ホテルニューオータニ」の建築技術は、その後、日本の超高層ビルにことごとく使われた。番組は、そのパイオニアとなった人々を取材。知恵と体力の限りを尽くし、未知の建築に挑んだ17か月間の熱いドラマを伝える。
(text from NHK site)

ノイズなし??
NHK総合 45min 2005-05-17 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)





●プロジェクトX(173) 「命の離島へ・母たちの果てなき戦い」 〜沖縄・公衆衛生看護婦〜

戦後の沖縄の医療を支えてきた女性たちがいた。「公衆衛生看護婦」。島人は親しみをこめて「公看さん」と呼ぶ。感染症予防の衛生指導や母子保健指導など島人の健康維持が主な役割だが、医師が極めて不足していた戦後沖縄では命を守る役も担った。
 昭和20年、日本国内唯一の地上戦が繰り広げられた沖縄。10万人以上の市民が命を落とし、生き残った人々も、マラリアや結核、さまざまな感染症で倒れた。だが、その病を治す術はほとんどなかった。戦前、200人を数えた医師の3分の2が亡くなっていたのである。
  その中、琉球政府の命を受け、立ち上がったのは沖縄出身の看護婦・金城妙子、当時34歳。「医師不足の沖縄。住民の中に入り込み、病気の予防を行う保健婦が重要だ」。昭和25年、東京にある「国立公衆衛生院」の門をたたき、専門知識を吸収。やがて、沖縄に戻った金城は、アメリカ軍政府の女性官僚、ワニタ・ワータワースの提案で、保健婦を離島に駐在させる沖縄独自の「公衆衛生看護婦制度」のリーダーに就任。そこに、100人以上もの沖縄女性たちが故郷の窮状を救いたいと集まった。
  最西端・与那国島から駆けつけた与那覇しづ。自らの息子も、感染症ポリオに冒され右足麻痺。「自らの手で感染症を撲滅したい」と燃えた。更に、西表島の近隣・鳩間島出身の山城ヒロ子。元々、子供が好きで小学校教師をやっていたが、赤ん坊の1割が生後一週間以内に死亡するという島もあるとの事実を知り、職を辞して公衆衛生看護婦の道に懸けた。
 昭和29年、山城は西表島に。翌年には、与那覇が与那国島に順次駐在開始。出産直後の破傷風菌対策に、離島初のレントゲンによる島民一斉検診。二人の活動は、大きな威力を発揮した。
  しかし一方で、与那覇たちを信頼した島民たちは、本来の予防活動を越え、風邪や腹痛、けがなど通常の処置・治療まで依頼するようになった。24時間対応となり、夜も満足に寝られない始末。果てには、自らの子供の世話が出来ず死亡させてしまう事件まで起きる。そして、沖縄の本土復帰が迫った昭和46年、日本政府から沖縄独特の公衆衛生看護婦駐在制の廃止の議論が浮上する。
  瀬戸際に立たされたプロジェクト。その時、女性たちは、沖縄の人々の健康を守るため、最後の闘いに打って出る。番組は、長きにわたり公衆衛生看護婦を勤めた与那覇しづさん、山城ヒロ子さんらの格闘を中心に描きながら、戦後沖縄の離島に散らばり、島人の健康を地道に守り続けてきた多くの女性たちの知られざる壮絶な戦いの日々に迫る。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK総合 45min 2005-05-25 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->おそらくA(HDD廃棄)2010-05-16調査





●プロジェクトX(174) 「名古屋城再建 金のシャチホコに託す」

昭和20年5月14日、アメリカのB29が名古屋を襲った。徳川家康の命で築城された国宝「名古屋城」にも焼い弾が落とされた。瞬く間に城は火の海となった。金のシャチホコも炎に包まれ、溶けて無くなった。残ったのは、石垣だけだった。戦後の復興が進む中、市民にとって名古屋城再建は悲願となった。そんな中、建設費の試算が出た。なんと当時の金額で6億円。復興期の公共事業が続く中で、出せる額ではなかった。どうしても1億円のめどがたたなかった。計画中止の声が上がる中、立ち上がったのは名古屋市内の商店主たちだった。街頭での募金活動、戦国武将にふんしてのパレードなどで呼びかけた。予想をはるかに越えた2億円が集まった。昭和30年、ついに名古屋市は名古屋城の再建を決定した。4年後の市制70周年を記念する一大イベントに位置づけた。名古屋市の建築局にプロジェクトが動き出した。建築基準法で、新たな名古屋城は、コンクリートの耐火構造にすることになった。昭和32年、工事が始まった。建設を請け負ったのは間組。しかし、工事開始後、すぐに大きな問題にぶつかった。石垣が建物の重さに耐えられなかった。石垣は加藤清正が築いたもので、国の特別史跡。石垣を崩さないためにどんな方法があるのか。さらに、シャチホコに金をかぶせる職人が、みつからなかった。城再建にかける、名古屋人の熱き物語をお送りする。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK総合 45min 2005-06-14 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->G 0760





●プロジェクトX(175) 「炎なき台所革命」 〜IHに懸けた30年〜

 今、主婦たちが熱い視線を送る台所器具がある。「IHクッキングヒーター」。火を用いず鍋を加熱、おいしい料理を作りだす。新築住宅3軒に一軒がこれを選ぶ。世界初のIH実用化に挑んだのは、松下電器、入社一年目の若き技術者だった。たった一人で始めた夢の製品作り。そこには、想像を絶する困難が待ち受けていた。
 昭和46年、松下電器に一人の若者が入社した。荻野芳生。「誰も見たことがない、新しい家電製品を作ってやる」、熱い思いを胸に秘めていた。その時、目に留まったのが、前年、アメリカの研究所が発表した一枚の電子回路図。磁力を当て、鍋そのものに熱を発生させる「電磁誘導加熱・IH」の原理が示されていた。聞けば、世界中どのメーカーも、まだ実用化には至っていないという。入社一年目につかんだ“またとないチャンス”。荻野は、たった一人で魔法の調理器に挑み始めた。
  昭和53年、荻野は、家族が鍋を囲む時に使う「卓上型IHコンロ」を完成させた。炎が出ないIH。子供がいる家庭でも安心して使えると、大きな自信を持っていた。だが、当初は好調だった売れ行きも、すぐ減退。当時、市場に登場したガスのカセットコンロに敗れた。
  しかし、昭和62年、荻野は復活の糸口を見いだす。売上が伸び悩んでいた電気炊飯器にIHを導入。これまで出来なかった微妙な火力調節で、釜焚きに負けない米の味を引き出した。そして、荻野は決意した。「IHは本格的な料理にこそ真価を発揮する。台所で使うIHコンロを作ろう」。新製品には、ガスに負けない強い火力が不可欠。2年の歳月をかけ、初の本格調理用IHクッキングヒーターを完成させた。
  だが、またしても売れなかった。磁力で鍋そのものに熱を発生させるIH。軽くて人気のアルミ鍋が使えなかった。二度目の失敗、絶体絶命。その時、荻野は、IH一筋に生きてきた技術者人生のすべてを懸け、仲間と共に最後の勝負に出る。 番組は、度重なる失敗にもめげず、夢の調理器を世に送り出そうと挑み続けた技術者たちの30年に及ぶ熱いドラマを描く。
(text from NHK site)

ノイズなし??
NHK総合 45min 2005-06-21 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)





●プロジェクトXアンコール 「地図のない国 執念の測量1500日」

27年前、しゃく熱の大地アフリカで、日本人測量士が壮大なプロジェクトに挑んだ。「一国の地図をゼロから作る」。それは、4年に及ぶ、文字通り、命を賭けた壮絶な戦いだった。
1950年代、次々と独立を果たしたアフリカ各国。そのなかでも最もしれつな闘争を繰り広げた国があった。西アフリカ・ギニア共和国。「隷属による豊かさよりも、貧しさのなかの自由を選ぶ」。58年、宗主国フランスに対し一方的に独立を宣言。数百年に渡る植民地支配と決別した。
しかし、フランスは反発。ギニアの公共施設を破壊し、国の重要資料のほとんどを本国に持ち去った。そのなかには、後の国づくりの要ともいえる「国土基本図(地図)」も含まれていた。地図がないため、ギニアの開発は行き詰った。道路、鉄道、農地…新たな国土開発のめどすら立たなかった。そして、まもなく世界最貧国に転落した。
1977年、地球の裏側から救いの手が差し伸べられた。日本政府はODA(政府開発援助)としては異例の、総額10億円の予算を提供。ギニアの国土基本図作成に乗り出す。ベテラン測量士・本島建三(当時・52歳)を筆頭に、日本全国から腕利き測量士が集められた。しかし、その作業は困難を極めた。過酷な自然環境。摂氏40度を越す熱風が測量隊を襲った。さらに、ギニア人との深刻な文化の違い。男たちは絶体絶命の窮地に立たされた。
「ギニアを豊かにしたい」という思いを胸に、アフリカの大地と格闘し、やがて現地の人々と心を通わせ一国の地図を完成させた測量士たちの冒険と挑戦のドラマを描く。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK総合 45min 2005-06-28(2003-04-18のアンコール)
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●プロジェクトX(176) 「海のダイヤ・世界初クロマグロ完全養殖」 

 日本人が愛してやまない魚がある。マグロ。すしネタに刺身、日本は世界一の消費量を誇る。その中、身のおいしさから「海のダイヤ」との異名をとるマグロがある。クロマグロ、通称ホンマグロだ。
  昭和45年、このクロマグロの完全養殖に乗り出した研究者たちがいた。「近畿大学水産研究所」。戦後、ハマチやタイ、ヒラメなど数々の養殖を成功させ、日本の食生活に貢献してきた男たちだった。しかし、クロマグロは、これまでの魚とは大違い。全長2.5mに重さ300キロ。しかも、太平洋中を時速80キロで回遊しながら大きくなる。挑戦は、実に、32年に及ぶ長い闘いとなった。
 昭和28年、和歌山県・白浜にある「近畿大学水産研究所」に一人の研究員が入ってきた。原田輝雄、当時28歳。戦中、海軍兵学校へ通っていたが、戦後の貧しい日本食卓の姿に衝撃を受け水産学の道に飛び込んだ。原田は、その後、日本初、ハマチを海の生けすで育てる養殖法に成功。同じ志を持つ弟子、熊井英水と共に、タイやヒラメ、カンパチ、次々と新しい技術で海魚養殖の道を切り開いた。
  昭和45年、そこに、水産庁から思いがけぬ依頼が来る。「マグロ類養殖技術開発試験」のプロジェクト。実は、日本人が最も愛する魚・マグロの漁獲高が頭打ちとなったのである。原田たちは、他の研究機関4か所と共に世界初のマグロ完全養殖に乗り出した。
 しかし、すさまじい距離を移動する回遊魚。しかも、その生態が謎に包まれたクロマグロ。ようやく生け捕りした幼魚は、触っただけで皮膚がすれて死んだ。更に、何とか産卵までこぎ着けても、その後、ふ化した魚がバタバタ死んだ。あまりに難しすぎるマグロ養殖。近大以外の研究機関は、次々、撤退を余儀なくされる。そして、近大も、リーダー・原田の急逝という悲劇に襲われる。
 瀬戸際に立たされたプロジェクト。その時、師匠・原田の意志を受け継いだ熊井が再起。間もなく、メンバーは、再びマグロの産卵に成功。その後起きた、共食いや生けす内での衝突死問題を次々解決。そして、運命の完全養殖成功を懸けた研究所生まれのマグロが再産卵の時を迎えたその時、和歌山に巨大台風が襲いかかる。
 日本人が愛してやまない魚マグロ。番組は、そのマグロの不可能と言われた完全養殖に世界で初めて挑んだ研究者たちの32年間の闘いのドラマを描く。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK総合 45min 2005-07-05 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->G 0088





●プロジェクトXアンコール 「YS11・日本の翼復活 五人のサムライ立つ」

 零戦を始めとする数々の戦闘機を開発し、航空王国と言われた日本。その伝統は、敗戦によって途絶えた。GHQによる航空機の生産・研究・実験の禁止は7年間続き、技術の伝承は最早不可能と誰もが思っていた。
  戦後、神戸の職業安定所に並ぶ失業者の中に、英字新聞を片手に順番を待つ男がいた。土井武夫、47歳。戦闘機「飛燕」など、日本で最も多くの航空機の設計に関わった技術者だった。日雇いまがいの仕事をしながらも、土井はもう一度空を飛ぶ夢を捨てきれなかった。それから10年。通産省は、昭和32年に日本人の手による旅客機開発をぶちあげ、プロジェクトチーム「輸送機設計研究協会(輸研)」を結成した。集まったのは、土井を始めとする50歳を過ぎた「戦闘機」組と、飛行機に乗ったこともない20代の若き技術者だった。両者は、はったりまじりの完成模型(モックアップ)を作り上げ、頭から信用しなかった政府から予算を獲得していった。YS−11開発が緒に付いた昭和34年までを第一部として描く。なお、今回は、2000年7月18日放送の番組に、一部新規撮影映像を加え、再構成として送る。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK総合 45min 2005-07-12 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)





●プロジェクトXアンコール 「YS11・若きリーダー 運命の最終章へ」

 完成模型(モックアップ)の完成後、本格的な設計に入ったYS−11。「戦闘機組」と若者の間に立って、実質的に設計を主導した男がいた。東條英機の次男で、新三菱重工の技術部次長だった東條輝雄だった。
  欧米とのギャップを熟知していた東條は、「輸研」の設計の誤りを正し、YS−11の試作機を完成させる。昭和37年、戦争から17年の空白の後、日本の翼が初めて空を飛んだ。しかし、試作機は横安定性などの問題を抱えていた。それを克服したのは、あえて東條の部下になり設計に協力し続けた土井武夫と、東條のもとで鍛えられていった若手技術者だった。昭和40年、ついにYS−11は就航。誰もが不可能と思っていた航空技術の伝承は果たされた。しかし、その伝統はそれ以降、途絶えたままになっている…。YS−11の成功と挫折を、第二部として描く。
なお、今回は、2000年7月18日放送の番組に、一部新規撮影映像を加え、再構成として送る。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK総合 45min 2005-07-19 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)





●特選プロジェクトX 「悲願のリンゴ 伝説の職人津軽に立つ」

世界中から食品の輸入が相次ぎ食糧自給率の低下が続く日本。そのなかで、他を寄せ付けないメイド・イン・ジャパンの農産物がある。リンゴ「ふじ」。生産量世界一を誇る世界ブランドである。 しかし、その育成の陰には、リンゴ王国・青森の存亡を賭けた農家の人々の壮絶な戦いがあった。昭和30年、青森県の農林省園芸試験所東北支場でとてつもなく甘いリンゴが度重なる品種交配の末、開発された。「東北7号」のちに「ふじ」と名付けられる品種だった。バナナなどリンゴより糖度の高い輸入農産物の自由化が噂される中、青森のリンゴ農家の将来を託したリンゴだった。
しかし、「ふじ」は色づきが悪く、すぐに果実が割れる欠点を持っていた。しかも栽培するには現在のリンゴの枝を切り落とし、そこに新たな品種の枝を付け替える「高接ぎ」をする必要があった。しかし当時、枝を高接ぎすると、そこからウイルスが発生しリンゴの大木を枯れさせる謎の病が広がり、農家は誰もが新品種の栽培に二の足 を踏んでいた。その時、一人の農家が協力を申し出る。リンゴ作りの名人と言われた農家の斉藤昌美だった。「新品種開発以外に青森のリンゴ産業が生き残る道はない」と斉藤は背水の陣で「ふじ」の欠陥克服に挑み始める。
 しかし、ふじを接いだ斎藤のリンゴの木にあの病「高接ぎ病」が大発生。リンゴの大木が次々に腐り始める。
 そして、昭和38年、バナナが輸入自由化され、さらに昭和43年、リンゴの価格が大暴落。ついに、大量のリンゴが山や川に捨てられる空前の「山川市場」が発生。国産リンゴ壊滅の危機が迫る。 数々の困難を克服し、世界を制した果物「ふじ」を育てた青森の農家のドラマ。今回は、皆様からの要望に答え、2003年11月放送分を「特選プロジェクトX」として再び送る。
(text from NHK site)

ノイズなし [GP-1149]
NHK総合 45min 2005-08-30(2003-11-04の再放送) Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)

> 2014-03のダビング依頼を機に映像ファイルをチェックした=ファイルが壊れており再生不可
> GP-407に初送版あり|2014-03にチェックした=ファイルが壊れており再生不可





●プロジェクトX(177) 「回避せよ 東京湾炎上」 〜初の海上交通システムに挑む〜

 日本の海の玄関口・東京湾。一日670隻の船舶がひしめく世界屈指の超過密海域である。かつて、ここは「魔の東京湾」と呼ばれ船長たちに恐れられたが、現在は日本が世界に誇る海上交通のシステムがここを守る。「東京湾海上交通センター」。レーダー技術を駆使し、世界初の船の衝突予測システムを導入。空港の管制塔のごとく、船の動きをコントロールする。しかし、このシステム完成までには、多くの苦難があった。
 昭和42年、日本に衝撃のニュースが届いた。イギリスの沿岸で大型タンカー「トリーキャニオン号」が座礁。深刻な海洋汚染となり、海運の道が閉ざされた。この事故に、日本の経済界は騒然となった。「東京湾で同じような事故が起きれば、国の生命線が絶たれる」。資源無き国・日本。横浜や川崎、東京港を抱える東京湾は、全輸入貨物の3割が集中していたのである。議論は、国会審議にまで発展。まもなく、海上保安庁に安全対策の絶対命令が下り、2つのプロジェクトが動き出した。海上保安官・沖本俊彦らが所属する警備救難部は、タンカーや貨物船など大型船の専用航路を設ける新たな海上交通ルールを策定。一方、灯台など航路標識を作る灯台部は、技術者の豊福滋善が中心となり、船の動きを監視するレーダー網の整備に取りかかった。だが、挑戦は難航を極めた。沖本たちの専用航路作りには、東京湾で操業する地元漁師たちが猛反発。豊福のレーダーは、性能上、ひしめく船一隻一隻を完全に捉えることができなかった。更に、昭和49年には、東京湾で大型タンカーが衝突炎上。20日間も燃え続ける大惨事が発生した。その時、メンバーは、最後の手に打って出た。「東京湾では、航空機のように、船舶すべてを管制下におさめられないか」。世界初の海上交通システムへの挑戦だった。プロジェクトは、海洋レーダーに取り組む沖電気の技術者をも巻き込む総力戦となった。番組は、日本の生命線・東京湾を守るために立ち上がった、海の男たちの知られざるドラマを描く。
(text from NHK site)

ノイズなし [ GP-803 ]
NHK総合 45min 2005-09-06 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)





●プロジェクトX(178) 「北のワイン 故郷再生への大勝負」 〜十勝・池田町〜

昭和50年、北海道十勝平野で日本最北の国産ワインが生まれた。味は、さわやかな酸味と深いコクがある本格派。作り上げたのは、町役場の行政マンたちだった。その前代未聞のワイン作りの陰には、財政破たんの町の再生を懸けた途方もない闘いがあった。昭和31年、漁業に林業、炭坑でにぎわう北海道。その中、池田町は極貧の中にあった。度重なる冷害で米や豆が全滅。農家は税金を払おうにも払えない。町は、戦後「財政再建団体」に指定され自治体失格のらく印を押された。その時、故郷の窮状を救いたいと一人の男が立ち上がった。地元出身、農民運動を続けてきた丸谷金保。丸谷は町長となり、すぐ財政再建策を打ち出した。「町全体にブドウを植え、自治体自らワイン作りに乗り出そう」。町内の山々に自生し、実をたわわに付ける山ブドウにヒントを得た奇策だった。
 しかし、その道のりは想像を超え厳しかった。農家が植えたブドウの苗は、池田の厳しい気候に耐えきれず壊滅状態。野生の山ブドウを集めワイン作りに挑んだが、果汁は発酵せずカビが生えた。丸谷は、町民たちから「ほらふき町長」とののしられるばかり。プロジェクトは、絶体絶命の危機となった。
その時、丸谷の右腕、大石和也が単身ドイツへ飛び、本場のワイナリーに住み込み寒冷地でのブドウ栽培法と醸造法を学んだ。一方、池田に残った部下の横田益宏は、寒い土地でも実のなるブドウの品種探しを開始。間もなく、突破口を見つけたプロジェクトは、前代未聞、日本初の自治体によるワイン大量生産、大量販売に打って出る。
番組は、故郷の財政再建に情熱を燃やした行政マンたちの熱い思いを伝える。
(text from NHK site)

ノイズなし [ GP-813 ]
NHK総合 45min 2005-09-13 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)





●プロジェクトX(179) シリーズ黒四ダム 「秘境へのトンネル 地底の戦士たち」

 戦後最大のプロジェクト、黒四ダム建設を新たに2本シリーズで紹介する。
戦後復興に決定的に足りなかったもの、それが「産業の血液」、電力だった。中でも大河川を持たない大阪地方では停電が続出、工場では毎週2日も停電を余儀なくされ大ピンチに陥っていた。
 昭和26年関西電力が発足、社長には、阪急電鉄の合理化を推し進めた剛腕、太田垣士郎が抜てきされた。大阪の窮状を救うには、巨大ダムによる水力発電、富山・黒部川の利用しかなかった。大正時代から開発が試みられたが、しゅん険な地形に30年間も失敗を繰り返してきた。太田垣はこの難事業に乗り出した。
 昭和31年春、太田垣は資本金の3倍をかけた大工事を決定。ゼネコン5社に特命工事を頼んだ。ダムが得意な間組、トンネルが得意な熊谷組などである。
全国の下請けも参加、史上空前の超大型プロジェクトとしてスタートを切った。
 この工事で最大の問題は、秘境黒部への資材や大型重機の搬送。その役割を担うのが、大町トンネルだった。長野県大町市から北アルプスの中腹を貫いて、ダムの予定地点までの5.4km。挑んだのは熊谷組。中でも、難所ばかりを受け持つ特殊なトンネル集団、笹島班だった。班長、笹島信義以下、メンバー1500人のほとんどが富山の寒村出身。抜群の粘り強さと結束力でトンネルの掘削スピードの日本記録を持っていた。
 しかし、工事には未知の困難が待っていた。建設ルートのど真ん中で巨大な土砂が崩れ落ち、異常出水が起きた。「破砕帯」と呼ばれる謎のぜい弱岩質。吹き出す水の圧力はすさまじく、人を吹き飛ばし、ボーリングの刃先すら拒んだ。工事は、わずか80mの破砕帯を前に半年以上も進まなかった・・・・。後に映画「黒部の太陽」で話題になった、大町トンネル工事、その貫通までの苦闘を描く。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK総合 45min 2005-10-11 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)





●プロジェクトX(180) 「絶壁に立つ 巨大ダム1千万人の激闘」

「黒四ダム」建設を新たに紹介する2本シリーズの第2回。
昭和33年5月大町トンネルが開通。工期が7か月遅れ、ダム本体の建設が始まった。関西地方の電力需要はひっ迫、工期の遅れは絶対に許されなかった。
黒部の絶境に、2億トンの水をせき止め、高さ186mの堤を作り上げる。工事責任者は、間組の大マムシこと中村精に任された。中村は、ダムの基盤となる岩盤掘削の作業が、通常のやり方では間に合わないと判断、大発破で一気に土砂を吹き飛ばす作戦に出た。火薬量は空前の80トン、失敗し岩盤を傷つければ取り返しがつかないことになる。中村は、大発破に賭けた。そして、工期の3か月前倒しを実現した。工事を担ったのは、全国から集められた若者2千人。
 職にあぶれた者、ブラジル移民を考えていた者など、この現場に未来をかけていた。コンクリートの配合、クレーン操作などの分担に別れ、巨大オペレーションが始まった。1つの作業の遅れは全体に響く。のべ20万回のコンクリート打ち込みを4年で完了するためには、1回の運搬を3分以内で行うことが必要だった。現場にストップウォッチを持った監督が立ち、秒単位で管理する現場となった。
 しかし、度重なる困難が襲った。現場を伊勢湾台風が直撃。さらに、現場の岩盤調査を行った結果、予想以上に弱かった。それでも、電力を生み出すため、 中村たち作業員たちはあきらめなかった。昭和38年6月、工期の遅れを見事に取り戻し、ダムが完成。コンクリートの打設の速さは、世界一を記録した。
 番組では、数々の困難に負けず、工期を守りきった男たちの執念を描く。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK総合 45min 2005-10-18 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)





●プロジェクトX(181) 「執念のICカード 16年目の逆転劇」

発行枚数はこの4年で実に2億枚以上。急激な勢いで需要を増やす「魔法のカード」ICカード。カードに内蔵されたIC(集積回路)が膨大な情報を記録。瞬時に無線で通信もできる。駅の改札では切符代わり。買い物の際には財布代わり。さらに入館証など安全管理にも抜群の性能を誇り、21世紀の革命技術と熱い注目をあびている。20年前、この「魔法のカード」の鉄道への導入に挑み始めたのは旧国鉄の技術者・三木彬生たち。手作業だった改札を「ICカード」で効率化しようと始めた。しかしその矢先、時代の荒波を受けた。昭和62年に断行された「国鉄・分割民営化」。37兆円の負債を抱えた国鉄は解体。28万の職員のうち3万人が退職または転職となった。残った職員も配置換えや職場改革の嵐が直撃。未曽有の組織変革だった。三木たちのカード開発も、民営化された会社が導入した磁気式自動改札機を前に「10年は実現不可能」とらく印を押され、IC技術を提供していた開発のパートナー「ソニー」はプロジェクトから撤退を表明。開発途上のカードシステムは闇に葬られる寸前となった。しかし、三木たちはあきらめなかった。「何としてでもこの技術を世に出す」。プロジェクトはICカードの実際の駅での「実地試験」を断行。担当の椎橋章夫は、かつて車両設計を夢見ていたが、民営化の配置換えで駅設備のメンテナンス担当になっていた男だった。心機一転、ICカードを軸とした駅サービスの改革に自身の会社人生を賭けた。今や、情報社会の最先端の技術となる「ICカード」。世界的なブレイクスルーへの契機を築いた技術者たちの、揺れる組織の中で挑んだ16年を描く。
(text from NHK site)

ノイズなし [GP-1215]
NHK総合 45min 2005-11-01 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)





●プロジェクトX(183) 「旭山動物園 ペンギン翔ぶ」 〜閉園からの復活〜

北海道・旭川にある日本最北の動物園「旭山動物園」。水槽を大胆に泳ぐアザラシにペンギン、ホッキョクグマなどが受け、2年連続、夏の集客量で上野動物園を抜きダントツ日本一。一躍、旭川の名を全国にとどろかせている。
 しかし20年前。旭山動物園は客に見向きもされず、まさに「廃園間近」の危機にあった。
 昭和42年、旭川市民の文化向上を目指し設立された旭山動物園。だが、十数年が経った昭和50年代後半、閑古鳥が鳴き始めた。老朽化した施設に、老衰や病で死んだ動物たち。運営する市役所に予算はなく、廃園を求める声まで上がった。その時、立ち上がったのは動物園の獣医・小菅正夫(現園長)。飼育係10人を束ね、前代未聞の挑戦に打って出た。「普段、飼育係にしか見せない動物たちの素顔を、客に見せることはできないか」。その目玉は、客を引き連れ、動物の行動や生態を解説する『ワンポイントガイド』。寂れた園内でも人気があったゴリラのゴンタを切り札に試行錯誤を繰り返した。間もなく、10人のメンバー、総力戦となったガイド作戦。少しずつ客が戻ってきたその時、飼育係たちは、自らが夢に描く理想の動物園の施設を14枚のスケッチにまとめた。ライオンの寝姿をも見せる「もうじゅう館」。自由に飛び回る水鳥の姿を見せる「ととりの村」。そして、ペンギンのダイナミックな泳ぎを見せる「ぺんぎん館」。どれも、他の動物園では決して見られない独創的なアイディアばかりだった。
 しかし、平成6年、感染症エキノコックスでゴリラのゴンタが死亡。風評被害が広がり、動物園は閉園となった。絶体絶命となったその時、プロジェクトに思わぬ助っ人が現れる。日本中から注目され、その珍しい展示方法が話題の旭山動物園。番組は、その原動力となった飼育係たち、20年の闘いを描く。
(text from NHK site)

ノイズなし??
NHK総合 45min 2005-11-15 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1)
--->おそらくA(HDD廃棄)と思っていたらGP-900にあった。





●特選プロジェクトX 「ラストファイト 名車よ 永遠なれ」

日本最高峰のカーレース・日本グランプリ。昭和41年、世界の強豪を初めて破り頂点に立った技術者たちがいた。小さな後発メーカー・プリンス自動車工業の男たちである。 会社の生産規模はトヨタのわずか9分の1。しかし、技術は驚くほど高かった。メンバーの多くは戦前の飛行機技術者。リーダーはあのゼロ戦のエンジンの主任設計者・中川良一だった。当時、会社は窮地に追い込まれていた。外国車の輸入自由化が決定。欧米巨大メーカーの車が押し寄せ、小さな社は倒産すると言われていた。技術の高さをアピールできるグランプリの制覇に、会社の生き残りがかかっていた。昭和39年、プロジェクトは名車・スカイラインでレースに挑む。しかし、最強の敵が現れた。ポルシェ904。ドイツの驚異のレーシングカーにスカイラインは敗れてしまう。さらに衝撃の知らせが届いた。輸入自由化に危機感を抱く政府の主導で、会社は日産へ吸収合併されることが決まったのである。メンバーは、合併前最後のレースとなる次のグランプリで意地を見せると誓った。会社の総力を挙げた究極のレーシングカー・R380を完成させた。そこに待ち受けていたのは、さらに進化を遂げたポルシェの新型車。レースは、激しいデッドヒートとなった。番組は、国際競争の荒波と合併の危機を、その技術力で乗り越えた男たちの伝説のラストファイトを描く。今回は、2004年9月放送の番組を、視聴者の皆様の熱い要望に応え、「特選プロジェクトX」として再び送る。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK総合 45min 2005-11-22 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->G

>GP-895に初回放送分あり
> DR-1965にレンタルDVD版あり





●プロジェクトX(185) 「ベルサイユのばら 愛の逆転劇」 〜宝塚 復活〜

昭和49年、ひとつの舞台が空前の社会現象となった。「ベルサイユのばら」。
 フランス革命の時代に繰り広げられる華麗な愛の物語。2年間で100万人の観客動員を記録した「おばけ舞台」である。だがこの舞台、実は観客減で危機となった「宝塚歌劇団」が、組織の存続をかけて打って出た大勝負だった。
 敗戦まもなく、焼け野原の街に響く歌声があった。「宝塚歌劇団」。東宝・阪急グループの総帥・小林一三が大正3年に創設。戦後まもなく活動を再開し、華やかな公演を途切れることなく行ってきた。
 だが昭和40年代、宝塚の劇場は空席が目立つようになった。敵はテレビ。チャンネルを回せば、憧れのスターが見える。客足は遠のき、「時代遅れ」「お嬢さん芝居」 と酷評されもした。
 「このままでは、だめになる」
 動いたのは、演出部門の若手・植田紳爾。焼け野原で過ごした少年の頃、宝塚の華やかな舞台で心を癒された男だった。手にしていたのは漫画「ベルサイユのばら」。 舞台は華麗なロココの時代。しかも主人公のひとりは男装の麗人・オスカル。
 「これを舞台化すれば、新たな観客を開拓でき、劇団を救うかもしれない」
 だが、制作を発表すると、熱狂的な漫画ファンから「イメージが壊れる」と、カミソリの入りの手紙が殺到。メンバーは「とんでもないことになる」と青ざめた。
 そのとき、演技指導に現れた男がいた。「希代の二枚目」名優・長谷川一夫。歌舞伎の女形出身。300本以上の映画に主演していたが、宝塚からの誘いに、「役者人生50年の全てを教える」と引き受けていた。その長谷川の言葉。「客の心を動かすには、技がなければ駄目だ」
 さらに、とんでもないことを言い出した。
 「漫画の人物の瞳に描かれた星。舞台の上で、輝かせてみせる。」
 今まで350万人以上が見た伝説の舞台。その裏側で、挑戦を続けた人々の知られざるドラマを伝える。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK総合 45min 2005-12-06 Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->C 0325





●プロジェクトX 「悲願の関越トンネル 一発 発破に懸ける」

日本屈指の峻厳(しゅんげん)な山、谷川岳。1977(昭和52)年、そのふもとで空前の工事が始まった。全長11キロ、日本最長の道路トンネル「関越トンネル」の工事である。このトンネルは、「裏日本」とも呼ばれ、物流が厳しかった新潟・越後にとって悲願の道でもあった。わずか8年の間に、山を掘り抜くことを課せられた土木技術者たちは、大量のダイナマイトで一気に掘り進む大作戦に打って出る。「一発発破」に懸けた男たちのドラマを追う。
(text from NHK site)

ノイズなし
NHK総合 45min 2005-?? Air check by Sony Giga Video Recorder v4 Stereo (MPEG-1) --->C 0071








(text from NHK site)

NHK総合 43min 2022-09- Air check by Panasonic DIGA DMR-BCT1060













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●「プロジェクトX」統括のNHKプロデューサー、万引で書類送検へ
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12月1日13時5分配信 産経新聞 2008


 NHKの人気番組「プロジェクトX」の統括プロデューサーだった男性職員(52)が、衣料品店でマフラーなどを万引したとして、警視庁渋谷署に事情聴取されていたことが1日、分かった。同署は容疑が固まり次第、窃盗容疑で書類送検する方針。

 調べでは、11月30日午後6時ごろ、東京都渋谷区宇田川町の「ゼンモール渋谷店」の1階と2階の売り場で、手提げ袋にマフラーやTシャツなど4点(計7300円相当)を入れ、盗んだ疑いがもたれている。店外に出たところで警備員が取り押さえた。当時はバーゲンセール中で店は混雑しており、男性は別の商品を購入した後、再び売り場に戻って犯行に及んだという。

 同店関係者によると、事情聴取した警備員らに「興奮して盗んでしまった」「レジに並びたくなかった」などと釈明。一方で、「自分はこの店でいっぱい買い物をしているんだ。7000円くらいで捕まりたくない。金を払うから許してくれ」などと、許しを請うような態度をとったという。

 「プロジェクトX」は平成12年3月から17年12月まで放送されたNHKの人気番組。男性は番組を統括し、関連した著書もある。

 NHKによると、窃盗容疑で警視庁の事情聴取を受けた職員は、現在はプロデューサー職のトップである「エグゼクティブプロデューサー」で、同広報部は「職員が窃盗容疑で検挙されたことは大変遺憾で、重く受け止めています。事実関係を確認した上で、厳正に対処します」とコメントした。





●プロジェクトX 〜挑戦者たち〜 番組終了へと至った経緯
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出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



◎大幅な誇張
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NHKは公共放送の性質上、報道番組を除けば特定の企業名・商品名などは原則として放送で触れないことになっている。番組開始当初は商品名・製品名のナレーションを避ける傾向があったが、2年目に入る頃には一部の商品名・製品名が読まれるようになり、やらせ疑惑が浮上した。

2年目以降は程度の差こそあるものの、些細な事でも大袈裟に表現することが多く見られた。事実を捏造する演出が特に2年目以降多々あり、取材に協力した企業や団体から放送後に抗議されることも常態化していた。番組側はこの抗議や放送前の修正依頼の殆どに対し「編集が間に合わない」「演出上の問題」「今後改善する」と言いながら全く措置を行わないなど無碍に扱っている。しかし2005年5月にやらせが大問題となり、その後は以前に放送した分のやらせについて外部に告発する者も現れたため、本番組のやらせが大きく取り扱われるようになった。

結果的にこれらが発端となり、ネタ切れで体力の低下していた本番組に衰退と終焉をもたらし、教養・ドキュメンタリー番組そのものの質と信用の低下を招いた。


◎例
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2000年11月28日放送の「よみがえれ日本海」では、神戸から来た災害ボランティアが、地元の青年会議所を指導して三国重油災害ボランティアセンターを作ったことになっているが、実際には当初それぞれが受け入れ窓口を作り、話し合いで一本化したとの批判もある。また、番組に出てきた青年会議所の役員は最後の数週間引き継いだ人物にすぎず、初代の責任者は現職の県議会議員であるために政治的配慮から1カットしか登場しなかったと言われている。

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2001年7月10日放送の「白神山地 マタギの森の総力戦」では、青森・秋田で別々に発生しのちに合同した反対運動が、秋田側の呼びかけで始まったかのように描写された。関係者の抗議を受け、この回のビデオソフト化及び書籍版への掲載は見送られている。

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2002年1月8日放送の「あさま山荘 衝撃の鉄球作戦」では、極寒の中地元住民が機動隊員に対して毎日大量のおにぎりを作って協力したと放送されたが、実際は極寒の中おにぎりなどあっという間に凍り付いてしまう状況で、おにぎりを作って差し入れたのは数回しかなかった。

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2002年9月17日放送の「革命トイレ、市場を制す」では、住宅機器メーカーのTOTOが1980年に開発したウォシュレットが国内初の温水洗浄便座とされていたが、実際には1967年に伊奈製陶(現在のINAX)から発売された「サニタリーナ61」が国内初の温水洗浄便座である。「サニタリーナ61」は便器と一体化したモデルであるが、後付型温水洗浄便座にしても、やはり1976年に伊奈製陶から発売された「サニタリーナF1」が先鞭をつけている。また、番組内で「停車していたタクシーから伸びるアンテナを基に伸縮式ノズルを考え出した」ともあったが、同様の機構は「サニタリーナ」で既に実現しており、辻褄が合っていない。さらに、番組内ではその「サニタリーナ」の存在自体が全くなかったかのように描写されており(伊奈製陶がTOTOと並ぶ住宅機器メーカーであるにも拘らず)、印象操作ともとれる表現がされていた。

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2002年10月28日放送の「カーナビ 迷宮を走破せよ」では、カーナビメーカーのパイオニアが地図データの供給を巡り、住宅地図メーカーのゼンリンに「俺達はソニーと組む」と突き放されたと紹介されたが、実際にはカーナビソフトの規格統一を提言したゼンリンからの申し出をパイオニア一社が断って独立した歩みを選択したものであり、NHKからの取材を受けて社内映像まで撮影させた上に悪役に仕立て上げられたとして、ゼンリンは猛烈な抗議をNHKに対して行った。さらに、パイオニアのカーナビが発売された時、既にユーノス・コスモのオプションとして世界初のGPSカーナビ(三菱電機との共同開発)が搭載されており、パイオニアは単なる後付けカーナビ市販一号でしかなかった。

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2005年5月10日放送の「ファイト!町工場に捧げる日本一の歌」で、取り上げられた側の大阪府立淀川工業高等学校が事実とは異なる点があるとして、訂正と謝罪を申し入れた。放送では「淀川工業高校は荒れていて音楽など全く縁がなかったが、新任の国語教師(高嶋昌二)が他の職員の反対を押し切りグリークラブ(男声合唱部)を設立。合唱を通じて生徒を更生させ、合唱コンクールに出場する。しかしコンクール会場にはパトカーが来ているなど、淀川工業高校の参加に対し主催者側が大きな警戒感を露にした」となっていたが、当時から淀川工業高校は荒れていない平均的な高校であり、前々から吹奏楽部があって全国大会で上位のレベルであった。グリークラブ設立の際も校長自ら早期に賛成している。合唱コンクール参加時も主催側は数ある参加校のひとつとしてしか考えておらず、警戒などする理由もなくパトカーも来ていなかったなど、放送内容の一部が捏造だった。NHK側もこの回については行き過ぎた点があったとし、同年5月28日放送の番組「土曜スタジオパーク」でこれまでの経緯を説明し、担当部長が生出演して謝罪した。また、5月31日の番組終了後にも国井雅比古キャスターが謝罪のコメントを行った。ホームページからはこの回の紹介ページが削除され、放送された事実だけが残されている。書籍版への掲載も見送られた。その後視聴率が悪化して番組の瓦解につながるとともに、NHKが大幅な番組改編を余儀なくされるきっかけとなった。

以上で物語・作品・登場人物に関する核心部分の記述は終わりです。



◎番組の終焉
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NHKは経営改革をアピールするため、2006年春に大規模な番組改編を予定し、その一環として2005年度末に該当する同年3月に番組を終了する方針を固めていた。後続番組に関しては、同年度より『NHKニュース10』が廃止され、『NHKニュース9』が1時間番組に拡張される予定であった。しかし、最末期には裏番組の『ロンドンハーツ』(テレビ朝日)や『ズバリ言うわよ!』(TBS)、さらに『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京)と比べ、人気を下回った。前述の捏造も影響し、その後も視聴率の下落が止まらず、さらに早めて2005年12月28日放送分で打ち切られ、5年9ヶ月の歴史に幕を閉じた。最終回では総集編を放送した。


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